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戊辰戦争

2020.09.28 06:08

https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=56  【戊辰戦争】 より

戊辰戦争(ぼしんせんそう)と栃木県

新政府と一部の旧幕府軍や大名との間に、慶応(けいおう)4年(1868年)1月、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の闘いを発端として、戊辰戦争が起こりました。

下野(しもつけ・・・現在の栃木県)は、戊辰戦争の主戦場となり、農民は、農兵や軍夫として徴集され、たいへん苦労しました。

県内ではどのような戦いがあったのか

・梁田(やなだ)の戦い(現在の足利市)・・・下野における最初の戦い

・宇都宮城攻防戦(現在の宇都宮市)

・今市(いまいち)・藤原(ふじはら)方面の戦い(現在の日光市)

・板室(いたむろ)・三斗小屋(さんとごや)の戦い(現在の那須塩原市)

宇都宮城攻防戦はどのように展開されたか

慶応(けいおう)4年(1868年)

宇都宮藩は官軍(かんぐん・・・新政府側)につきました。

宇都宮城は会津若松城(あいづわかまつじょう)などとともに、大規模な戦闘が展開された数少ない城の一つです。

4月11日 宇都宮、日光を目指して、大鳥圭介(おおとりけいすけ)らの旧幕府軍が北上を開始しました。

4月18日 大鳥圭介率いる旧幕府軍と宇都宮藩兵が戦っている最中、土方歳三(ひじかたとしぞう)らの率いる別働隊が、夜に宇都宮城に攻め入り、宇都宮城は落城しました。

4月23日 午後3時過ぎ、官軍の第二、第三宇都宮城救援隊が到着しました。

旧幕府軍は抵抗しましたが、結局城を捨て、二荒山(ふたあらやま)や八幡山(はちまんやま)を占拠し、陣を構えて防戦しました。

第一宇都宮城救援隊も駆けつけ、官軍と旧幕府軍との砲撃戦が始まりました。

その結果、旧幕府軍は北に敗走しました。

戦いが終わったのは午後8時過ぎでした。

4月24日 戸田忠恕(とだただゆき)は、宇都宮城を官軍から受け取りましたが、2回の戦いによって城下のほとんどが焼失してしまいました。

戊辰戦争が起こったときの栃木県はどんなようすだったか

戊辰戦争の北上に呼応するように、1868年3月末から現在の宇都宮市を中心に、世直し一揆(いっき)が起きました。

貧しい農民や都市に住む貧しい人々が、裕福な農家や商家、役人に打ちこわしをかけ、貧しい人々の救済や、質入れした土地や品物をすぐに返すこと、物価の引き下げなどを要求しました。

発生地は安塚村(やすづかむら・・・現在の壬生町)とも日光道中石橋(いしばし)宿ともいわれます。

4月1日 下栗村(しもぐりむら・・・現在の宇都宮市)に集まった農民は、駆けつけた藩役人の説得を拒否し、群衆を増やしながら南に進みました。

4月2日 雀宮(すずめのみや)宿(現在の宇都宮市)本陣や西川田村(にしかわだむら・・・現在の宇都宮市)郷村取締役宅を打ちこわした後、城下を目指して北上しました。

5000名に拡大した世直し勢に対して、武装した宇都宮藩兵は、城下への立ち入りを拒否しました。

その代わり、要求をきき、酒、醤油、干鰯(肥料)などの二割値下げが決まりました。

4月3日 西部の村々が呼応し、八幡山(はちまんやま)に集合しました。

その数は3万人です。

城下になだれ込もうとしましたが塙田村(はなわだむら・・・現在の宇都宮市)に待機していた藩兵の銃撃を浴びて、田原村(たわらむら・・・現在の宇都宮市)から白沢(しらさわ)宿(現在の宇都宮市)へと北上しました。

白沢宿で打ちこわしの後、一手は氏家(うじいえ)宿(現在のさくら市)へ、もう一手は徳次郎(とくじら)宿(現在の宇都宮市)から鹿沼(かぬま)宿(現在の鹿沼市)へと分かれました。

その入り口にある御成橋(おなりばし)で、宇都宮藩の発砲にあい、死者を出しながら例幣使街道(れいへいしかいどう)を北上し、勢力を弱めていきました。

宇都宮藩は、武力でようやく一揆勢を鎮圧しましたが、治安回復を目指しているところに、戊辰戦争が起きたのです。