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宇都宮城の歴史・城主本多正純

2020.09.28 02:32

https://utsunomiya-8story.jp/wordpress/wp-content/themes/utsunomiya/image/archive/contents08/pdf_04.pdf#search='%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%AD%A3%E7%B4%94%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8A%E3%80%81%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%94%B9%E4%BF%AE'【宇都宮城の歴史 城主本多正純】 より

①本多正純の出自と功績

歴代の宇都宮城主のなかで、代表的な人物を選ぶとしたら、多くの人が本多正純(1565~1637)を選ぶのではないでしょうか。

江戸幕府創立期の重臣として、また宇都宮の町並みの基礎を築いた人として、そして、いわゆる「釣天 井事件」の主人公として、大変有名だからです。

本多正純は、本多正信の長男として三河国(愛知県)に生まれました。徳川家康の側近として活躍し、とくに家康が将軍職を秀忠に譲って駿府(静岡市)で「大御所政治」を始めると、事実上の最高権力者となりました。その強大な権限を、当時日本に滞在していたポルトガル人の宣教師は、「正純は将軍の最高顧問会議議長である」と本国に書き送っています

正純は、大坂城(大阪市)の外堀を埋めさせて豊臣氏を滅亡に追い込み、家康の死後は江戸(東京都)で秀忠に仕えました。そして元和5年(1619 年)、下野国小山(小山市)3万3千石から宇都宮 15 万5千石の領主となり、宇都宮城を居城としました。

宇都宮城主となった正純は、積極的に城と城下町の整備を行いました。主要な道路網など、宇都宮の町並みの骨格は、このときにできたものだと言われています。

「宇都宮城主 本多正純②」

宇都宮改造事業

正純の宇都宮改造事業は大規模なものでした。江戸幕府による街道整備にあわせて、それまで田川西岸を通っていた奥大道を市街地の西に移して、伝馬町付近で日光方面への道と分岐させました。それに伴い、それまで市街地がなかった宇都宮城の西側にも、新たな市街地ができました。

こうして、主要交通路としての日光道 中(日光街道)と 奥 州道 中(奥州街道)が分岐する、交通の拠点としての宇都宮が誕生しました。

宇都宮城は、日光東 照 宮へ 将 軍が参詣する際の宿城として、改修に力を注ぎました。範囲を拡張して東西南北1キロ四方に及ぶ大規模なものとし、 櫓や門を築造するなど、それまでの 中 世の城を、近世の城として確率させました。本丸内に将軍が泊まる「御成御殿」を建設したのも正純である可能性が高いと思われます。

一方で、中世以来の城と町を全面的に破壊したわけではありません。

現在の池上町から田川にかけては、中世からの町ですが、正純はそれをたくみに城下町に取り込んでいます。城についても、江戸の北の守りとしての機能を持たせるとともに、二荒

山神社の存在を重んじ、正面を北に向けました。城内には「西館」「 南館」といった中世の城を思わせる名称が見られますが、これは、従来の城の施設を整備の際に利用したものと思われます。

短期間に、必要かつ十分な機能をもつ新しい城と城下町をつくりあげるために、利用できるものは利用し、変えるべきものは変えるという、正純の柔軟な政策が感じられます。 

「宇都宮城主 本多正純③」

秀忠の日光社参と正純の追放

江戸幕府の初代将軍・徳川家康が駿府(静岡市)で死去すると、その遺骸は日光(日光市)に葬られました。そして本多正純が造営奉行となり、日光東照社(のちの日光東照宮)が造営されました。家康は神として祀られることになったのです。

2代将軍徳川秀忠は、元和8年(1622 年)4月に、日光社参(将軍が日光に参詣すること)を行いました。

往路は、4月 13 日に江戸を出発し、岩槻(埼玉県岩槻市)・古河(茨城県古河市)に宿泊。15 日には宇都宮城に宿泊して、16 日には日光に到着しました。日光には 19 日まで滞在し、20 日に出発して江戸へ向かいました。

ところが復路は宇都宮を通らずに江戸へ急行し、翌日には江戸城に到着しています。往路が3泊4日だったのに、復路は1泊2日の強行軍だったことが分かります。

しかも、往路の宇都宮城宿泊の際には特に異状が無かったにもかかわらず、秀忠は家臣を派遣して、宇都宮城内の御成御殿(将軍が宿泊する建物)の調査を行いました。これらの出来事は、当時の人々にも異様な緊迫感を与えたようです。

同年の8月、出羽国山形(山形市)城主・最上義俊が改易(取り潰し)され、正純は最上氏の領地を接収するため山形へ赴きました。ところが、出張先の山形に幕府の使者が訪れ、正純は改易のうえ出羽国由利(秋田県由利本荘市)への追放を申し渡されたのです。

「宇都宮城主 本多正純④」

当時の政治状況

将軍徳川秀忠の日光社参から、本多正純の改易という、元和8年(1622 年)に起こった一連の出来事には、当時の政治状況が大きく影響していると思われます。
そのころはまだ江戸幕府の権威は安定しておらず、将軍の地位の相続についても確固とした法則ができていませんでした。その中で、将軍秀忠の甥(秀忠の兄・結城秀康の子)で、越 前国北之荘(福井市)城主・松平忠直は、江戸への参勤(江戸へ来て幕府への務めを果たすこと)を怠るなど、反抗的な態度が多く、幕府への叛意があるのではないかと疑われていました。

元和8年にも、江戸へ参勤するため北之荘を出発したにもかかわらず、関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で病気を理由に数ヶ月もの長期滞在をしていました。

その中で、本来自分の領地にいてよいはずの大名に対しても、江戸へ出てくるようにという指示が、幕府から相次いで出されていました。

このような緊迫した雰囲気の中で日光社参は実行されたのです。将軍の警護は異例の厳重さで、日光の町を幾重にも軍隊が取り囲みました。その上、秀忠は予定を変更して、1泊2日の強行軍で江戸へ戻ったばかりか、家臣に命じて宇都宮城内に怪しいものがないかどうかの調査まで行なったのです。こうした状況は、人々の緊張を高め、何かが起こるのではないかという不安をあおったことでしょう。 

「宇都宮城主 本多正純 ⑤」

日光社参その後

元和8年(1622 年)4月に実施された将軍徳川秀忠の日光社参は、緊迫した雰囲気の中ではありましたが、無事終わりました。しかし、そのころにはさまざまな憶測が生まれ、うわさとなって広がっていきました。
その内容の多くが、「松平忠直が幕府への反逆を企てているらしい」「本多正純が忠直の反逆に荷担しているのではないか」「反逆には有力な大名が何人か加わっているかもしれない」といったものでした。とくに忠直が、病気を理由に美濃国関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で長期滞在していることが、疑惑を一層深めました。

幕府は、参勤中の大名は江戸に足止めし、国許(自分の領地)にいる大名には江戸への参集を命じました。大名たちを監視するためとも、争乱がおこったときにはすぐに動員するためとも受け取れる措置です。

7月には世子(将軍の後継者、のちの3代将軍)徳川家光が江戸を離れて、川越(埼玉県川越市)に移っています。

そして、8月には出羽国山形(山形市)の大名・最上義俊が改易されることとなり、領地没収のための使者として、本多正純が任命されました。正純は、遠く山形へ出張することとなったのです。

正純が出発したあと、入れ替わるように家光が川越から江戸に戻りました。そして、翌9月には、関ヶ原で数ヶ月にわたって逗留していた松平忠直が、病気が重くて参勤できないとして、領地である北之荘(福井市)に引き返しました。

正純は、本拠地宇都宮城からも、家臣からも、他の大名からも切り離され、山形で事実上孤立することとなりました。 

「宇都宮城主 本多正純 ⑥」

追放とその後の正純

元和8年(1622 年)、改易となった最上義俊

の領地を接収するため山形(山形市)に出張した本多正純は、最上家から山形城を

受け取り、その任務を無事果たしました。

ところが、そこに幕府からの使者として、永井直勝・伊丹康勝・高木正次が訪れました。3人は山形城本丸で、正純に対し、宇都宮領 15 万5千石を没収のうえ出羽国由利(秋田県由

利本荘市)への追放を命じたのです。理由は「正純の働きぶりが良くないから」というものだったと伝えられています。

正純は、宇都宮城に戻ることなく由利郡大沢郷にうつりました。

そして寛永元年(1624 年)には、久保田(秋田市)城主・佐竹義宣に身柄を預けられ、佐竹氏の領地である横手(秋田県横手市)で幽閉されることとなりました。

その後、罪を許されることもなく、10 年以上にわたる幽閉ののち、寛永 14 年(1637 年)に横手で亡くなりました。

遺体は 正平寺に葬られました。同寺には、寛政年間(1789 年~1810 年)までは位牌があったと記録されています。

正純の墓所の正確な位置はよく分かりません。しかし、正純が幽閉されていた横手城址のかたわらに、明治時代に建てられた「本多上 野 介之墓」という石碑が残されています。

「宇都宮城主 本多正純⑧」

残された手紙

本多正純は本当に反逆をたくらんでいたのでしょうか。

豊前国小倉(北九州市)の 大 名・細川忠利は、江戸に参勤中でしたが、国許もとにいた父・忠興あてに、松平忠直と正純の反逆の疑惑をほのめかす手紙を送っています。幾人かの大名が忠利と同様の疑惑を感じていたことが、残された手紙などからうかがえます。

日本国内で読まれるおそれのない外国人の手紙は、もっと直接的に書かれています。

日本に駐在していたイギリス人リチャード・コックスは、本国あてに「 将 軍の親族や有力な大名が加わっている反乱が発覚した」と書き送っています。オランダ人レナード・カンプスは、手紙の中で「本多正純が将軍に危害を加えようとした」と述べています。

将軍徳川秀忠の甥であり将軍の地位の継承権を持つ一人と考えられていた松平忠直と、権力の座から滑り落ちようとしていた正純が、共謀してクーデターを企てているという疑惑について、当時の人々は、ある程度信憑性があると受け止めていたのでしょう。

元和8年(1622 年)10 月、本多正純が改易・追放されると、江戸に足止めされていた大名達は帰国を許され、次々と自分の領地へ向かいました。非常事態が解除されたのです。

反逆が事実であったのか、仮に反逆の事実があったとしても、正純と忠直が本当に共謀していたのか。それとも、幕府が二人を取り除く口実を作るために、わざと緊迫した状況を演出していたのか。400 年後の今、厚い時間の壁に隔てられて知ることができません。 

事件後の動き

正純と 共 謀したという疑惑があった越前国(福井県)の大名・松平忠直は、正純改易の4カ月後、元和9年(1623 年)2月、幕府の命令により隠居し、豊後国萩原(大分市)へ追放されました。そして長い追放生活の後、慶安3年(1650 年)萩原で亡くなります。

大名であった頃の忠直は、衝 動 的に人を斬り殺すなど、凶暴な一面を持っていたとされています。しかし、隠居後は人が変わったように穏やかになり、現地の人々とも仲良くしながら、静かな生活を送ったということです。

正純・忠直が追放されて間もない元和9年(1923 年)7月、二代将 軍・徳川秀忠は引退し、秀忠の長男・家光が三代将軍となります。

家光は「祖父・家康、父・秀忠は、一介の大名から将軍になった。しかし、自分は生まれながらの将軍である。ゆえに、誰にも遠慮することなく政治を行なう」と宣言したと伝えられています。

ここに、将軍の地位は徳川家の 嫡 流(本家、またはそれに最も近い血筋)が相続する原則が確立しました。

「本多正純の反逆」が事実かどうかはよくわかりません。

しかし、安定した政権を目指していた江戸幕府としては、正純の「創立期の功労」や、忠直の「将軍との血縁」により、政治の方針や将軍の地位が左右されないようにする必要があったのです。

そのために正純は排除されることになったのですが、皮肉にも、正純が幕府の政治の 中 枢にいたころには、同じような政策を行ってきたのです。

正純自身が意図したかどうかにかかわらず、その 失 脚までもが、「生まれながらの将軍」が誕生し、その後 200 年以上続く幕藩体制を確立するための 礎となったとも言えるでしょう。

物語になった「釣天井」事件

本多正純の改易・追放は、歴史的事実を離れて伝説となり、物語となっていきました。

江戸時代の中頃に、「大久保武蔵鐙」という本が書かれました。

これは、時期を三代将軍徳川家光の頃に設定し、家光とその弟・徳川忠長との将軍後継争いを背景としています。

「正純は忠長を将軍にしたいと思っていたが、家光が将軍になったので口惜しく思っていた。そこで、宇都宮城内に釣天井(天井裏に石などを仕込んでおき、その天井を落下させて人を殺生するしかけ)をつくり、家光を暗殺しようとした。ところが大工の一人が、恋仲になっていた 庄屋の娘にその秘密を洩らした。その大工は釣天井完成後に殺されてしまったが、庄屋が将軍の行列に訴えたため、家光は江戸に引き返し無事だった。正純は幕府の

軍隊に取り囲まれ、みずから釣天井の縄を切って自害した」という内容です。

その後もいくつかの本が発表されましたが、いずれもあらすじは同様です。この内容がその後、講談や芝居にも取り入れられ、全国的に広まりました。

近代には映画に、現代になるとテレビ時代劇にも「釣天井」がたびたび登場します。テレビ時代劇では、宇都宮が舞台になると決まって「釣天井」が取り上げられ、正純がでてこないのに「釣天井」のみが登場する作品もあるほどです。

「釣天井」というしかけが実在したという証拠はありません。

また文学・映像のなかの「釣天井事件」には多くの脚色が施されており、とくに正純を単なる悪役にしているのは問題かもしれません。

しかし、事実の究明や表現に制約があった江戸時代に、人々が作り出した物語が、今日まで本多正純の名を語り伝えてきたことも否定できないのです。