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五郎のロマンチック歴史街道

懐かしの活動写真館シリーズ【最終回】興栄ビル(加古川興行<株>)

2020.09.30 22:50

イオンシネマに先んずること十八年前。この加古川で“マルチプレックスシネマ”の原型が誕生した。

これは、映画復権を夢に見た一経営者が“起死回生”を図った回想録でもある。



興栄ビル(加古川興行<株>)

~加古川市加古川町篠原~


ご承知の通り、現在加古川市にある映画館は、平成13年月1月26日にオープンした「ワーナーマイカルシネマズ・加古川」(現「イオンシネマ」)1館のみである。


そしてこれは“マルチプレックスシネマ”と言われ、同一の建物に複数のスクリーンを持ち、好きな映画を好みの時間に見ることのできる、元来はアメリカンタイプの「複合映画館」のことである。

しかしながら、このニュータイプの原型である複合映画館が、すでに昭和45年当時に加古川に誕生していたことを私たちは覚えているだろうか‥?

もしこの映画館が生まれていなかったとしたら、人口20数万の加古川市には、実に30年間以上、映画館がなかったことになるのである‥。



昭和40年代初頭における映画館経営の困窮


「旭倶楽部」にても述べた通り、昭和30年から40年代、私たち団塊の世代に夢と憧れを与えてくれたのは、“娯楽の殿堂”「映画館」であった。

昭和21年から昭和40年代前半にかけて、加古川には6館の映画館があった。第1新興会館と第2新興会館(篠原町のビル内)、旭倶楽部(本町)、大劇(寺家町)、加古川劇場(西本町)、日映(篠原町)である。

これらは、すべて持ち主(経営者)が異なり、それぞれが専用の建物として映画館を有していた。

しかし、昭和39年の東京オリンピックを契機として急速に普及し始めたテレビの登場により、「映画」は衰退の度を強め、昭和40年の半ばには各館ともに観客数が激減、映画館経営の継続が困難となって加古川における全ての在来型映画館が止む無く閉館するに至った。

加古川初の“複合映画館”誕生「興栄ビル」


6館もあった映画館経営者で、映画復興を夢見て、その熱き情熱を行動に移そうとした経営者が一人いたとしても、決して不思議ではない。以下は、その先駆的事業を成し遂げた一経営者の御子息からお聞きした話を中心に記述していくこととする。その方を、ここでは仮に「A氏」と呼ぶ。

当時、A氏は当市において近々、全映画館が廃館になることを予想していた。しかしながら、テレビでは決して味わえない映画のスケールと醍醐味をなおも求めているファンが少なからずいる、ということを信じて、自身の半生を賭けて、起死回生を図ることを決断するのである。


それは‥‥これまでとはまったく違う形、すなわち、駅前という至便かつ人々が一番多く集まる場所における単一の映画館内で、ファンは多様な映画鑑賞が出来るという、観客側、経営者側双方にとってメリットが大きい映画館を作ること‥であった。彼にとっては、決して失敗が許されない大きすぎる賭けであったことは、当然のことながら十二分に覚悟したうえでの一大決心であった。


A氏は、ご自身が経営する映画館以外のそれぞれの経営者と時間をかけて個別交渉を重ねた結果、すべて円満に解決し、映画館経営に関わる権利を取得することに成功した。


そして、その翌年の昭和45年(または46年)に、社名を「加古川興行(株)」として、加古川町篠原に4階建ての「興栄ビル」を建て、心機一転して映画館経営に没頭、邁進した。


その労苦と、以降の経営努力が報われ、昔の黄金期ほどではないにしても、集客数は、経営を圧迫するほどには至らなかった。


ここで興栄ビル内部構造について、その概要を記録しておく必要がある。

メーンは、1階の「加古川東映」と3階の「加古川シネマ」。2階には「ローズ劇場」を増設した。

さらに、1階の空いたスペースには「グリーン劇場」を増設した。なお、4階は映写室として使用した。


洋画を含む全配給会社を対象とした、まさに加古川初の”複合映画館“であった。



社会貢献としての車椅子寄贈


『典子は、今』(のりこは、いま)は、1981年(昭和56年)制作の日本映画。実在のサリドマイド病患者である辻典子(現:白井のり子)の半生を描いたセミ・ドキュメンタリー的な映画で、辻が本人役で主演している。

身体障害者の社会参加を力強く訴えた作品として注目された。監督は松山善三。松山の妻で元・女優の高峰秀子が辻の演技指導担当の助監督として参加している。

1981年の邦画配給収入第3位。第4回ジョン・ミュアー医学教育映画祭グランプリ受賞。この映画の封切に当たって、A氏は、事前に市の社会福祉事務所に、多数の車いすを寄贈した、とのことである。

興行収入アップという営利目的ではなく、身体障害者の方々の実態を知り、世間に広く理解してもらいたいと考えた純粋な慈善事業でありました、とのお話しであった。世の中で立派と称される経営者には、おのずから社会奉仕精神が宿っているものであり、A氏においてもその例外ではなかった証左である。


苦渋の決断、映画界からの撤退


山口百恵、桜田淳子、森昌子の「花の中三トリオ」といわれた当時から、彼女たちを起用した映画がたくさんできたが、こんな場合、一人または二人が他の映画とバッティングした場合には、館内で別々の映画を上映し、観客を同時に取り込むというような戦術もとりましたよ、とのお話しであった。





斜陽化が進む中での映画館経営は苦労の連続でした‥と当時を懐古される‥。


「自転車預かり所」はあえて作らなかった。その理由は、駅前であったので、すでに周囲には多くの方が経営されていた。そのための投資は全く必要なかったからである。


約20年間の歴史を刻んだ末、興行を辞めたのは、平成元年。

余力を残しての潔い撤退であった。

ここに至って、平成13年までの12年間にわたり、加古川には映画館が全く存在しない空白の時間が続くことになったのである。


上映時間に合わせてJRが臨時増発便を運行!

A氏の思い出話は、なお続く‥。

実話をテーマにした『愛と死をみつめて』は、大学生河野實(マコ、1941年8月8日-)と、軟骨肉腫に冒され21年の生涯を閉じた大島みち子(ミコ、1942年2月3日-1963年8月7日)との、3年間に及ぶ文通を書籍化したものである。


1963年(昭和38年)12月25日、大和書房より刊行された。本書は160万部を売り上げる大ヒットを記録。また、1964年の年間ベストセラーの総合1位を記録した。


これを映画化した「愛と死を見つめて」は全国的に爆発的な人気を博した。吉永小百合、浜田満男主演(昭和39年封切)。吉永小百合がせつなく歌う主題歌も一世を風靡した歌曲であった。

ヒロインが西脇市出身であったこともあり、西脇から女工さんが大挙して映画館に押し寄せることになり、なんとJR加古川線のダイヤがパンク。

止む無く上映開始時間、終了時間に合わせて臨時列車を運行するに至った、とのことである。

当時ではまず考えられない現象でした‥と遠くを見るようなまなざしで話されていた。


苦しいことも多かったが、そうであったからこそ、良き人生であったと、懐古もできる。A氏ご自身のこれまでの足跡をいとおしむかのように、ゆったりと話されていたことが印象的であった。



編集後記

興栄ビルの思い出については、私の家族の中でも話題となった。それは、

小学3年生当時の長男の思い出話である。

長男によると、友達と一緒に「興栄」にガンダムを観に行きたいというので、お父さんに付き添ってもらった。

入り口で販売していたこのポスターが気に入ったので是非ほしいとねだったが、既に売り切れ。

そこでお父さんが映画館に貼ってある同じポスターを見つけ、「何とか売ってほしい」と店員さんに掛け合ったところ、なんと譲ってくれた、とのこと。

彼はそのことで、“あきらめずに努力することが大切”ということを学んだという。37年も前の他愛のない話であるが、彼はその“教訓”を孫に教えているらしい‥。