キッシンジャー ‐ 世界をデザインした男(上・下)
アメリカの国際政治学者、キッシンジャー(Henry Alfred Kissinger)氏は1954年にハーバード大学で博士号を取得後、同大学で教鞭をとり、外交問題評議会への参加を通じて、アメリカの外交政策に提言を行い徐々に当時の政治家と人脈を構築し、ついには 第37代アメリカ大統領、リチャード・ニクソン、そして、第38代大統領ジェラルド・フォードのもとで、国家安全保障問題担当大統領補佐官と国務長官を歴任し、ベトナム戦争の終結や、中国とアメリカの国交正常化、ソ連との第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策の推進等で際立った外交成果を収め、1973年にそれらの功績によりノーベル平和賞を受賞した人物です。本書は、ベストセラーになった「スティーブ・ジョブス」の著者、ウォルター・アイザックソン氏による伝記です。(上梓は1994年。)
キッシンジャー氏はもともと、ユダヤ系ドイツ人で少年の頃、ドイツで台頭してきたナチス・ドイツの迫害から逃れるためにアメリカへ移住してきた家族の出身です。(ナチス・ドイツの迫害により、13人にも及ぶ彼の身内が強制収容所送りになり命を落としました。)その悲惨な出来事が彼の性格にも影を落としているせいか、彼をよく知る人物の彼に対する評価には、彼に対する憎しみ、憎悪、敵意、畏怖などネガティブなものもあるようです。(実際、ハーバード大学内での組織においても、政治的な交渉事ことでも、目的の達成のためには、時には平気で嘘も言い、強引な態度を取って根回しをしていたと伝えられます。)
そいうった複雑な性格のキッシンジャー氏ですが、特に際立っているのが頭脳の明晰さです。その一例がハーバード大学における卒業論文の量の多さです。「ハーバードの三百五十年の歴史の間においても、彼の四年次の論文はいまだに畏敬の念をもって語り継がれている。まずはその量の多さ。三八三ページにも及ぶ学部学生の論文は前代未聞だった。その後もそれを超えたものはない。『キッシンジャー・ルール』とでもいうべきものができあがって、いかなる大作もキッシンジャー論文の三分の一を超えるべからずという決まりになったからである。」(上、P94)
また、ナチス・ドイツにより多くの親族の命を奪われた、という強烈で現実的な体験は、彼の外交姿勢にも大きな影響を与えました。キッシンジャー流のリアリズム主義です。キッシンジャー氏はあるところに「歴史を通じて国々の影響力は大雑把に言ってそれぞれの軍事力に比例している」と書いたそうですが、彼には、「武力による勢力均衡」という外交哲学があり、何より核兵器の量と質の保有を背景として、相手国と交渉に臨むという外交姿勢を貫いたのです。(核兵器による被害を被った、唯一の国である日本の中には、武力に頼る外交には相当なアレルギーを持っている人もいるかと思いますが、しかし、特に当時のスターリンをはじめとする共産主義指導者の野蛮で、肉食的な外交姿勢に対しては、(私的には)キッシンジャーの武力による外交という姿勢はある意味、正当的に感じます。)この「勢力均衡」によるリアリズム外交は、ソ連、中国に対しては威力を発揮しましたが、彼流のリアリズムの根底には、「何事も世界全体のバランスの中でソ連の得になるか、西側の時になるのかをまず考えて判断を行う。」という世界の大勢を考える判断基準があったので、独裁国における民主主義勢力や人権擁護運動への支援といった道義的な運動や、影響が限定的な支援にはあまり実行力を発揮しませんでした。
キッシンジャー氏の他の外交的特徴としては、「秘密主義」が挙げられます。これはもともとは彼のボスであったニクソン大統領が、キッシンジャーを自分のスタッフとして雇う時に、「官僚主導ではなく、ホワイトハウス主導の政治を行いたい。」という話を持ち出したことに端を発しているようです。要するに日本でもそうですが、政治家がリーダーシップを発揮したいときに、どうしても実務を行う官僚は「目の上のたんこぶ」のような存在に見えるようです。そのため、外交の場合では、本来はホワイトハウスと省庁(国務省)が連絡を取り合い、連携して仕事を進めていくのが本来なのに、(ニクソンから信任を受けていた)キッシンジャーは、秘密裏に外交政策を展開し外交の決定事項は後付けで国務省へ伝達することが頻繁にあったのです。
このような外交上の秘密主義は、中国との国交正常化という外交の水面下で密かに進めなければいけない性格の交渉にはその長所を発揮しましたが、一方、この中国との関係改善という国家的な決定については本来、事前に極東の同盟国である「日本政府と十分な協議行ってから北京と対話をする」と国務省は正式に(日本と)約束を交わしていたのですが、日本へは事前報告さえ行われず、(国務省は)外交上の大失態を演じることになりました。
御存知のように、ニクソンも(キッシンジャー以上に)複雑な性格でした。例えば、キッシンジャーのような有能な部下が自分の手柄を横取りするのではないか、という危惧を抱いたり、部下が築いた功績を嫉妬したりしたため、当時のホワイトハウス内では、「猜疑心」がホワイトハウスに巣くってしまい、大統領の許可で盗聴とか、電話の録音をスタッフ同士がなかば公然に行っていたのです。(当然のことながらボスと同様、キッシンジャーも外交の手柄を独り占めにしたいという自己顕示欲を持っていました。前述した、中国との国交正常化の事前交渉を日本と行わなかったのも、結局は、キッシンジャー氏が日本を怒らせても大事にはいたるまいと軽く考え、また、実際日本と事前交渉する際には国務省の仲介が必要になり自分の手柄を横取りされると考え、どうしても国務省の手は借りたくないという意地もあって、結局、日本との誓約を散々に踏みにじる結果となってしまったのです。(下、P462)) このいびつなホワイトハウス内の一種の人間不信は、ニクソン政権が進むと同時により偏在化され、後年の大統領選において、民主党候補者に対する盗聴事件(「ウォーターゲート事件」)に発展します。
このように複雑な性格を持ちながらもそれを凌駕するような知性と行動力でアメリカの外交史において際立つ成果を上げたキッシンジャー氏ですが、その仕事上のプレッシャーの発散のためか、一時期、ハリウッドの若手女優達とデートを重ね、それがゴシップ記事として話題となった時期がありました。もともと他人から認められたい欲求が強かったキッシンジャー氏は、しかし、その外見 ー 度の強さが目立つ眼鏡、ドイツなまりの英語 ー は、ブルックリン出の成功したデリのオーナーと言った方がいいようなものでした。「魅力はあっても洗練されているわけではない。ジャンクフード大好きで話しながらポテトチップスをむしゃむしゃ食べる。彼がやっていた運動もマッサージをしてもらう程度で、彼の行きつけのマッサージ師によると『まりっきり筋肉がついていない』」。しかし、「男は仕事を通じて磨かれる。」と昔からいいますが、彼も、毛沢東、シャルル・ドゴール、アヌワル・サダトら世界の指導者たちを相手に、彼らの「洗練したものごし」や「会話力」「存在力」を意識して自分のものにしていきました。そして、当時情報化時代の先端を走っていたアメリカにおいて、メディアは常に話題を提供する人物に迎合する、という風潮を見抜いていたキッシンジャーは自らの名声を築くためこのメディアを利用したのでした。浮名を流した当時においても「キッシンジャーは一度も自宅に客を呼んだことはない。自宅で料理をしたこともない。住まいは狭苦しい二寝室の貸家で、家具はすべて秘書が安売り店で揃えたもの。心地よい椅子もなければ、あるべき場所にスタンドが置いてあるわけでもない。唯一の装飾は、積み上げられた本を除けば、多彩な外国の要人たちと写っているキッシンジャーの写真くらいだった。名声とは裏腹に、キッシンジャーの寝室はおよそロマンティックなねぐらとはいえなかった。後にそこを垣間見た女性によると、靴下と下着が散乱し、『ものすごい散らかりようで、誰かが住んでいるとはとても思えなかった。』」(上、P479)ということです。