粋なカエサル

「長崎とキリスト教」6 「小ローマ長崎」①

2020.09.29 05:55

 トーレスの命を受けたフィゲイレドらは長崎港の水深などを調査し、港に適していることを発見。彼らは領主である純忠と協定を結び、ここに長崎の港が開港することになる(1570年)。

 開港以前、長崎の中心は長崎氏の館があった桜馬場や夫婦川、片淵の一帯で海は現在の勝山町付近までせまっていた。1567年、アルメイダは長崎甚左衛門(大村純忠の重臣の1人。純忠の名をもらい純景とし、純忠の娘を妻としている。1563年、純忠受洗時に甚左衛門も洗礼を受けたとされ、ベルナルドの洗礼名を持つ)から布教の許可を取り付け、1569年、ヴィレラは甚左衛門から与えられた土地にトードス・オス・サントス教会を建設した。これが長崎における初めての教会だった。甚左衛門の城下町はキリシタンの町としての性格を強めていったが、やがて少し離れた岬の6町に発展を奪われていく。

 開港とともに長い岬の大地に新しい町が誕生した。先端は教会のために残し、道を隔てて島原町、平戸町、大村町、横瀬浦町、外浦(ほかうら)町、分知(文知)町がつくられた。町名は移住者の出身地により名付けられ、集まってきた住民のほとんどは、追放されたキリシタンだった。町の人口はみるみる増えていき、ポルトガル船も毎年定期的に入港するようになった。しかし、長崎が繁栄していくにつれ、それに反比例するかのように、純忠にとっては悪戦苦闘が続く。

1572年 「三城七騎籠」(さんじょうしちきごもり) 

                【大村純忠 VS 後藤貴明・松浦隆信・西郷純尭】

 後藤貴明(たかあきら)は、平戸の松浦孝信、諫早の西郷純尭(すみたか)と謀り、大村の三城城を攻撃。しかし、純忠はわずかの兵でこれを撃退。のちに大村家では、城の三方を敵に包囲されながら勝利したこの籠城戦を「三城七騎籠」と呼ぶようになった。

1573年 長崎最初の教会焼き打ち 【大村純忠・長崎甚左衛門 VS 西郷純尭・深堀純賢】

 西郷純尭は大村を攻撃。純忠は難を逃れたが、長崎では純忠死亡説が流れた。長崎甚左衛門は純尭にする覚悟を決めたが、純忠生存の知らせを聞き防備を固めた。純尭の弟深堀純賢(すみまさ)も長崎に攻撃をしかけ、家々やトードス・オス・サントス教会を焼き払った。

1573年 純忠暗殺計画      【大村純忠 VS 西郷純尭・有馬義貞】

 この時代、西郷純尭は純忠の実兄有馬義貞を手中におさめていた。純尭は義貞に命じて純忠を誘い出し殺害しようと企むが、義貞は弟を不憫に思い、純尭の謀略を打ち明け、これを助けた。

1580年 勝山の乱        【大村純忠・長崎甚左衛門 VS 西郷純尭・深堀純賢】

 西郷、深堀両氏による大村、長崎攻撃は断続的に行われた。1580年、純忠の援軍は純尭勢を破り、その勢いで甚左衛門は純賢勢を破った。以後この地を勝山と呼び、現在の長崎市勝山町の起源となる。

1581年 人質事件        【大村純忠 VS 龍造寺隆信】

 龍造寺隆信の重圧は厳しく、純忠は長男喜前(よしあき)を人質に取られ、さらに次男純宣(すみのぶ)、三男純直(すみなお)の二人も人質となった。劣勢の純忠は三城城から追放され、その後隆信は喜前を三城城に入れて意のままに操った。

 以上のように、度重なる西郷、深堀両氏による攻撃、さらには龍造寺氏による圧力、また有馬氏は口之津(くちのつ)にポルトガル船入港を図りつつあった(1567年、ポルトガル船、口之津入港。1579年、イエズス会巡察師ヴァリニャーノ、口之津来着)。こうした状況の中、純忠は驚くべき方法で勢力維持を図る。

「大村純忠の受洗」横瀬浦公園 陶板

「大村純忠像」(カルディム「血染の花束」)

「長崎甚左衛門 像」長崎市上西山町 長崎公園

大村純忠と周辺勢力

開港以前の長崎図(想像図)

慶長年間(1596-1615)の長崎(復元図)