Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

宇都宮城(栃木)

2020.09.27 10:42

https://ameblo.jp/hitoshisos/entry-12480653973.html  【宇都宮城(栃木)】

昨日、一昨日で北関東城巡り2へ行きました。生憎の雨☔️梅雨入ったのだから仕方がない。

とにかく電車🚃移動の城巡りは難しい。計画狂いでした。それもまた楽しもう。

今後の城ブログは甲信越の城巡りとごちゃごちゃ混ぜとしてあがるので了承くださいませ。

宇都宮城

栃木県は足利氏館が100名城、唐沢山城が続100名城と選ばれてはいますが…櫓がある宇都宮城が選ばれていない。残念な理由がわかりました。

【宇都宮城】

築城 1053年 藤原宗円 廃城 1868年 城郭 輪郭式平城 天守閣 なし 標高 116m 比高 0m

川越城や忍城などと共に関東七名城の1つとして数えられる宇都宮城。約900年に渡って宇都宮の政治や文化の中心地として重要な役割を果たした。

藤原宗円(藤原道長の兄道兼の曾孫)が1053年頃に源義頼に伴われて宇都宮の地にやってきて宇都宮の支配を任され築城とされたという。

3代藤原朝綱から宇都宮氏として名乗り5代宇都宮頼綱は百人一首の成立に関わったが1205年に謀反の疑いをかけられて出家した。

8代宇都宮貞綱は元寇の際には大将軍として任命されており9代宇都宮公綱は鎌倉幕府側にて楠木正成と対峙して戦いを繰り広げられ、鎌倉幕府滅亡後は南朝方として足利尊氏と戦っている。

しかし1337年より北畠顕家が鎌倉攻撃してからは北朝側に転じて足利氏に仕えた。

室町時代前期の宇都宮氏は小山氏の台頭や足利鎌倉公方との混乱で衰退するが、辛うじて宇都宮の地は守り続けてた。

17代宇都宮成綱が立て直し宇都宮氏の勢力を作り戦国大名となる。宇都宮成綱が没してを18代宇都宮忠綱になると家臣による内訌により衰退。

1549年に喜連川早乙女戦いにて20代宇都宮尚綱が那須氏の戦いにて戦死すると後継者21代宇都宮広綱が幼少のスキに壬生氏に宇都宮城を乗っ取られてしまう始末。1557年に家臣芳賀高定の力もあり宇都宮城を奪還し、上杉謙信や佐竹義重との同盟をして後北条氏と対抗する立場をとる。

22代宇都宮国綱が1590年に小田原の役にて豊臣秀吉につき18万石を得られるが1597年に所領没収され追放されてしまう。

その後蒲生秀行が引き継ぎ関ヶ原後に10万石にて奥平氏が入った。

1619年に本多正純が入り城の大改築や街道や城下町の整備をして今の宇都宮の礎をつくる。1622年に宇都宮城釣天井事件にて本多正純は失脚。

再び奥平氏に宇都宮は戻ったが、宇都宮藩は頻繁に藩主を変えて江戸時代の後期は戸田氏が入り明治を迎えるが1868年に会津戦争の戦地になり宇都宮城は焼失した。

宇都宮城の場所はここらへん。

模型でいうとーーーーの部分しか残っておらず後は都市化になって埋められしまった。

宇都宮城の展示室模型

撮影ポイントは①〜⑳まで 本丸のみです。

①清明台の本丸北堀 15m級の高さの土塁。堀幅は場所によって違いますが11m〜26m北側の堀幅が広い。 ②本丸北西堀 ③本丸西堀

④本丸西堀に作られた橋。橋の先に市役所があり無理矢理作られた橋らしい。便利かも知れないけど…残念。④かなり派手に開けられた。 ⑤本丸西南堀 見えている櫓は富士見櫓。⑥富士見櫓の外観 ⑦本丸広場。本丸御殿がらあったそう。復元計画もあればまた違うだろうけど財政がね。 ⑧本丸から見る富士見櫓 ⑨本丸から見る清明台 ⑩この土塁は富士見櫓から伸びた土塁。 ⑪伊賀門跡 裏門あと…何もない。 ⑫堀跡風になっているが後から作られたもの。 ⑬清明館の堀跡これも後から ⑭清明館 清明台から名を取られた。歴史展示室と休憩施設。 ⑮清水門跡 本丸の正門にあたり。枡形虎口になっており将軍軍宿泊の際にはこから通ったらしい。絵地図の清水門。 ⑯清明台側の本丸堀 清明台の土塁を登る ⑰清明台 本丸の北西部にあり天守代用の櫓である。木造2階建の高さは10m幅は5.9m×6.9m ⑰清明台の内部 二階は登れず ⑰清明台からの本丸。 ⑱土塀。厚さが30cm長さは200mにも及ぶ。 土塁に繋がるエレベーターも残念。

⑱土塀の矢狭間が26ヶ所、鉄砲狭間が54ヶ所ある

⑲富士見櫓が見えてきました。⑱富士見櫓5.9m×7.9mで清明台よりすこし広い。高さ10m富士山が見えるから名付けられたみたいだ。

⑲富士見櫓の内部1 富士見櫓の模型あり ⑲富士見櫓内部2 同じく二階は登れず。

⑳富士見櫓の南部の土塁。

以上

宇都宮城でした。土塁は凄いな。


https://wondertrip.jp/1139234/2/  【桜が美しい宇都宮城址公園で関東七名城のひとつ宇都宮城を偲ぼう】 より

かつて下野(現在の栃木県)の中心になっていた宇都宮城。関東の七名城と呼ばれた城でしたが、明治を迎えると解体され第二次世界大戦以降はほぼすべての建造物を失ってしまいます。

しかし現在は本丸の一部が復元され、城址公園としてお祭りも開かれるほどのにぎわいを取り戻しました。そんな昔の櫓や土塁を見る事ができる宇都宮城址公園を紹介します。

公園としてよみがえった宇都宮城

宇都宮市本丸町にある城址は、現在都市防災公園として整備されています。総面積はおよそ3.7ヘクタール。中央の御本丸広場には芝生が敷かれ、週末になるとイベントが開催されています。

その一角に復元されたのが、富士見櫓と清明台の2つの櫓と土塁および土塀そして堀。これにより、明治以降姿を消していた難攻不落の城といわれた宇都宮城の往事の姿が、140年ぶりによみがえったのです。

関東七名城といわれた宇都宮城の歴史

宇都宮城のはじまりは平安時代後期と伝わる

平安時代後期に築城されたといわれる宇都宮城。後にこの地を治めていく宇都宮氏の祖藤原宗円とも、平将門を討伐した藤原秀郷と築城説は諸説ありますが、以降900年の間下野宇都宮の政治、文化の中心であり続けた城です。

江戸時代初期に近代城郭となったあとも、天守閣のない平城のままで清明櫓がその代用として利用されていました。周囲を囲むのも石垣ではなく高さ10メートルの土塁と、幾重もの水堀で守りを固めていたようです。

中世宇都宮城主としてこの地を治めたのが、鎌倉幕府の有力御家人だった宇都宮氏。百人一首の成立に深く関わったと5代頼網といった文化人や、元寇に出陣した武人8代貞綱が歴代藩主の中では有名です。

また宇都宮氏は、城主であると同時に二荒山神社の神官の役割も担っていました。その支配範囲は全盛期に下野の中央から南東部まで広がっていたといわれています。北関東の要所となっていた宇都宮城は、たびたび戦の舞台となり城下町も焼き払われるほどの被害を受けた事もあったそうです。

戦国の世を生き抜いた関東七名城

平城ながら、戦国時代の戦火にも揺るがなかった宇都宮城。東の田川が自然の堀となり北の高台に二荒山神社があり、攻めにくく守りやすいという強みをもっていました。

難攻不落の評判を得た宇都宮城は、武蔵の忍城(おしじょう)と川越城、上野の金山城と前橋城、常陸の多気城、下野の唐沢山城とともに関東七名城のひとつに数えられたのです。

江戸時代には将軍の日光社参の宿城に

500年宇都宮を治めた宇都宮氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、その後関ケ原の戦いで天下が徳川家の手に渡ると、宇都宮城は譜代大名の城に。1619年(元和5年)に入城した徳川家康の懐刀本多正信の息子正純は15万5000石で宇都宮へ入ると、宇都宮城を近代城郭に造り替え日光街道と奥州街道を整備し町割りを行います。

これが現在の宇都宮市の原型となり、復元されている公園の櫓などもこの時代のものです。また正純は、日光東照宮へお参りする将軍宿泊所となる御成御殿を建設。日光社参の宿城としての役割を担う基礎を築いたのです。

創作された釣天井事件

釣天井事件と呼ばれているのは、日光社参のために訪れた2代将軍徳川秀忠に対し釣り天井を使った暗殺を企てたというものです。この話は後の世の講談や歌舞伎の題材として使われたもので、実際の御成御殿にはからくり仕掛けの釣り天井はありません。権力闘争に負けた正純の改易を、ドラマチックにするために創作されたものなのでしょう。

戊辰戦争で焼失した宇都宮城

宇都宮城は戦の舞台になる事の多い城でしたが、幕末最後の国内戦争の戊辰戦争にも登場します。1868年幕臣の大鳥圭介と新撰組副長土方歳三率いる旧幕府軍が攻め入り、宇都宮城は落城。その際に大半の建物が焼失。さらに立て籠もった旧幕府軍と新政府軍の激しい戦いが行われます。

この戦いで土方歳三は足に銃弾を受け負傷、会津に落ちていく事になったのです。この戦いが終わると、宇都宮城は廃城となり堀や土塁が崩され史跡のない御本丸公園という名前だけの城址となります。しかし2007年に機運が高まった事で、本丸の一部が復元。名前も宇都宮城址公園と改称されたのです。

宇都宮城址公園の見どころ

復元された2つの櫓

土壁白漆喰(しろしっくい)造りで復元された2つの櫓。2階建てで高さは10メートルあります。富士見櫓はその名の通り、遠くに富士山を望む櫓。平安時代の陰陽師安倍晴明にちなんで名づけられた晴明台は、本田正純時代に天守閣の代用として使用されたものです。

1階部分は見学が可能で、現代の釘1本も使われていない当時の伝統的な手法で復元された内部を見る事ができます。

櫓から望む絶景

毎月第3日曜日に、特別開放される櫓の2階部分。2月から11月は晴明台、12月と1月は富士見櫓とそれぞれ時期が決まっています。天気が良ければ富士山を見る事ができる富士見櫓からは、男体山や宇都宮市街を見渡す事ができます。

白く美しい土壁

土塁の上に登ると、間近に見る事ができる白漆喰塗の土壁。160メートルに渡って復元されている土壁には、鉄砲で敵を撃つための狭間があります。また土壁の杭は敵襲の際、その上に板を置き塀の上から攻撃をするためのもの。狭間や杭など、戦に備えた城だったところをしっかり再現する事で難攻不落の面影を伝えています。

高く積み上げられた土塁と堀

天守閣のない平城だった宇都宮城にとって、土塁は防衛のための重要な役割を果たした部分。復元された土塁の高さも10メートルあります。現在は階段やエレベーターで登る事ができ、櫓にもそこから行けます。景色を楽しむためにもいってみましょう。戊辰戦争後の埋め立てられた堀も、当時より水深はないものの復元されています。

宇都宮の歴史が学べる清明館

宇都宮の歴史を学べる清明館歴史展示室が公園内にあります。宇都宮城ものしり館では、城のジオラマが展示。解説が親切で面白いと評判の常駐観光ボランティアと、一緒に回るのがおすすめです。観光情報を知るための、まちあるき情報館もものしり館の向かいにあるので便利。ともに入館は無料です。

春は桜の新名所

開花時期の違う河津桜や染井吉野、大山桜、枝垂桜と4種類の桜が植えられている園内では、3月末から4月の半ばまで長い間花見を楽しむ事ができます。毎年3月末には見ごろを迎える約130本の桜を背景に、宇都宮城さくら祭も開催され出店などでにぎわいます。白漆喰塗の櫓や土塀と桜のコントラストは、撮影スポットとしてもおすすめ。

ライトアップで夜に浮き上がるお城

金曜、土曜、日曜の週末21時まで、櫓がライトアップされます。土塁の上から宇都宮市街の夜景を見る事ができるため、デートスポットとしても人気の場所。隣接する宇都宮市役所では、平日19時まで展望台を開放。城址公園の全景を見たいなら、こちらがおすすめです。

イベントでにぎわう御本丸広場

さまざまなイベントが開催されるのは、公園の中央にある御本丸広場。毎年10月に行われる宇都宮城址まつりでは、時代衣装に身を包んだおよそ300人が街中を練り歩く社参行列がみどころのひとつ。和太鼓や獅子舞などの伝統芸能の舞台を見る事もできます。

また宇都宮といえば餃子。毎年11月の宇都宮餃子祭は、県内外から多くの人が訪れる人気のイベントです。リーズナブルな値段で、いろいろな餃子を食べ比べられます。