増え続ける【 #西城秀樹 論】―その功績、伝説―
日本の音楽史に残るアーティストの功績を音楽的な側面からたどる本連載。初回で取り上げるのは、5月16日に死去した西城秀樹だ。“ヒデキ”が歌謡曲史に残した爪痕を、2回に分けて振り返っていく。
日本人の多くが“ヒデキ”と聞いて思い浮かべるのは、西城秀樹だと言っていいだろう。彼のような人はもう二度と現れない……その活躍を見届けてきた人ならば誰しもがそう思うスーパースター。間違いなく彼はそうだった。
歌謡曲華々しき時代を駆け抜け、孤高でありながらもお茶の間を通じていつもその存在を身近に感じさせてくれたスーパースター西城秀樹。彼を失った喪失感は思っていた以上に大きい。しかし、1つや2つのヒット曲だけでは語り尽くせない彼の偉大なる足跡をこの先の世代にも伝えていくことで、ヒデキの歴史にまた新しいページが刻まれることになるだろう。
【西城秀樹】『ザ・ベストテン』で満点(9999点)。番組開始の1978年から1985年までの8年連続でランクイン。
絶妙な総合チャートを作り、視聴者をテレビに釘付けさせた『ザ・ベストテン』。他の誰も通り抜けられなかった難関を乗り越えた西城秀樹さんは、まさに国民的スターだったのだ。
2018/7/16(月)NEWS ポストセブン
5月16日に西城秀樹さんが逝去してから、2か月が経つ。抜群の歌唱力と派手なアクションで人々の心を掴んだ西城さんを惜しむ声は今も絶えない。
TBSで『ザ・ベストテン』の特番を行ない、西城さんに記念の椅子をプレゼントしたらどうでしょうか。
『ザ・ベストテン』は様々な場所から中継を行なっていることもあり、時代の空気を感じ取れる。版権の問題があることは承知していますが、貴重な映像資料として絶対に後世に残すべきだと思います」
昭和歌謡界の革命児 西城秀樹と桑田佳祐 (1/2ページ) 酒井政利 時代のサカイ目
『ブームとなっている昭和歌謡だが、昭和歌謡はいくつかの時期に分けられる。その節目のひとつが70年代の青春歌謡、ロック歌謡。その先頭で時代を引っ張っていたのが新御三家の次男といわれた #西城秀樹 だった
夕刊フジ 2018.6.6
「革新的アイドル」西城秀樹は理屈じゃ語れない
西城秀樹さんがアイドルの世界でやったことは、画期的に新しいことだった。
世間は「新御三家」などと据わりの良い言葉で西城秀樹という現象を整理しようとしていたが、そこにあったのは今まで見たことがない明るい「大彗星(すいせい)」の登場だったのである。
https://lineblog.me/mogikenichiro/archives/8474437.html
産経新聞iRonna 2018/05
1975年11月、「日本歌謡大賞」のノミネート歌手発表会で熱唱する西城秀樹さん
西城さんは、自由で元気で明るい1970年代以降の日本文化の象徴だった。これほど年齢性別問わずに愛され、時代とともに生きてきたスターが日本の大衆文化を作り、私たちの考え方や生き方にも影響を与えてきたのである。
同世代の人たちは、まるで兄弟が突然亡くなったような驚きと悲しみを味わっただろう。
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特にヒデキファンというワケではなく、突然の訃報に接する直前まで正直西城秀樹のことは1㎜も考えたことがなかったのに、この知らせは予想外に堪えた。何なんだ、これは?
西城秀樹はただのアイドルではなく、自ら開拓するアーティスト、時代の先駆者だった。
アイドルのライブに欠かせない「ペンライト」は西城秀樹のおかげで産まれた!!意外な誕生秘話が話題に : はちま起稿
その昔、「みんながどこにいるのかステージからは見えないので、家から懐中電灯(!)を持って来て自分達の場所を教えてほしい」と西城秀樹さんがおっしゃったことがペンライトができるきっかけになったので、今、サイリウムやらキンブレやらを振っている人達はみんな敬意を表するといい
現在、男性アイドルといえばジャニーズのアイドルを連想する人が多いと思われるが、実は日本の男性アイドル像が確立される中で最も大きな役割を果たした一人が、ジャニーズではなく、芸映プロダクションに所属していたヒデキだったのだ。
芸能界にはそんな西城さんが“先駆け”とされるパフォーマンスが数多く存在する。
大村「秀樹さんは1974年、大阪球場で野外ライブを行いました。野球場でライブというのも、西城さんが先駆けと言われています。写真では、ファンの方がペンライトを振っているように見えますが、当初はこれ、ペンライトじゃないんです。ラジオで“観客のみんなが見えるように、懐中電灯を持ってきて”とファンの方々に声を掛けたのがきっかけだったそうです。その翌日のライブでは皆さん懐中電灯をかざして、それに対して秀樹さんは“初めて見る観客の光は幻想的だった”とのちにお話されています。この懐中電灯が、今のペンライトになったんです」
クレーン車により高く吊り上げられた状態で歌ったり、オープンカーでグラウンドを一周したり、連続花火を打ち上げたりといった、ヒデキの球場コンサートでの演出の数々は、その後のアイドルの球場コンサートの定番演出となった。
音楽業界へ与えた影響
79年の『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』や84 年の『抱きしめてジルバ』など、洋楽カバーのヒット曲も多く、コンサートでも様々な洋楽ロックをカバーしていました。現在のヴィジュアル系バンドの唱法も、元をたどればヒデキと通ずる部分はあると思います」
西城秀樹さんが音楽業界に影響を与えた「文化」と「歌唱テクニック」|au Webポータル芸能ニュース
その独特のシャウト唱法は、後のJ-ROCKアーティストたちにも影響を与えた。97年には、THE HIGH-LOWSやROLLY、ダイヤモンド☆ユカイなど、西城秀樹さんに憧れて育った、有名ロックアーティストが参加したトリビュートアルバム『西城秀樹ROCKトリビュート KIDS' WANNA ROCK!』が発売された。
【深ヨミ】西城秀樹さんベスト盤の売上動向から見る、誰もが知るアーティストの強さ
yuc★etoile @EtoileYuc
WEB上に増え続ける「西城秀樹論」
2013年頃、youtubeで動画を観て、えっと驚き、尋常じゃないほど歌が上手い、ということに気がつきました。それから、コンサートに行くようになりました。こんなにすごい人がどうしてもっと評価されないんだろう、とずっと思っていた。
「あの歌声は、すべて人間性から出ていた」
「日本中がヒデキをもっと大切にすべきだった」
その評価が、訃報後から急激に上昇。
「動画めぐり」が止まらない!世代を超えて、「秀樹沼」にはまる人達。
poohさんのツイート:
<論説コラム>西城秀樹とその時代〜昭和歌謡を疾走した若き獅子 | CBC論説THEコラム | CBCテレビ
昭和の一時期、彼の歌を愛したひとりとして、私には「疾走」という言葉が浮かんだ。ただの疾走ではない。彼は時代の中で常に「脱皮」しながら「疾走」し続けた。
不自由な身体を隠すこともせずにステージに立った。西城秀樹の「疾走」は最後まで止まりはしなかった。
それを知っているからこそ、沢山の人が彼の数々のヒット曲を振り返り、早すぎたその死
を惜しんでいるのであろう。
CBCテレビ論説室長・北辻利寿
これからも、あなたについて話すとき、
静岡はひとつになるはずです。
「やっぱり西城秀樹はすごかった」
と若者とお年寄りが語り合うのです。
ついに、「西城秀樹展」開催!
西城秀樹 X 公立美術館 | Twitterで話題の有名人 - リアルタイム更新中
全国初、公立美術館で「西城秀樹展」 全国のファン感激!問い合わせ相次ぐ(西日本新聞)
鹿児島の地方紙の片面全てがヒデキです
1993年150年に一度と言われた大水害時、高校生を励まし一緒に吹奏楽でヤングマンを共演。
チャリティは本当に数多くされてきた秀樹さん。脳梗塞後も講演で来鹿。偉大なスターであるには違いないが、私は西城秀樹以上に謙虚なスターを知らない。
https://twitter.com/TRnWUhgA1te38SK/status/997324049335308288
僕が初めてレコードを買ったのは、
西城秀樹さんの『薔薇の鎖』。
それは小学2年生くらいの時、
ドリフとかのテレビ番組で
秀樹さんが唄う『薔薇の鎖』を観て、
未知なるもの、
例えばUFOを見たくらい(見たことないけど)
の衝撃を受けました。
ちなみに元ザ・ブルーハーツの甲本ヒロトさんの
初めて買ったレコードも『薔薇の鎖』。
本誌でも書きましたが、
40~50代のロックミュージシャンで、
秀樹さんに洗礼を受けた方って
本当に多いんですよね。
月刊「歌の手帖」編集部員による、公式ブログ
ヒデキ完璧! 励まし・切望…ローラ12通りの歌い分け
https://www.asahi.com/articles/ASL6D6GJNL5YUPQJ007.html
亡くなって、音楽番組「ザ・ベストテン」の司会をされた黒柳徹子さんが「あんなに歌のうまい人はいない」とおっしゃっていましたが、単に強い声を出すというのではなく、うまさの中の振り幅の多様さが称賛の理由でしょう。
西城秀樹の評価は低すぎます。これからも長く聴き継がれるべき歌手だと思います。
北川純子さん(大阪教育大学教授)
「ウォークマンの父」とされる元ソニー社員、故・黒木靖夫さんのウォークマン回想録の著書の中でカセット式ウォークマンの第一号発売直後に秀樹さんがウォークマンで音楽を聴きながらローラースケートで疾走する写真がアイドル雑誌「明星」で紹介されこれがウォークマン知名度向上のきっかけの一つになったと黒木さんが語られています。
サザン桑田佳祐、西城秀樹への想いを語り、ヤングマンを熱唱「共演できたことは、一生の宝物」
「本当に実直で、誰に対してもフランク。同い年だけど、兄貴みたいでね。ライブの楽屋で1時間くらい、初めてじっくりお話をさせていただいたんだけど、打ち解けられるように気配りして話してくださって。大好きで、またいつかご一緒したかった。日本の音楽界を大きく作り変えた方だと思う。本当にありがとうございました」