東京 (27/09/20) 江戸城 (5) 外曲輪12門 / 外濠 (5) 大名屋敷 大塚/早稲田
- 根津神社
- 団子坂
- 光源寺 (駒込観音)
- 桑名藩松平家抱屋敷 (大塚公園)
- 守山藩松平家上屋敷 (占春園、智香寺)
- 武家屋敷門
- 護国寺
- 熊本藩細川家下屋敷 (細川庭園)
- 清水徳川家下屋敷 (甘泉公園、水稲荷神社)
- 高田馬場
- 尾張藩下屋敷 (戸山公園、箱根山、穴八幡神社)
- 彦根藩伊井家下屋敷 (大隅庭園)
一昨日、昨日と終日雨で自転車での史跡巡りがなかなかできず、見学予定していた文化財や史跡は進んでいない。今日から晴れと言うことで、気張って出発。今日は大塚、池袋、早稲田地区の大名屋敷を中心に巡る。どれだけ、見れるだろう。
根津神社
泊まっているホテルの近くに、日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝わる古社がある。今日の訪問地への途中にあるので寄ってみる。現在の社殿は1706年 (宝永3年) に甲府藩主徳川家宣 (六代将軍) が献納した屋敷地に造営されたもので、五代将軍 徳川綱吉が世継が定まった際に権現造と言う本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造った。空襲にも損傷は免れて、本殿、幣殿、拝殿、唐門、西門、透塀、楼門がそのまま残っている。貴重な文化遺産だ。それ以前は文明年間 (1469年-1486年) に太田道灌により社殿が造られ、万治年間 (1658年-1661年) にそこを太田氏屋敷としたため、東方に移り、更に団子坂上に遷座し、その後、現在の場所に移って来た。当時は門前には根津遊郭が造られ大いに賑わっていただろう。(後に州崎遊郭へと移転)
[参道口門 (写真右上)と北門(写真左上)] まずは裏門にあたる北口から入り、正面口の参道口門まで向かう。
[楼門 (写真左上)、舞殿 (写真右上)、手水舎(写真左下)、透塀 (写真右下)]
[透塀 (写真左上)、西門 (写真右上)、本殿透塀 (写真左下)、唐門透塀 (写真右下)] いずれも300年も前の1706年に造られ、現存する国重要文化財となっている。
[乙女稲荷神社] 根津神社の末社の乙女稲荷神社が本殿に隣接している。千本鳥居を進んだところに拝殿がある。
[胞衣塚] 千本鳥居の脇に胞衣塚なるものがある、六代将軍 徳川家宣の胎盤が納められている塚だそうだ。父の松平綱重の屋敷だったので、ここで誕生した時のものなのだろう。(後世に作られたのかもしれないが...)
[駒込稲荷神社] この場所は元々は六代将軍の徳川家宣の父の松平綱重の山手屋敷があった場所で、その邸内社である駒込稲荷神社が残っている。
[庚申塔] 神社近くにあった庚申塔を集めてここに祀っている。
団子坂
つい先ほど訪れた根津神社が元々はこの団子坂をあがった所にあった。面白い名前だ。昔は坂の下に団子屋があったので、そう呼ばれるようになったと言う。(別の説は急坂で雨降りの日に転ぶと泥まみれの団子のようになるとある) 東京には多くの坂があり、それぞれに名前が付いている。その多くは案内板が建っており、簡単に解説がしてある。これは嬉しい。当時の様子を想像する助けになる。東京は観光客が多いので都も史跡整備は充実しているように思える。
光源寺 (駒込観音)
団子坂を上り切り、道を進むと、キリスト教会の様な建物の仏教寺院があった。新しく建てられたのだろうが変わっているので寄ってみた。光源寺で、そこそこ知られているらしい。この光源寺の開基は仙石権兵衛と書かれていた。仙石権兵衛は好きな武将の一人なので、少しこの寺が身近に感じられる。1589年 (1589) に神田に創建された後、1648年 (慶安元年) に現在地に移転したと書かれていた。変わった形の建物は十一面観音像を納める堂だった。この十一面観音像は、東京大空襲で焼失したのだが、平成5年に再建されたもの。江戸時代では観光名所にもなっていたそうだが、今は訪れる人もそれ程多くなさそうだ。
次に大名屋敷があった池袋、大塚方面に向かう。
桑名藩松平家抱屋敷 (大塚公園)
春日通りの新大塚駅の近くには大塚公園がある。この周りは徳川家康の異父弟の松平定勝が初代藩主であった桑名藩の抱屋敷があった場所。正確には公園の場所は白河藩松平長門守のの屋敷でその隣に桑名藩松平家抱屋敷があった。
[大塚地蔵尊]
この近くにあった地蔵や庚申塔をこの公園内に集めてきている。
[住好社]
大塚公園の南には桑名藩邸内にあった住好社が建っている。就職で東京に来た時、初めて住んだのがこの近くで、この辺りは何度も通った場所だが、住好社には気づかなかった。
守山藩松平家上屋敷 (占春園)
守山藩初代藩主 頼貞が1659年 (万治2年) にここに屋敷を構え、屋敷内には占春園を造園している。屋敷跡地は現在では、筑波大学東京キャンパスや筑波大附属小学校になっており、その他、教育の森、智香寺などがある。この占春園も残っている。
[教育の森] 屋敷跡地は教育の森になっている。
[占春園] 守山藩松平家上屋敷内にあった庭園は筑波大学東京キャンパス内の占春園として公開されている。水戸徳川家の水戸光圀の弟である水戸藩の支藩 常陸額田藩の藩主だった松平頼元が屋敷を構えた際にこの占春園も造園した。(松平頼元の子である松平頼貞の代に常陸額田藩から陸奥国守山藩に移封された。) この占春園は数年前までは荒廃して中に入れなかった状態だったのだが、2020年東京オリンピック前に整備しようということで筑波大学同窓会が中心となって、なんとか今の状態まで持ってきている。
[智香寺] 昨年訪れた傳通院の末寺である智香寺が占春園の近くにある。元々はここにあったのではなく隣にある竹早公園にあった。今は住宅街の片隅に限られた敷地に移転している。小さな寺なのだが、実はこの寺は智香寺学園を経営しており、埼玉工業大学を運営している。
武家屋敷門
護国寺に向かう途中に見つけた武家屋敷門。門はなんとか昔の面影を保っているが敷地内は今風の家に変わっており周りは高層マンションが立ち並んでいる。
護国寺
1681年 (天和元年)、徳川綱吉は母の桂昌院の願いをうけ、高崎の大聖護国寺に高田薬園の地を与え、桂昌院の祈願寺護国寺の建立を命じたのがこの護国寺の始まり。護国寺は幕府の祈願寺であったので、一般の人々には解放されず、檀家を持たなかった。明治維新後は幕府からの経済的サポートがなくなり、経済的苦境に陥った。その解決として、境内地半分の東側を宮家の墓所 (豊島岡墓地) とした。西側も陸軍用墓地となり、境内は5万坪から2万坪ほどに縮小。縮小されたとはいえ、今でも立派な大きな寺院だ。
浮世絵に描かれた護国寺
[惣門] 護国寺への入り口。現在は使用されていない。社寺系門ではのなく、大名屋敷の表門の形式で建てられている。
[仁王門] 建立は、17世紀末か18世紀初頭と考えられている。正面両脇に金剛力士像背面(北側)の両脇には二天像 (増長天、広目天) が安置されている。
[不老門] 仁王門と本堂の中間に建立された門であるが、建てられたのは比較的新しく1938年 (昭和13年) 江戸時代にはあったのだろうか?
[鐘楼] 不老門をくぐり右側には鐘楼が建っている。1682年 (天和2年) に寄進され、銘文には五代将軍綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられている。
[大師堂] 1701年 (元禄14年) に再営された旧薬師堂を、大正15年以降に大修理し、現在の位置に移築して大師堂にしたもの。
[多宝塔] 昭和13年に建てられたもので、石山寺の多宝塔を真似ているそうだ。
[月光殿] 大津市の三井寺の塔頭日光院の客殿を昭和3年に現在の場所に移築したもの。
[薬師堂] 1691年 (元禄4年) に建てられた一切経堂を現在の位置に移築し薬師堂として使用している。
[忠霊堂 (写真左)] 日清戦争で戦死された軍人の遺骨を埋葬するために1902年(明治35年)に建立。
[円成庵、不昧軒 (写真右)] 境内の端に茶室がこしらえられている。これは大正14年に護国寺を整備する過程の中で作られたもの。
[観音堂 (本堂)] 1697年 (元禄10年)、約半年余りというスピードで完成した本堂。戦火を潜り抜け当時の姿で今も残っている。
[三条実美の墓] 境内に三条実美、山県有朋、大隈重信、鳩山邦夫、團伊玖磨、梶原一騎、大山倍達など有名人の墓所があるそうだが、三条実美と大隈重信と安田善次郎の墓を見つけた。
[大隈重信の墓] 相当立派な墓だ。誰の墓かと思っていたら早稲田大学創始者の大隈重信だった。
[安田家墓所] 安田銀行 (後の富士銀行、みずほフィナンシャルグループ) や現在の損害保険ジャパン、現在の明治安田生命保険、東京建物等を設立した安田善次郎の墓。ここも立派な墓所になっている。
境内にあった仏像たち
熊本藩細川家下屋敷 (細川庭園)
江戸時代中期までは幕臣の屋敷だったものが幕末に54万石の細川家の手に渡り下屋敷となった。屋敷跡の神田川沿いの南側は目白台の台地 (関口台地) の地形を利用した池泉回遊式の細川庭園として残っている。
東京都が買収し1961年 (昭和36年) に東京都が細川家より買収し新江戸川公園となり、無料で公開されている。ここも何度も通った場所だが、細川庭園とは知らなかった。
庭園が当時の姿のままなのかはわからないが、細川家が1961年 (昭和36年) まで所有していた事や当時の庭園地域がそっくりそのまま公園になっていることから考えると、非常に近い形で残っている様に思える。
庭園は綺麗に整備されっており、近所の人たちにとっては、絶好の散歩コースだろう。神田川沿いには遊歩道があり、ここは良い休憩場所になる。
清水徳川家下屋敷 (甘泉公園、水稲荷神社)
甘泉園は、徳川御三家の尾張藩徳川清水家初代 徳川重好 (清水重好) が、1774年 (安政3年) に拝領した下屋敷に造園した回遊式の日本庭園。清水家下屋敷は明治維新後まで存在していたが、その後は旧岩城中村藩主の相馬家 (相馬子爵家) の所有となり、庭園に改修を施し、現在の庭園はその際の名残。その後、早稲田大学や東京都の所有と変遷を経て現在は新宿区立公園となっている。
公園内には清水徳川家所縁の茶室もある。ここも散歩するには気持ちの良いところだ。
隣接する水稲荷神社 (旧称 冨塚稲荷、俗称 将軍稲荷) のもかつては甘泉園の一部。湧き水は清冽で茶に適したところから命名されたという。この水稲荷神社境内でも湧水があったそうで、眼病に効くと評判になり、更に水商売および消防の神様として有名となっていた。
この水稲荷神社境内でも湧水があったそうで、眼病に効くと評判になり、更に水商売および消防の神様として有名となっていた。社殿の裏に水神社があり、ここにお参りに来ていたのだろう。
境内には高田富士 (戸塚富士、富塚富士) とよばれる江戸中最古の富士塚があ利、事前nに調べていたのだが、ここにいくのを忘れてしまった。次回東京に来る時にもう一度戻ってみることにする。
高田馬場
江戸時代の地図を見ていると尾張藩徳川清水家下屋敷の南に高田馬場と書かれてある。あの赤穂浪士の堀部安兵衛が菅野に助太刀をして名を挙げた「高田馬場の決闘」の場所なのかと調べるとそうだった。1636年、徳川三代将軍家光により旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのため造営された馬場。水稲荷神社の入り口に堀部安兵衛の「高田馬場の決闘」の顕彰碑が建っていた。これが建てられたのは明治43年で日露戦争後に忠臣蔵のブームが巡ってきた時だそうだ。1728年 (享保13年)に、徳川8代将軍吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願のために穴八幡宮に流鏑馬 (やぶさめ) を奉納し、この高田馬場で行われていた。現在の高田馬場は住宅街になっており、馬場跡を偲ぶものは残っていない。現在も高田馬場流鏑馬は続いており、戸山公園で開催されている。(穴八幡宮と戸山公園はこの後訪問した)
尾張藩徳川家下屋敷 (戸山公園、箱根山、穴八幡神社)
現在の戸山公園箱根山地区一帯は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷だった。
2代藩主徳川光友により、回遊式庭園の戸山荘 (戸山山荘) として整備され、敷地内には箱根山に見立てた築山の玉円峰 (現在の箱根山)、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられていた。現代でもよくあるミニチュアワールドと思っていたのだが、驚く事に実物大の宿場のたたずまいを再現していたという。御町屋 (おまちや) と呼ばれ、米屋、鍛冶屋、問屋場、炭屋、油屋などが軒を並べ、将軍御成や藩主滞在の折には、各々店を開いて、そこでの売買の様子を再現していたという。酔狂な趣味の様に思える。余程の金持ちだったのだろう。
この下屋敷は1667年 (寛文7年) に2町ほどの畑を購入したのが始まりで、その2年後には牛込済松寺から寺領4万6千坪を譲られ、更に2年後の1671年 (寛文11年) には四代将軍家綱からは8万5千坪を拝領し、広大な下屋敷となった。明治維新後は明治政府に明け渡され、陸軍戸山学校が開かれ、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用されていた。
穴八幡神社
尾張藩徳川家下屋敷の北側に隣接して穴八幡神社がある。この神社は1062年 (康平5年) に源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀った事から始まる。1636年 (寛永13年) には、ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神とした。1641年 (寛永18年)、神社の増築の際に横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、以来、穴八幡宮と称するようになり、3代将軍徳川家光は、穴八幡宮を幕府の祈願所、城北の総鎮護とした。
高田馬場のところで書いたのだが、8代将軍徳川吉宗の時代、1728年 (享保13年) に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納し、流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納された。当時は穴八幡神社の境内で行われていたが、現在はこの戸山公園で行われている。
彦根藩伊井家下屋敷 (大隅庭園)
彦根藩・井伊家の「下屋敷」は2箇所あり、この場所はその一つ。もう一つは現在の明治神宮。「清正の井」のあるこの地は江戸時代、加藤家の下屋敷があり加藤清正の子忠広が住んでいたが、加藤家改易の後井伊家の下屋敷となった。
現在は大隈庭園となっている。江戸時代には彦根藩・井伊家、高松藩・松平家の江戸下屋敷の池泉回遊式庭園があり、近江八景をもとにしていたという。早稲田大学の創設者である大隈重信は明治時代にこの地を購入し、洋風を取り入れた和与折衷庭園に改修したのが大隈庭園。一般公開されているのだが、ここに着いたのは5時を過ぎて、閉園となっていた。次回東京に来た時にもう一度来てみよう。
ここで日没近くになり、今日はこれで終了。