論語読みの論語知らず【第68回】 「力足らざる者は、中道にして廃す」
文章の書き出しをどうするかで悩む書き手は多いとも聞く。映画のはじまりもつくり手は同じように悩むかどうかは知らないが、イントロがとても上手であればグッとその世界に引き込まれていくものだ。作品によっては映画のストーリー云々ではなく細かなシーンだけでも十分に魅惑させて印象に残すものがある。2004年にマイケル・マン監督でつくられた『コラテラル』はそうした映画だ。当時、公開とともに観に行った。日本のある監督はトム・クルーズの演技や作品構成や脚本のリアリティにたいして手厳しい評価をしていたのを覚えているが、まったくそんな風には思わなかった。私個人としては物語の最初10分が妙に気に入っている。
平凡で生真面目なタクシードライバーのマックス(ジェイミー・フォックス)はあまり仲間ともつるまない。車庫で点検と清掃を終えたタクシーに乗り込み、これから宵をむかえるLAの街へと出ていく。出庫直前に自分でもう一度車内を清掃し、ライセンスをダッシュボードに差し込み、お気に入りの写真を日よけにはさみこんで一瞥をくれてからそれを上げる。朝方にシフトを終えるまでに必要な私物をスポーツバックにまとめて入れて助手席に置きエンジンをかけたら出発だ。
しばらく車を流して最初に乗せた男女の客はたわいもないことで激しくいがみ合っている。マックスはルームミラーに見慣れたその光景を眺めわずかなため息とともに日よけを下げて写真を一瞥する。夕方のダウンタウンの人間模様はいつも通り忙しいようだ。何組かの客を拾い届けて頃合いをみてマックスは給油のために馴染みのスタンドによる。「1ガロンが2ドル?戦争に勝ったのにその値段かい?」と店主に軽口をたたけば、「厳しい商売だよ」と言い返された。互いに気さくな握手を交えて去りゆくが、マックスはこれまでにも同じような会話を何度もしているのだろう。街中で中年の男性客を降ろしたあとで、ふとバックミラーでみれば、タクシーに乗りたげなスーツ姿の女性が立っていた。マックスは他のタクシーにとられる前に素早く車をバックさせると、女性は携帯で忙しそうに話しながらドアをあけて車内に乗り込んできた。「どちらへ」ときくとダウンタウンの住所を告げられた。女性は女性客へと変わってもまだ携帯で忙しく仕事の話を一方で続け、それでも器用にマックスに目的地へのルートを具体的に指示した。
電話が終わる頃合いをみてマックスは「105号の高速を使えば早い」と提案するが、女性客は「それだと渋滞に突っ込むわ」と言う。マックスはそれでも「高速を途中で降りれば大丈夫・・・いや仰せの通りにしよう・・」と言いよどむと、「賭けてみる?負けたらどうする?」と持ち掛けられた。「賭け?俺が絶対に正しいが、負けたら料金はチャラだ」とマックスは答えた。女性客は少しだけ間をおいて「いいわ。賭けましょう」といった。車内には静かで古いムーディーな音楽が流れ始めて、タクシーは小雨のなか高速を滑らかに進んでいく。すっかり夜の帳が降りたLAのダウンタウンのビル街が確実に近づいてくるのがみえた。女性客は目を通していた書類から車外を眺めるとマックスに言った。「言いなさいよ」「何を?」「あなたの勝ちだって?」「いや信号がツイてただけだ」「あなたが正しくて、私が間違ってた」女性客はダッシュボードの上のライセンスをみて「マックスというのね」と言って、流れている音楽のボリュームを少しあげてと頼んだ。「古い音楽が好きなのかい?」「高校時代に音楽をやっていたのよ」「木管楽器?」「弦楽器よ。肺活量が無くて」「でもさっきは携帯で大声で話してたと思うけど」女性客は笑った。「ところで高速を使うなんて言わなければ渋滞で余分に5ドル儲けられたのじゃない?」「たいしたことじゃないさ」「お客第一そんなドライバーがいるのね」「競争相手はみな消したよ」マックスが軽口を叩くと女性客は再び笑った。
車中をよくみると清掃が行き届いているのに気づき、「この仕事に誇りを持っているの?」「タクシーかい?いやこれはつなぎなんだ。別のことに全力をかけたいと思っている」「何?」マックスはミラー越しに言いよどむと「聞かせて」とたたみかけられた。「リムジンサービスの会社を立ち上げるつもりなんだ。高級感たっぷりで最高の乗り心地で空港についても降りたくないような気分にさせる。顧客とベンツをそろえてね」今度はマックスが尋ねた「ところで弁護士業はどうなんだい?」彼女は驚きながら「なぜわかったの?」「ピン・ストライプのスーツ、エレガントだが派手じゃない。大切そうな高級ブリーフケース、そしてバックが“ボッテガ”・・あなたは敏腕弁護士というところだろうな」「少し違うわ。検事なの」「何か事件?」「ええ」タクシーは目的地へと近づいて来た。音楽も終盤にさしかかり彼女はリラックスしていた。
「もう着いたわね」「もちろんさ。ところで自分の仕事には満足している?」車を止めたマックスは振り返りながら訪ねた。「そうね」彼女は支払いのためカードを渡しながら答えた。「法廷に立つ瞬間はたまらないものよ。でも公判の前の晩はいつも気持ちが重くなるのよ」「それはどうして」マックスはシリアスな表情で尋ねた。今度は彼女が答える番のようだ。しばらく見合ったあとで口を開いて一気に話した。「絶対に敗訴するような気持ちになるのよ。証拠は不十分で私は力不足で何もわかっておらず、すべてがハッタリ。司法省を代表しているはずなのに冒頭陳述はパンチがなくて陪審員の失笑を買うのがオチ・・そんな錯覚に囚われそうになるし、キツイときには涙も流すわ。だから夜が明けるまでもう一度証拠を見直して最後の準備をするのよ。それが私の日課・・だけど翌朝はシャッキとして出廷するわ」
マックスは真剣にそれを聞いて言った「少し休みも必要じゃないかい」「お陰でリラックスできたわ」「そうじゃなくてさ本当の休暇のことさ。自分を取り戻すためのね」「そういうあなたは?」「俺?俺は毎日数十回は楽園にいるさ」「どういうこと?」マックスは日よけを下げてそこにはさみ込んでいた写真をみせた。それはどこまでも透き通ったブルーの海に囲まれた白い砂浜のアイランドだった。「モルディブ諸島さ。俺だけの隠れ家でね。5分だけ車を停めてここに逃げ出すのさ」マックスは微笑みながら彼女をみて「どうやらあなたにこそ必要らしい。あげるよ。効果は保証するさ」と続けた。彼女は遠慮したがマックスの言葉に素直にしたがいそれを受け取ると自然と笑みがこぼれていた。「ありがとうマックス」とお礼の言葉をいって彼女が車外に出るとタクシーのドアをバタンと閉じた。
するとマックスの表情が途端にくもり、なんともいえない顔つきになった。ため息をつきながら首を横に振り、俺は一体なにをやっているんだと呻いているようだ。先ほどまで車内に漂っていた温かさも一気に冷めたようで、言葉こそないが再び会えるチャンスなどないという現実の刃を突き付けられた気分のようだ。自分の間抜けさに嫌気がさすように何度も首も振っていると途端に助手的の窓がノックされた。つい今しがた降りたばかりの彼女が立っていた。あわてて窓をあけると、彼女は静かに窓越しに手を滑らせて紙を渡してきた。受け取るとそれは名刺だった。「そうね・・・もしいつかあなたの会社が上場するときに調査が必要とか、それとも、単に道順を話し合いたくなったときなどね・・」それだけいうと彼女はさっと踵を返して去っていた。マックスはさっきまでの表情が一変するのだ。今度は首を何度も振りながらも「信じられないぜ」とばかりにものすごくうれしそうなのだ。
詳細に再現を書いてしまったが、このシーンが撮り方、演技やセリフも含めて妙に好きなのだ。物語はほんのはじまりの10分に過ぎない。ただ、マックスは生真面目さがたたってかあと一歩のところで彼女にたいして一線を引く(もちろんそれが大人の良識ともいえる)。彼女からの助け舟でギリギリ首の皮一枚つながったが、だからといってこの後でマックスから彼女にコンタクトする勇気を持つことができるかどうか・・。
さて、このあと殺し屋のトム・クルーズ扮するヴィンセントが客として乗り込んでくる。ここから物語は急展開していく。ヴィンセントとは意に反して同道させられ「対決」していくなかで、マックスは自分が生真面目と思っていたものが臆病さの裏返しであると知らされる。自分の夢を実現するには今はまだ「力不足」として日々繰り延べしていくマックスに対して、請け負った今現在の「仕事」(暗殺)をどんなにトラブルが生じても力技で続けていくヴィンセント。殺し屋のヴィンセントがマックスに終盤で吐くセリフが妙に印象的だった。「清潔な車 リムジン会社の夢・・一体いくら貯めた?いつか夢がかなうと?ある夜目を覚まして気づく。夢はかなうことなく自分は老いたことを。お前は本気でやろうとしてない・・・」 倫理的にはまったくどうしようもない男がガツンと生真面目に生きてきた男のイタイところをついた。そして倫理的にはまったく反するこのシーンからおかしなことにふと論語の一文を思いだしてしまった。
「冉求曰く、子の道を説ばざるにあらず。力足らざるなり、と。子曰く、力 足らざる者は、中道にして廃す。今 女(なんじ)は画れり、と」(雍也篇6-12)
【現代語訳】
冉求(ぜんきゅう)が「先生のお考えに不満で実行しないというのではありません。私が力不足なのです」と述べたとき、老先生はこう教えられた。「力不足の者は、中途でやめてしまう。今、お前は(はじめから自分は力不足で私の考えを実行できないと)限定してしまっている」と(加地伸行訳)
なお、さきのセリフの直後、マックスはある決断をして行動し物語はさらに急転する。そして前半の伏線が確実に回収されていくのだ。エンディングは書かないが象徴的な映像はマックスがその後進む道を暗示したような終わり方だった。ヒューマンドラマとしても良い映画だったと思うし、脚本のリアリティがどうのこうのとケチをつけるよりも、良かった点を数えたほうがいい気がした。2004年にみたときには私自身もガツンときたし、16年たって見返しても何かしらのインパクトをくれる映画だ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。