【郷土史談】百目鬼(どうめき)と宇都宮城の起源について!
https://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=3495655&id=1963348767 【【郷土史談】百目鬼(どうめき)と宇都宮城の起源について!】 より
ふとしたきっかけでとあるパンフレットを手に取る機会があり、そこでは「百目鬼(読み:どうめき)」と「藤原秀郷」がキャラ化されていて、目を引きつけられた。 それはスタンプラリーならぬ、「シールラリー」というイベントのようで、宇都宮市の活性化に一役買っているらしい。
パンフレットの内容に関連したURLは以下
http://www.sankei.com/region/news/171005/rgn1710050028-n1.html
【宇都宮で街おこしシールラリー 妖怪「百目鬼」探して魅力発見】
妖怪「百目鬼(どうめき)」をテーマに、宇都宮の街中を巡ってもらうシールラリー「百目鬼を探せ!」が始まった。31日まで。印刷会社、みやもと(宇都宮市)が企画、宇都宮市民シティプロモーション支援事業に採択された街おこし事業。市民にもあまり知られていない歴史や民話に触れ、街の中を周遊することで新たな市の魅力を知ってもらう。
「百目鬼」は、平安時代の武将、藤原秀郷(ひでさと)が宇都宮で退治したとされる。秀郷は宇都宮二荒山神社で勝利を祈願し、平将門を倒した功績で下野・武蔵の国司を務めた。これらの歴史と民話を知ってもらおうと、宮本誠社長(48)と妖怪好きのスタッフらで企画。宇都宮のヒーローとしての秀郷と、妖怪「百目鬼」のオリジナルキャラクターを制作した。
シールラリーでは、マップを元に百目鬼の3Dフィギュアが潜んでいる5つのチェックポイントを巡り、目玉シールを集めた後、みやもと3Dメイカーズバンバスタジオ(同市馬場通り)の景品交換所で、プレミアムカードがもらえる。チェックポイントは二荒山神社周辺の市中心部で、うつのみや妖精ミュージアム(同)や宇都宮城址公園(同市本丸町)など5カ所。
マップはJR宇都宮駅観光案内所や同ミュージアム、宇都宮餃子会直営「来らっせ本店」(同市馬場通り)などで配布している。マップ設置店も随時、募集している。
そのパンフレット内では「藤原秀郷の百目鬼退治」の昔話がざっくりと記されていて、これは久々に読み直した内容であり、なかなか興味深かった。
(・ω・)(・ω・)(・ω・)
宇都宮のヒーローと妖怪百目鬼のお話
平安時代中期の貴族・武将の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)。秀郷は、 二荒山神社で授かった霊剣で、天慶の乱を起こした平将門を打ち収めた功績を讃えられ下野・武蔵(現在の栃木・埼玉)二国の国司(現在でいう知事)をしていた人物。 そんな秀郷は、その強さから近江の百足退治の例など妖怪退治のヒーローとして有名でした。ある日、狩りの帰りに馬捨場にいる百の目を持つ鬼の退治を依頼されました。待ち伏せをしていると、両手に百もの目を光らせた、3メートルほどの大きな鬼が現れました。秀郷は、得意の弓を引いて最も光る目を狙って矢を放つと、矢は鬼の急所を射貫きました。その後鬼は明神山(今の二荒山神社のある山)の後方で姿を消しました。それから400年後、塙田村の本願寺に徳の高いお坊さんがやってきます。お坊さんが熱心に説教をしたところ、毎日必ず姿をみせる、若く美しい娘がいました。実はこの娘、秀郷に退治されたあの鬼だったのです。鬼は長岡の百穴に身を潜め傷付いた体が癒えるのを待ち、娘の姿に身を変えてはこの付近を訪れ、悪さをしていました。しかしお坊さんの度重なる説教に心を改め、二度と悪さをしないとお坊さんに誓い、爪とつのを置いて消えました。それからこの付近を「百目鬼」と呼ぶようになったのです。
・・・以上、パンフレットに記載された文章を引用。
(・ω・)(・ω・)(・ω・)
わたし流にこの話を解釈すれば、平安時代にご当地の英雄・藤原秀郷が宇都宮の地を治めていた際に、野盗のような集団がいたので討伐を行った。 それを顕彰する人々の思いが地名となって残り、今日まで至る・・・ということなのだろうか。
このパンフレットのキャラの百目鬼(どうめき)があまりにも印象的だったためか、それからわたしは気になって百目鬼にまつわる話をより知りたいと思うようになり、サラッと調べてみました。 ・・・ですが、やはり先ほどの話は定型化された伝説のようで、パンフレットに書かれたこと以上の詳細な物語を見つけることはできなかったのです。
そんな中で注目したのが、戦前に出版された古い資料である。 それによれば、「百目鬼は討伐された後に祀られ、宇都宮城の鬼門を守るようになった」という。
なるほど、百目鬼という地名は藤原秀郷の討伐のお話に加え、鬼門除けの意味も含まれて今日まで伝わっているというのですね。 この説は、多くの人が納得するものだと言えるでしょう。
(・ω・)(・ω・)(・ω・)
しかし、ここでひとつの疑問が頭をもたげてきます。 先ほどの説では「百目鬼(どうめき)」が宇都宮城の鬼門:うしとらの方角とされていますが、実際にはその地域は宇都宮城に対してほぼ北に位置しており、鬼門:丑寅:北東の方角ではないのだ。
関連で、宇都宮城の鬼門の守りとされているのは、百目鬼の地区からずいぶんと東側に離れたJR東北本線沿い・八坂神社がそうであると言われ、割と有名なのです。
これはいったい、どういうことなのでしょう? そもそもの「百目鬼=鬼門説」が間違っているとバッサリ切り捨ててしまえばそれまでですが、案外そうとも言えません。 なぜならば百目鬼地区とほぼ同じ場所にある、「赤門の慈光寺」も宇都宮城の鬼門を守ると言われているからだ。
宇都宮城に対する百目鬼(どうめき)の方角は、正確には「真北」ではなく「北北東のやや北寄り」に位置している。 こういった広い意味では、百目鬼の地区は鬼門として扱っていいのかもしれない。 しかし、方位除け・・・あるいは風水という中世の学問上においては、方位はキチンと計測して、それに則って術を施さなければならないと言われています。 たとえば、京都の鬼門を守る比叡山延暦寺が、鬼門:北東の方角とはズレていたとしたら、それはとても気持ち悪いことでしょう?
このことが示唆する事実とは、いったい?
大胆な仮説を立てるとするならば、平安時代中期の武将・藤原秀郷が築いた宇都宮城(あるいは居館)の位置は、現在の宇都宮城・本丸の場所とは異なっていた、ということだ。
事実、宇都宮城の起源・由来というか、最初に建設された年代は今のところよくわかっていない。 伝承によれば、①下野押領使・藤原秀郷が佐野・唐沢山城に次いで築いたという説と、 ②鎌倉御家人・宇都宮氏の祖、僧の宗円が築いたという、この二つの説が宇都宮城築城の起源としてそうだと言われている。
このように、宇都宮城の由来がはっきりとわかっていないことに加え、百目鬼(どうめき)が鬼門を守る地区と言われておきながらも、今ある宇都宮城の鬼門の方角からはだいぶズレて位置していることから、平安中期に藤原秀郷が築いた宇都宮城(あるいは居館)と、現在に至る宇都宮氏が築いた宇都宮城は別々だった・・・と考えれば、いちおう筋は通ります。 そう私は思うのですが、どうでしょうか?
(・ω・)(・ω・)(・ω・)
では、そもそもどの場所が「藤原秀郷の宇都宮城/居館」だったのだろうか? ここからはお遊びとして、平安時代の宇都宮を想像して、その場所を探してみることにしよう。 ・・・しかし、これがはなはだ難問なのだ。
そもそも、「宇都宮」という地域の名称は、古くは「池辺(いけのべ)」、あるいは「小田橋/古多橋(こたばし)」と呼ばれていたなど、今日とはまるで異なっていたようだ。 これらの地名には「池」「橋」の字が含まれており、水が豊富な土地柄であったことが伺える。
当然、平安時代中期の古地図があるはずもなく、また「これは藤原秀郷が築いた城郭跡ですよ」といった石碑も無いことから、秀郷の宇都宮城の場所は案の定、謎である。
そんな時に思い浮かぶのが、NHKの人気番組・『ブラタモリ』のタモリさんが番組内で話す印象的な言葉で、「土地は記憶する」という言葉だ。
「土地は記憶する」ーーー。 なんと詩的で、含蓄のある表現なんでしょう。 わたし流にこの言葉を解釈するならば、〝歴史とは、文献だけが資料ではない。人々の土地利用も歴史資料の一つであり、その変遷には何かしらの痕跡が残されている”・・・こういった感じでしょうか。
ここからは「土地は記憶する」、「百目鬼は古い宇都宮城の鬼門に位置していた」、この二つのことを事実だと仮定して、それを手がかりに、ふたたび秀郷の宇都宮城の場所を探してみたい。
それからグーグルマップを開いてみる。 百目鬼の地区から南西方向・左下のラインをたどってみれば、「松が峰」を通り越して、「西原」、「六道」地域にあたります。 六道を通り過ぎれば、「滝谷町」、「鶴田町」とそのラインは続いていきます。 これ以上進んだら、中世においてはもう宇都宮の地域とは言えないでしょう。 では、このなかで良さそうは候補地はあるのでしょうか?
わたしはズバリ、宇都宮・六道の地域周辺が最も怪しいのでは、とにらんでいます。 なにより、その地区は寺社が多い。 寺社とは、自然発生的に出来たものもあれば、「まつりごと」を行う施設として、政庁と表裏一体となって建設されたものも多いと言われます。 なお、その六道地区にはお寺としては珍しい「閻魔堂」があることでも知られているようだ。
「閻魔堂」ーーー。 ここで私はある一つの伝承と回路が繋がりました。 それは、藤原秀郷が宇都宮に城を築いた伝承において、「城を築く際に、陰陽師・安倍晴明をもって四神を祀った」という、実にロマン溢れるものである。
「閻魔堂」と「安倍晴明」が、どう回路がつながるの? と不審に思う方もいると思うので、詳しく解説すれば以下のとおりである。
安倍晴明は陰陽師としてあまりにも有名ですが、そこはいったん置いておいて、陰陽師の信仰するのが「陰陽道の神様」である。 陰陽道の神様とは、陰陽道そのもののルーツが中国に由来しているので、要するに道教・中国の神様ということになる。 それらの神々は種々多様であり、日本人にはなじみが薄く分かりずらい。 なので、陰陽道の神々は「閻魔様」「お不動様」などと、本来の名前や姿を変えて日本人に親しまれてきたのだという。
この、陰陽道とゆかりが深い閻魔様を祀った珍しいお堂が、六道の地区には残されているのだ。 つまりは、
藤原秀郷ー安倍晴明ー陰陽道信仰ー閻魔堂、この回路がつながった、という訳である。
続いての疑問は、果たして、安倍晴明は藤原秀郷の要請を受けて、都から遠く離れた草深い下野の国までやって来たのだろうか? というものだ。
そう思ってみたものの、安倍晴明は意外と日本各地を歴訪していたみたいだ。 おまけに彼の出生地はお隣・常陸の国の真壁であると言われ、その関係もあって彼は関東や南東北にもいくつか足跡を残している。
ここまで来れば、わたしの言いたい説も皆さんに伝わっているだろうか?
①「百目鬼(どうめき)地区」が鬼門(北東)のラインにあたる場所、そこが藤原秀郷の宇都宮城である
②「六道地区」がライン上、唯一寺社が集まる地区となっている。 またその地区は景観的に宇都宮市内でも屈指の「雰囲気のある地区」となっている
③藤原秀郷の宇都宮築城の伝承のなかに、安倍晴明がこの地域に来て四神を祀った、というものがある
④「六道地区」には、「閻魔堂」が現存している。 閻魔信仰は陰陽道信仰に深く関わっていて、安倍晴明とのゆかりを感じる
どうだろう。 ここまでくれば、あとは広範囲に住宅を立ち退かせて大規模な発掘調査をするだけですが、、わたしの予想が正しければ、平安時代中期の地層に大規模な居館跡が出てくることでしょう。
と、いうことで、今回はこのあたりでお開き。 信じるか信じないかはアナタ次第ということで、歴史ロマンあふれる回だったのです。