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足利尊氏

2020.09.29 04:36

https://www.guidoor.jp/media/baddestman-ashikagatakauji/ 【日本史上最悪だった男~足利尊氏】 より

足利尊氏は室町幕府の創設者として波乱万丈の人生を送りました

以前こちらのコラムで「日本史上最悪の男」と題して松永久秀を取り上げました。今回は室町幕府の初代将軍となった足利尊氏(あしかがたかうじ)を紹介したいと思います。

尊氏は戦前日本において、謀反人・逆賊の代表格として忌み嫌われてきたことをご存知でしょうか?若い頃に尊氏を称賛したということが発覚しただけで国会において追及を受け、ついには大臣辞任に追い込まれた人がいたほどです。

なぜそのような低い評価をされていたのか、尊氏の人生を振り返りながら解き明かしていきたいと思います。

足利氏はその祖先が河内源氏の棟梁源義家(みなもとのよしいえ)に遡ります。義家は前九年の役、後三年の役などで活躍した武将で、武士の存在を朝廷に知らしめた人物として知られています。

義家の孫にあたる義康(よしやす)の頃に足利氏を称するようになります。義康は鳥羽上皇に仕えて軍功を挙げ、その子義兼(よしかね)は頼朝の挙兵に参加したことにより、鎌倉幕府の有力御家人としての地位を確立します。

源義家から足利氏と新田氏が出ています

足利氏系譜

足利氏は源氏の将軍家が滅びても幕府で実権を握る北条氏と婚姻関係を結ぶことによりその地位を維持しました。

義兼の子義氏(よしうじ)は北条泰時を補佐して承久の乱を鎮めるなどの功を挙げており、その扱いは北条氏の一門と変わらないものであったといわれています。

そのような家に生まれたのが尊氏です。

尊氏は当初高氏と名乗っていました。高の字は当時の幕府執権北条高時から与えられたものです。そして後の執権赤橋(北条)守時の妹を妻に迎えており、幕府からの厚遇ぶりがよくわかります。

足利尊氏を取り巻く環境

元寇の影響による御家人たちの不満

元寇により御家人の多くが経済的負担により苦しい生活を強いられるようになります

ここで当時の政治状況を振り返っておきましょう。

13世紀後半の元の日本遠征-いわゆる元寇(げんこう)によって、鎌倉殿(幕府)を主と仰ぐ武士(御家人)たちの多くは出兵による経済負担の重さから没落傾向にあり、幕府への不満が高まっていました。

幕府と御家人の関係は「御恩と奉公」、つまり御家人が幕府の命ずる戦闘や役目に(自腹で)加わることによって、その代償として恩賞や領地の保証を幕府が行うというものでした。

しかしこの戦いは防戦であり、得たものがなかったため恩賞が与えられることは原則としてなかったことが大きな原因となっています。

また権力が北条一門に集中していることにも不満が生じていました。

後醍醐天皇の登場

大覚寺統の後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、建武の新政をはじめました

京都の朝廷は2つに分裂していました。「両統迭立(りょうとうてつりつ)」と呼ばれ、幕府の裁定により持明院統と大覚寺統の両派が交代で天皇に即位することになっていました。

大覚寺統から即位した後醍醐(ごだいご)天皇はこのことに不満がありました。

後醍醐天皇による倒幕計画

鎌倉幕府に不満を持つ後醍醐天皇は側近と倒幕計画を立てたものの、それが発覚してしまいます。(正中の変)

このときは天皇の側近が罰せられるだけで済みましたが、後醍醐天皇はそれに屈することなく、今度は実際に倒幕の兵を挙げます。(元弘の乱)

足利尊氏、幕府打倒への軌跡

幕府は元弘の乱の鎮圧に手を焼きます。特に天皇方に味方した楠木正成(くすのきまさしげ)は少ない兵で籠城戦を展開して、幕府軍は多大な被害を受けます。

この状況に危機感を抱いた幕府は尊氏に出兵を命じます。このとき尊氏は父貞氏の服喪中であり出陣の辞退を申し出ますが、幕府はこれを認めません。『太平記』によればこの出来事で尊氏は幕府に不満を持つようになったといわれています。

尊氏は渋々出陣し、はかばかしい活躍はなかったといわれています。

その後、後醍醐天皇は捕らえられ隠岐に島流しとなり、楠木正成は逃亡したため乱は鎮圧されたものの火種は残されました。

後醍醐天皇は配流されると廃位され、持明院統の光厳(こうごん)天皇が即位しました。

尊氏、倒幕の兵を挙げる

元弘の乱は不完全な形で鎮圧となったため乱から2年後、後醍醐天皇が隠岐を脱出すると近畿各地で倒幕の兵が立ち上がります。

河内(かわち、現大阪府)国千早城で楠木正成、播磨(はりま、現兵庫県)国で赤松円心(あかまつえんしん)、大和(やまと、現奈良県)国吉野で護良親王(もりよし、後醍醐天皇の皇子)がそれぞれ挙兵します。

護良親王は後醍醐天皇の皇子として倒幕に活躍しますが、後に足利尊氏と対立し父の命令で逮捕されてしまいます

幕府は再度尊氏に出陣命令を下します。尊氏は上洛にあたり所領の一つである三河(みかわ、現愛知県南部)国に立ち寄ったといわれています。そこで祖父家時の置文(おきぶみ)を披露して、家臣たちに倒幕を宣言したといわれています。

足利家には先祖義家が「自分は生まれ変わって七代後に天下を取る」という文が残されており、それにあたる尊氏の祖父家時は自分の代では実現できなかったため、「三代後の子孫に天下を取らせよ」と置文をして自害したといわれています。

義家の置文が尊氏を倒幕に導いたといわれていますが、伝説の域を出ません。

足利一門の有力者である今川了俊(りょうしゅん)はこの置文を見たと著書『難太平記』に残していますが、これが実在したかどうかは明らかではなく、どのタイミングで倒幕を決意したのかはわかりません。

尊氏は京都に到着すると討幕軍には向かわず、丹波(たんば、現京都府)国篠村八幡宮に向かい、ここにおいて正式に倒幕を表明します。

そして京都にある幕府の軍事・警察機関、六波羅探題を攻め滅ぼしました。

鎌倉幕府滅亡

一方関東では尊氏と同じく源義家を祖とする新田義貞が兵を挙げて鎌倉に攻め込み、幕府を滅ぼしています。

この戦いには尊氏の幼い嫡男千寿王(せんじゅおう、後の義詮)が参加しており、千寿王の参陣が多数の兵を集めたといわれています。

新田氏は先述の足利義康の兄義重の代から新田を名乗りましたが、源頼朝の挙兵に当初参加しなかったことなどから幕府から冷遇され、義貞の代には所領である田畑を切り売りするなど困窮していました。

また元服と同時に従五位下に任官された尊氏に対し、義貞は無位無官であったように両者は対照的な関係にありました。

尊氏と義貞は当初協調関係にあったものの、後には鋭く対立します

後に尊氏と義貞は対立することになりますが、この先祖からの優劣関係が根底にあり、またそれを朝廷に利用される結果となってしまいます。

「尊氏なし」の建武の新政

鎌倉幕府が滅ぼされると後醍醐天皇は帰京して、天皇が自ら政務を見る親政を開始します。建武の新政です。

尊氏は勲功第一とされ従三位に叙任、また天皇の諱(いみな)の尊治(たかはる)の一字を与えられ、尊氏と改名します。

しかし尊氏は高い官位は与えられても重要な役職には就いていません。これは天皇が尊氏を敬遠したとも、尊氏が政権と距離を置いたともいわれています。この状況を指して世間では「尊氏なし」と不思議がったそうです。

ただし弟の直義(ただよし)や執事の高師直(こうのもろなお)などは要職に就いており、また尊氏自身が倒幕第一の功労者でしたから政府に対する影響力は大きかったと考えられます。

後に紹介しますが尊氏という人は世俗の栄達などには淡白でしたから前者、あるいは自らが要職に就かないことで周りの人間を栄達させたのかもしれません。

建武の新政は発足早々さまざまな問題を抱えます。

問題点としては、まず武士への冷遇が挙げられます。

各地の武士たちは北条氏のみが繁栄する鎌倉幕府を倒すことにより自分たちに大きな恩賞が下ることを期待していましたが、望んでいた恩賞を手にした者はごくわずかでした。

例えば赤松円心は六波羅探題攻略に大きな功を挙げたにもかかわらず恩賞はほとんどなく、それを不満として播磨に帰ってしまいました。円心の離反は新政に大きな陰を落としました。

また偽の綸旨(天皇の命令書)が横行したり、恩賞や土地の保証を求める申請が殺到したりするなど行政機関も混乱していました。さらに内裏(だいり、天皇の住居)建設のために重い税が課せられるなど、人々の不満は高まっていました。

そして新政の成立からわずか2年後、関東で北条氏の残党が乱を起こし、その勢いはたちまち関東一円に広がりました。(中先代の乱)当時鎌倉にいた直義と千寿王は窮地に陥ります。

尊氏は天皇に自分が征夷大将軍となって乱を鎮定したいと願いますが、天皇はこれを却下します。尊氏を関東に行かせればそのまま自立すると考えたからです。

結局尊氏は天皇の命に背き、軍を率いて鎌倉に向かい、乱を鎮圧しました。

そして天皇が恐れていたように尊氏は鎌倉に止まり、功のあった武士たちに恩賞を与え始めるなど独自の動きを見せるようになります。これは尊氏の意思というよりは、弟の直義や高師直の考えでした。

尊氏は天皇からの召喚命令も無視して鎌倉を動きませんでした。

尊氏引退?

ついに後醍醐天皇も動きます。天皇は尊氏討伐令を出し、新田義貞を総大将とした討伐軍を関東に送ったのです。朝敵(朝廷の敵)となってしまった尊氏は周囲の反対も聞かず、赦免を求めるため寺に入り断髪してしまいます。

総大将を失った足利軍は士気が低下して各地で義貞の軍に敗れます。

そこで尊氏に従う者たちは策をもって尊氏に翻意を促します。たとえ尊氏が赦免を願っても決して許さぬ旨を書いた偽の綸旨を作り、尊氏に見せたのです。

箱根・竹之下の戦いで尊氏は義貞を破り京都への進軍を決意します

さらに直義が決死の思いで戦っていることを知ると「直義が死ねば自分は生きていても意味がない」と言って、ついに意を翻して軍の指揮を執るようになります。

すると足利軍は蘇ります。また義貞に従っていた者たちの裏切りもあり、ついに討伐軍を破り(箱根・竹ノ下の戦い)、今度は軍勢を京都に向けたのでした。

軍勢を京都に向けた理由は後醍醐天皇の側に仕える新田義貞討伐のためです。

尊氏と直義

尊氏直義の兄弟は非常に仲が良く、ある時期までは二人三脚で幕府を支えていました

ここでこの兄弟について触れておきたいと思います。この二人は同じ母から生まれており、幼少の頃より非常に仲が良かったといわれています。

器量が大きい兄と頭が切れる弟のコンビネーションが室町幕府を成立させたといっても過言ではありません。

後に尊氏は清水寺に次のような旨の願文を残しています。

「自分は早く遁世して、今生の果報は全て直義に賜り直義が安寧に過ごせるよう願います。」

当時は長子相続というものは確立しておらず、兄弟で相続争いをするなどということは普通に起こりえたことです。しかしこの兄弟に限ってはそのようなことはありませんでした。

この時はまだ…。

話を戻しましょう。

尊氏は関東の大軍を率いて京都に攻め上ります。これに対して後醍醐天皇は比叡山に逃げ延びます。

しかし東北地方にいた北畠顕家(きたばたけあきいえ)、態勢を立て直した新田義貞、楠木正成らの軍が今度は京都に進軍してきました。そしてこれに敗れた尊氏は京都から逃げ、西国に落ちていきます。

このとき播磨に立ち寄った尊氏は赤松円心と会い、円心から後醍醐天皇の前の天皇であった光厳天皇の院宣を賜るよう進言されます。尊氏はこの進言を受け入れるとともに、勢力の回復を目指して九州まで落ち延びます。

捲土重来~尊氏再び京へ

九州に行きついた尊氏は地元豪族の協力を得ることに成功し、天皇方の軍を多々良浜(たたらはま)で破ると一気に勢力を回復し、京都を目指して進軍を開始します。

鞆の浦で光厳上皇の院宣を受け取った尊氏は水路京都を目指します

そして鞆(とも、現広島県福山市)で光厳上皇の院宣を得て西国の武士を味方に引き入れると、湊川(現兵庫県神戸市)で新田・楠木連合軍を破り、再び入京を果たします。

桜井の別れ

楠木正成はわずか数百の兵で数万の足利軍と戦い散りました

湊川の戦いで楠木正成は戦死します。正成は後醍醐天皇に自ら考えた戦略を提案しますが却下され、確かな戦術眼をもつ正成はこの戦の敗北と自らの死を覚悟しました。

そこで正成は従軍させていた幼い息子の正行(まさつら)に故郷に帰るよう諭します。しかし正行は頑として聞こうとしません。すると正成は自分が討ち死にした後のことを頼むと改めて諭し、父子は涙ながらに今生の別れを遂げた、という話です。

戦前の教科書には必ず載っていたほか、唱歌にも取り上げられていた話です。

尊氏、室町幕府を開く

尊氏は京都に入ると後醍醐天皇と和睦をしました。天皇は光厳上皇の弟光明天皇に譲位することで決着します。しかしその後、後醍醐天皇は吉野に脱出しそこで新たに朝廷(南朝)を開きました。南北朝時代の幕開けです。

一方尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が成立します。

しかし実際の政務は専ら直義に任せていたようです。

後醍醐天皇の崩御と足利尊氏

尊氏が征夷大将軍に就任した翌年、吉野の後醍醐天皇が崩御します。尊氏は追悼のために天龍寺を建立しました。

政見の相違から敵味方になったものの、尊氏は後醍醐天皇を尊敬していたことは間違いありません。

尊氏にはこのような、良く言えば素直で優しい、悪く言えば優柔不断なところがしばしば見られます。

観応の擾乱~足利兄弟の対立

後醍醐天皇崩御の後、北朝が南朝を各地で圧倒し南北朝の統一は時間の問題かと思われました。しかし北朝内部の紛争が、時代をさらなる混迷の中に叩き込みます。

足利直義は兄尊氏を助け、室町幕府初期の政治を主導しました

南朝との戦いで軍事的に貢献したのが将軍の執事であった高師直でした。師直は足利一門を中心に政治を行う直義に対して不満を持ち、ついにクーデターを起こします。

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の幕開けです。

高師直は尊氏の執事として主に軍事で活躍しました

高師直(以前は足利尊氏とされていましたが、現在では高師直、または高氏一族の人物ではないかとされています。)

この結果、直義は政治から引退させられて、代わって尊氏の嫡子義詮(よしあきら)が鎌倉から呼び寄せられ、師直が後見するという体制が作られます。

しかしこの体制は長続きしません。

尊氏の庶子で直義の養子になっていた直冬(ただふゆ)が九州で反乱を起こしたのです。

尊氏の子供たち

最初に書きました通り、尊氏の正室は北条氏の出身でした。長男は義詮、後の幕府2代将軍です。次男は基氏(もとうじ)、後に鎌倉にくだり初代関東公方(くぼう)となり、関東の支配を委ねられます。

尊氏没後、長男の義詮が征夷大将軍の位を継ぎます

一方直冬は正室からの生まれではなかったため、尊氏からは認知してもらえないなど冷遇されます。直義には子がなかったため、これを見かねた直義は直冬を養子に迎えました。

直冬は当然実父である尊氏を憎みます。

足利基氏

このことをもって尊氏が酷薄な人間であると言い切ることはできません。

なぜなら尊氏の正室は北条氏出身ということで肩身の狭い思いをしていました。このため尊氏は正室から生まれた子供を立てることで彼女の尊厳を守るという配慮をしたと考えられるため、評価は難しいところです。

尊氏・直義兄弟の別れ

直冬の反乱に呼応して引退後幽閉状態にあった直義は京都を脱出、南朝に帰順して反師直の兵を挙げます。尊氏と師直は戦いを挑みますが敗れ、尊氏は直義と和睦します。

これにより尊氏は無事京都に戻りますが、師直は直義の配下に殺されてしまいました。こうして直義は再び政務に復帰します。

しかし尊氏はこの乱はあくまでも直義と師直の争いであると考えており、乱の論功行賞については尊氏に従った者たちを優遇するなど直義とは認識が異なっていました。

もはや尊氏と直義の関係修復は不可能になっていたのです。

薩埵峠において尊氏は直義を破り兄弟の争いに終止符が打たれます

今度は尊氏が南朝に降伏して直義討伐の綸旨を得ることに成功し、直義は追い詰められます。そして尊氏との戦に敗れた直義は鎌倉で捕らえられ、直後に急死します。

直義の死は尊氏による毒殺という説もあります。

なぜ尊氏と直義は対立したのか

先述の通り、二人は非常に仲の良い兄弟でした。尊氏は政務を直義に任せ(ただし軍事指揮権や恩賞授与の権限は尊氏が保持していたといわれています)、先述のように直義のことを想う願文を奉納するほどです。しかし最後には対立してしまいます。

その原因は、直義は北条泰時の時代を理想として政治を行い、足利氏の一門を重用したため、これに不満を抱いた高師直を筆頭にした外様の武将達が尊氏の元に集まったことにあります。

もう一つあるとすれば、義詮と直冬の関係でしょう。

直義が幕府内にいれば直冬が重用され、将軍家嫡子である義詮の地位が相対的に下がります。そのような事態を尊氏は恐れていたはずです。だから将軍位の安定のために直義の排除を決心せざるを得なかったのではないでしょうか。

結局本人たちを取り巻く周囲の環境が二人の関係を破壊してしまったということです。

尊氏の死

直義没後も尊氏は南朝と旧直義派の武将との戦いに明け暮れます。そして混乱が収まらぬまま、尊氏はこの世を去ります。

足利義満は南北朝合一を行い天下の安定をもたらしました

足利義満

尊氏が他界して、孫の3代将軍義満(よしみつ)が南北朝合一を果たします。その結果、北朝の系統が現在にも至る皇室となりました。

逆賊足利尊氏

尊氏を逆賊であると評価したのは、「水戸黄門」の名で知られる徳川光圀(みつくに)が創始した水戸学です。

徳川御三家水戸家の生まれである光圀は大日本史の編纂など水戸学の創始者として知られています

徳川光圀

水戸学は朱子学の影響を強く受けており、尊氏が正統である後醍醐天皇と対立して別の天皇を擁立したことは反逆行為であるとして強く糾弾されたのです。

この思想は幕末の志士たちに強い影響を与え、江戸幕府を倒す旗頭として天皇を前面に押し立てました。これによってできた明治新政府は天皇を中心とした政治を標榜しました。

すると必然のように足利尊氏は天皇に反抗した人物として逆賊扱いされるようになってしまったのです。

戦前は天皇に忠誠を誓うことを国民に求めたので、その点で尊氏はわかりやすい批判対象にさせられたということです。

戦後になってようやく政治的呪縛から解放されて、尊氏も正当に評価されるようになりました。

一方湊川で戦死した楠木正成の評価はうなぎのぼりです。水戸学において日本一の忠臣と評価された正成は、明治維新後さらにその評価を高め、現在も皇居前には正成の銅像があるほどです。

ただしその正成も南北朝合一後しばらくは北朝の天皇に反抗した朝敵として扱われ、戦国時代に朝廷に対して正成の子孫が嘆願したことでようやく許されたのでした。(松永久秀が仲介したといわれています)

尊氏の評価が上がれば正成の方は下がり、正成の評価が上がれば尊氏の方は下がる。二人の評価はときの政治に利用されてしまった結果なのです。

足利尊氏という人物

以前別のコラムでも触れたのですが、尊氏とも親交のあった夢窓疎石(むそうそせき)という当世きっての禅僧が尊氏を次のように評しています。

一、心が強く、合戦で命の危険にあうのも度々だったが、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。

二、生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵すら許し、しかも彼らに我が子のように接する。

三、心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀すらまるで土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、財産とそれを与える人とを特に確認するでもなく、手に触れるに任せて与えてしまう。

つまり戦場では死を恐れぬ勇敢さがあり、敵にも寛容に接し、無欲であるということです。

特に三については、下の人間から見れば実に魅力的な人物といえます。

ですから何度か尊氏は戦いに敗れていますが、それでも人が集まり、尊氏が陣頭に立てば皆(恩賞欲しさに)命がけで戦ったのです。

もっともこの尊氏の寛容さ、気前の良さは逆に室町幕府にとっては足かせとなった部分もあります。

具体的にいえば、尊氏は領地も気前よく与えたがために、室町幕府自体の直属軍をほとんど持つことができず、多くの領土を持つ守護大名の統制に苦心しました。

尊氏という人物には、他の幕府創設者である源頼朝や徳川家康のような冷酷さ、非情さといったものがほとんど見られません。その分、室町幕府という組織は不安定であったことは否めません。

また観応の擾乱での対応が南北朝時代を長引かせ、戦乱の時代を終息させることができなかったことに対する厳しい批判もあります。

源氏の血を引く家柄、そして無欲で心の広い尊氏は周りから見れば絶好の「神輿」だったのでしょう。

見栄えが美しく、しかも担ぎ心地の良い「神輿」。尊氏とはそのような存在だったのかもしれません。