エリザベート
https://noctiluca94.blog.fc2.com/blog-entry-550.html 【「黄泉の国」はどこにある?ANOTHER WORLDの「あの世」、MESSIAHの「ハライソ」との関係は?│エリザベート】
より
今更ですが「黄泉の帝王」って何でしょう?またの名を「死」。擬人化された「死」が、人間の女性を愛する『エリザベート』の物語。
実は私、観れば観るほど「トート」がよく分からないのです。ある日に掴めたと思っても、別の日には違う顔を見せる。捕らえたと思ったら、するりと逃げていく。
トートのお衣装のモチーフにある玉虫色のように、観る角度によってまったく違った姿で現れる。「舞台はなまもの」という言葉が、いつも以上に強く感じられる今回の月組『エリザベート』です。
あえて、「トートとはこういうものである」と決めつけなくても舞台は面白く観られますが、せっかくなのであれこれ思い巡らせたことを残しておきます。
『エリザベート』という作品を紐解くには様々な方面からのアプローチが可能ですが、まずはこの3点。
(1)「黄泉の国」とはどこか?
(2)「トート」とはなにものか?
(3)トートとエリザベートはどこへ行くのか?
長くなりますので前中後編に分けて書きます。
* * *
(1)「黄泉の国」とはどこか?
そもそも、『エリザベート』という作品世界の「黄泉の国」はどこを指すのか?
最近宝塚で上演された作品と比較しながら、トート閣下の居場所である「黄泉の国」の場所を探っていきます。
まずは、星組。
恋煩いで死んだ康次郎(紅ゆずる)が「あの世」で巻き起こす、温かくも愉快な騒動を描いた『ANOTHER WORLD』。
そして、花組。
島原の乱の指導者として伝説な存在である天草四郎時貞(明日海りお)を、新たな視点で描いた『MESSIAH』。
いずれも「あの世」「ハライソ(天国)」が重要なモチーフとなります。
『エリザベート』の「黄泉の国」と『ANOTHER WORLD』の「あの世」、そして『MESSIAH』の「ハライソ」とは何なのか?
いずれも「死後の世界」ではありますが、(元になる教えの違いはさておき)これはすべて同じところを指すのか?
* * *
「あの世」は、善なる者も悪なる者も区別なく行き着くところですね。「ハライソ」はその一歩先の「パラダイス(楽園)」。神の祝福を受けた者だけに開かれた場所です。
『ANOTHER WORLD』で言うところの「極楽浄土」。
白妙なつさん演じる天女に導かれる先。
「天国(ハライソ)」の反対は「地獄(インヘルノ)」。
『ANOTHER WORLD』では、閻魔大王(汝鳥伶)のお裁きにより、お仙さん(紫月音寧)や右大臣(漣レイラ)・左大臣(紫藤りゅう)が地獄に堕とされました。
『MESSIAH』の松倉勝家(鳳月杏)は間違いなくインヘルノ行きでしょうね。
「あの世」は死者たちの「待合所」のようなものでしょうか。
閻魔大王の沙汰を待ち、地獄か極楽か、行き先が決まるまでのかりそめの居場所。
※『ANOTHER WORLD』の作中では、「あの世」=待合所も地獄も極楽もひっくるめた「死後の世界」を指すように思いますが、主に康次郎たちが活躍した場所ということで、この文中では「待合所」のみと定義します。
「ハライソ」は「煉獄」で罪を清めた者たちが辿り着く楽園。
* * *
すると、「黄泉の国」とはなんでしょう?「天国」「地獄」「煉獄」ならば分かりますが、「黄泉」とは?大雑把に「死後の世界」を指すのでしょうか?
中部ヨーロッパを舞台にした『エリザベート』の作品世界においての「黄泉」の定義がいまいち不明瞭なのです。「黄泉」と聞けば、真っ先に日本神話の死者の世界「黄泉の国」が思い出されます。ルキーニは「煉獄」で裁判にかけられているのですよね?裁判長に追い詰められ、トート閣下に口添えを求める。ルキーニの求めに応じて姿を現すトート。トートはどこからやって来るのか?黄泉の国?
トートがいる「黄泉」と、ルキーニがいる「煉獄」の関係は?よく分からないので、「黄泉」について調べてみました。
すると…『新約聖書』の中の「ハデス」という言葉が「黄泉」と訳される、とありました。
「ハデス」の定義は様々あるようですが、そのひとつ「死から最後の審判、復活までの期間だけ死者を受け入れる中立的な場所」との記述が目に止まりました。
「ハデス」といえば、子どもの頃に親しんだギリシャ神話に登場する冥界神ハデスと同じ名前ではありませんか。
なんとなく頭の中のモヤモヤが晴れてきました。
ところで、なぜトートは「黄泉の帝王」なのでしょう?私としては、またの名の「死」の方がしっくりくるのですが。
エリザベートマニアの連れ合いに訊いたら「宝塚的に“死”はNGだったんじゃない?」と。
今でこそドル箱作品の『エリザベート』ですが、初演当時は賛否両論だったそうで…さもありなん。
(「初演は何回も観れたよ」と信じられないことを申します)苦肉の策としての「黄泉の帝王」呼びだったのかもしれません。「あの世の王様」ではカッコがつきませんものね。
それはさておき、ギリシャ神話の冥界神ハデスの名前が出たことで私の長年の鬱屈を解きほぐす手がかりが得られました。
https://noctiluca94.blog.fc2.com/blog-entry-553.html 【「トート(死)」とはなにものか?-珠城トートとギリシャの神々│エリザベート】 より
宝塚版『エリザベート』に関する3つの疑問。(1)「黄泉の国」とはどこか?(2)「トート」とはなにものか?(3)トートとエリザベートはどこへ行くのか?
今回は(2)の「トート」とはなにものか?について書きます。
* * *
(2)「トート」とはなにものか?今まで10人のトップスターが演じた宝塚版トート。
通常の作品と違い、概念である「死」の役には実体と生活を伴う「人間」には当然備わっているべき情報が一切ありません。
(トートの役作りについて、詳しくはこちら→「父なるトート、母なるトート」圧倒的な力強さと包容力を併せ持つ珠城トート│エリザベート)
つまり、いかようにも作り込むことができる。
演じ手の解釈により十死十色のトートが生まれます。観客も「私は○○さんのトートが好き」。好みの差こそあれ、優劣・正誤はありません。
ちなみに私は(映像で観たのみの)一路トートの在り方が一番好みです。「どのトートが好きか」は、その方にとっての「“トート”とはなにものか」の答えでもあります。
今回の月組『エリザベート』のトート(珠城りょう)から受けた印象は「シシィの魂の伴侶」でした。
(詳しくはこちら→珠城りょう×愛希れいか、魂を分け合ったトートとシシィ│エリザベート)
それはさておき、観劇しながら絶えず頭の中に浮かんでは消える思いがありました。
すなわち、「“トート”とはなにものか?」
宝塚の舞台で「死」の概念そのものを主役に据えることはできません。
(少なくとも大劇場公演では。バウホールなら可能かも)
したがって、便宜的に「トート」にヒトの形を与えた。
では、トートはどこまで「人間」に近づけてよいものなのか?
超自然的な「死」が、たったひとりの人間に心乱される図が不思議で…「死」が生き生きと(?)「愛(生)」を謳い上げるのが、いまいちピンとこず。
「死」は静かに迫りくるもの、または激しく奪うものというイメージから抜け出せなかったのですね。
「死」は人間と親しいものではなく、超越するものである。
結局、私がトートという役に対し抱えていた長年のわだかまりは、ここに尽きるように思います。違和感の一番の原因はトートの「人間らしい感情、ぬくもり」だったのです。
もちろん、トートを演じる生徒さんの熱演は素晴らしい、楽曲も最高、無駄のない筋運びは面白い。しかし、トートをどう捉えればよいのか自分の中で迷いがあったのです。
作品そのものは楽しみつつも、なんとなく釈然としないまま『エリザベート』の舞台を観ていた私。
* * *
前回の記事で「“黄泉の国”はどこか」と考える内に、もうひとつの考えがひらめきました。
キーワードは、ギリシャ神話。
『新約聖書』の中の「ハデス」という言葉が「黄泉」と訳される場合がある。
「ハデス」はギリシャ神話の冥界神ハデスに由来するものである。
このことから新たな連想が働いたのです。
ご存じの通り、神話の神々はとても人間臭いですね。
(一部の神に限った話ですが)わがまま、嫉妬深い、好色、怒りっぽい、理不尽…
人間の女に横恋慕して騒動を巻き起こしたりして。
子どもの頃は「これが神様??」と思いつつ、児童向けの本を読み進めたものです。
神話の神々は何かに似ています。そう、トートです。
『エリザベート』における「死(トート)」の在り方に対する疑問が氷解したのは、このとき。
ハデス神がトートに近しいものであった場合、宝塚版『エリザベート』のトートの人間臭さは納得がいく、と。
(ハデスは冥界を統べる神であって、「死」そのものではありませんが)
人間の女(エリザベート)に魅入られたトートが、彼女を手に入れるため積極的に人間界に関与する。
であれば、トートは若々しい美青年の姿をし、感情を露わに人間に迫ってもよいのです。
ギリシャ神話でいえば「レダと白鳥」「エウロペと牡牛」のように、超自然的な存在が姿を変えて人間と恋をする。
そうか、こういう観方をすればよいのか、と腑に落ちました。
さらに進んで、こんな考えもできます。
全能の神は人間の女に近づくため鳥や動物に姿を変えた。
しかし、『エリザベート』の場合、主体は彼女にある。
トート(死/安息/自由/解放)は、エリザベートが欲したから出現した。
その望む姿で。
であればこそ、トートは恐怖を呼び起こすような死神ルックや獣などの姿ではなく美青年の姿として現れた。
シシィの心に共鳴するトート。
するとやはり、珠城トートと愛希シシィは「分身」「鏡像」であるとの結論に落ち着きますね。
黄泉がどーの、ギリシャ神話がどーの、あちこち回り道をしましたが…
どの道筋を通っても、結局同じゴールにたどり着いたことに我ながら驚いています。
もちろん、結論ありきではなく、思い浮かんだことを芋づる式に引き出したら、最終的に同じところに着地したのですが。
山梨側から登っても、静岡側から登っても、富士の頂上はひとつ、という感じでしょうか。
ともあれ、トートに対する疑問「“トート”とはなにものか?」に決着がついて、すっきりしました。
https://noctiluca94.blog.fc2.com/blog-entry-554.html 【エリザベート』最大の謎!トートとシシィはどこへ向かうのか?】 より
宝塚版『エリザベート』に関する3つの疑問。
(1)「黄泉の国」とはどこか?
(2)「トート」とはなにものか?
(3)トートとエリザベートはどこへ行くのか?
最終章は、(3)トートとエリザベートはどこへ行くのか?について。
* * *
(3)トートとエリザベートはどこへ向かうのか?
『エリザベート』のラストシーン。
スモークの流れる純白の世界。
現世のしがらみから解き放たれ、身ひとつで佇むシシィ(エリザベート)。
黄泉路の入り口でシシィを待ち受けるトート。
真っ直ぐにトートの胸へ飛び込むシシィ。
固く抱き合ったまま、光の階段を上昇するふたり。
ん?
なんだか違和感。
「死」が天へ昇っているように見える?
シシィが天に迎えられるのならば分かるのです。
人間ですから。
では、トート(死)はどこへ向かおうとしているのか?
トートとシシィが昇る光の階段はどこにつながっている?
このラストシーンはどう受け止めればよいのでしょうか?
* * *
エリザベートマニアの連れ合いに、最後の場面をどう捉えるか訊いてみました。
返ってきた答えは「そこは突っ込まない!」。
…でも気になる。
手持ちの材料のみでラストシーンを紐解くとすれば、これは「シシィの心象風景」でしょう。
擬人化された「死」、トート。
前回、ギリシャの神々とトートの関係について書きましたが、こちらに寄せて考えれば「シシィとの恋愛の成就」。
かたや、トート(死)はあくまでもシシィの心が生み出した幻影であるとすれば「シシィの魂の救済」。
生涯、自由と安息を求め続けたシシィにとって、「死」の腕に抱かれるとはどういうことか?
「涙 笑い 悲しみ 苦しみ 長い旅路の果てに」
生きて、生きて、生き抜いた末に見た「死」の姿。
シシィの目には永遠の安らぎと映ったでしょうか?
* * *
「死」とは何か?
私には分かりません。
未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。
死後の世界を知る者が、この世に誰ひとりいない限り、その描き方は自由。
そして、どう受け止めるかも自由。
ラストシーンは、「トートとシシィの恋愛成就」と「シシィの魂の救済」の折衷でしょう。
これを演劇的に宝塚的に美しくまとめた結果が、光の階段を上昇していくふたりの姿となった。
結果、あろうことか「トート」が天へ昇っているように見えてしまうのですが。
一般に「光の階段」といえば天に続くものです。
しかし、「黄泉」が光あふれる世界であってはならない理由はありません。
先入観として、「黄泉」「冥界」は薄暗く陰気なイメージですが…
トートは「今こそ お前を 黄泉の世界へ迎えよう」と歌い、シシィは「連れて行って 闇の彼方 遠く 自由な魂 安らげる場所へ」と返す。
それならば、シシィにとって安息の地が、闇の彼方のまばゆい世界として描かれても何ら不思議はありません。
演出の記号として、「白い服をまとった登場人物」「ホリゾントいっぱいに流れるスモーク」「光の階段」とくれば、「天に昇った人」「天上界」を指します。
しかし、たとえ「黄泉の国」へ行くとはいえ、トップコンビが「真っ黒い服」で「暗闇」にせり下がっていくのでは、スカッとしません。
ここはどうしたって、荘厳なコーラスを浴び、白い服で光の階段を昇るふたりを見なければ、観客はカタルシスを得られませんね。
よって、トートとシシィの行く先は、シシィにとっての安らぎの世界、光り輝く「黄泉の国」であると結論します。
* * *
これで、宝塚版『エリザベート』に関する3つの疑問(1.「黄泉の国」はどこか? 2.「トート」の正体 3.トートとエリザベートの行く先)の答えはすべて出揃いました。
長らくお付き合いくださり、ありがとうございました。