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義経公鎮魂紀行としての 「おくの細道」

2020.10.02 06:41

http://www.st.rim.or.jp/~success/hosomiti.html  【義経公鎮魂紀行としての「おくの細道」】より

私はかねがね、「おくの細道」を読んで、”義経公に対する鎮魂の念が、どこかに隠されているな”という気がしていた。何度も繰り返し読んでいるうちに、最近その思いがいよいよ強くなって来た。「おくの細道」という作品に一貫して流れている亡者たちへの優しい眼差しは、芭蕉の無意識から発せられたものではない。それは明らかに意図的、作為的なものである。

果たして、松尾芭蕉は、「おくの細道」の奧に、本当に「鎮魂の念」を一種の暗喩として、意図的に潜ませたか、否か、それは以下の文章を読んで読者諸氏が自ら判断していただければ幸いである。

「おくの細道」を大きく前半と後半に分けるならば、まず深川から平泉入りまでが前半。そして平泉から大垣までが後半ということになるであろう。

旅の前半、芭蕉は、住み慣れた自邸芭蕉庵を人手に渡し、門弟の曾良と共に、東山道を一路、平泉に向けてひたすら歩いていく。日光を拝み、白河の関を越え、奥州に入り、義経公の伝説の詰まった奧の細道をひたすら北上する。そして平泉に入る。この道は、義経公が生前通算四回、そしてその御首がただ一度通った道である。

ここからが旅の後半部分となる。芭蕉と曾良は、平泉に入るやいなや、すぐに踵を返して、鳴子(宮城)を越え、出羽(山形)に入り、念珠の関を越えて、越後(新潟)に入り、北陸街道を海づたいに、越中(富山)、加賀(石川)と来て越前(福井)の敦賀へと辿り着く。この経路は、義経公が、兄頼朝に追われて京の都より、平泉に逃亡した際の逆経路にあたる。芭蕉の旅の経路を厳密に辿れば辿るほど、義経公鎮魂の旅の可能性は強くなる一方である。

ところで「おくの細道」に、こんな句がある。

 荒海や佐渡によこたふ天河

暗い日本海の上に美しい天の川(銀河)が横たわっている…そんな雄大な景色が脳裏にすぐに浮かんで来るような名句である。

「おくの細道」の旅を続ける芭蕉は、元禄二年六月二七日に奥州との関所である念珠(ねんじゅ)の関を越え、越後国(新潟)に入った。折から天候は雨模様が続き、芭蕉はその湿気と暑さのために、体調を崩していた。ずっと書いていた旅日記も書けないほど、芭蕉は衰弱していた。

それでも何とか同年二年七月四日夜、出雲崎に着いた。この「荒海…」の句は、その時の状景を詠んだ句と思われているが、不思議なことに、この時、出雲崎は大雨が降っていて、天の川は出ていなかった。曾良日記でも「申の刻、出雲崎に着く。宿す。夜中、雨強く降る」と記されている。芭蕉は、何故自分の目で見もしない、荒海の日本海に銀河が横たわるという句を詠んだのだろう…。

芭蕉は推敲の鬼である。草稿を書いては捨て、捨てては書く。今日「おくの細道」の草稿と思われる「銀河の序」という小さな文章が残っている。その中で芭蕉は、次のように綴っている。

「げにやこの島は黄金あまたわき出て、世にめでたき島なむ侍るを、昔今に至りて、大罪朝敵の人々遠流(おんる)の境にして、物憂き島の名に立ち侍れば、すさまじき心地せらるる…」

要するに大意は、佐渡島という島は、黄金の出る実に豊かな島と思われているが、大罪や反乱の罪によって、流された怖い島であって、実に恐ろしい気がする、と云っているのである。

ここで義経記に詳しい人なら、義経公が平泉へ逃げる途中、船で佐渡島に渡ろうとして波が荒くて接岸に失敗したことをすぐに思い出すであろう。その頃、ともかく義経公の運命は曲がり切っていた。大物浦での遭難は、平家の亡霊のせいだと云われているが、この佐渡島でも、平家の亡霊たちは、義経公の前に立ちはだかり、日本海の波の間に間に現れたのかもしれない。

そんな怖い思いを想像しながら、芭蕉は眠り付けなかったかもしれない。それほど芭蕉が着いた時の出雲崎は大雨が降っていた。だから天の河なぞは、見えるはずもない。ところが芭蕉は、最終稿である「おくの細道」では、この「すさまじき心地せらるる」の文章をすべて捨ててしまい、捨てた替わりに、こんなきわめて短い文を置いた。

「鼠の関(ねずのせき=念珠の関)を越えれば、越後の地に歩行を改めて、越中の国市振の関に至る。この間九日。暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。

 文月や六日も常の夜には似ず

 荒海や佐渡によこたふ天河」

こうしてまったく別の出雲崎のイメージが出来上がった。さらに芭蕉は、文を短くした上に、「文月や」の句を導入し、先の「荒海や」の句と並べている。全体を七夕の夜の目出度き雰囲気の文にまとめてしまった。

通常この「文月や」の句はこんな意味に解釈される。

七月六日は、常の夜とは違う風情がする。それは明日は、七夕で、年に一度、あの天の川で牽牛と織女が出会う目出度き日であるからだ。

でも私はこれでは意味がまったく違うと思うのである。それは先の草稿の「すさまじき心地せらるる」という心境から云っても、あり得ない解釈である。私のこの句の解釈は、次のようになる。

七月になったのだなあ、この六日間というもの、体調を崩して通常の感覚ではいられなかった。旅日記も書けなかったのだから。

この間、夜も寝られなかったかも知れないし、悪夢にうなされたことがあったかも知れない。ともかく芭蕉はこの六日の間、普通の心理状態ではなかったと推測できる。

おそらく、初案で、日本海と佐渡島に対する「すさまじき心地」を表現しようとした芭蕉であったが、この気持ちを抑えて、多くを語らずこの「荒海や…」の句の中に、自らの心境を潜ませようと意図したのであろう。だから、この「荒海や…」の句は、奥の意味として、次のように解釈されるべきである。

幾多の人々が、佐渡の荒海に飲まれて横死した。その人々が、天上の星となり、天の河となって光輝いている。(もちろんこの作の奥の奥には、非業の死を遂げた義経公への鎮魂の気持が、そっと供えられている・・。)

「荒海や・・」の句のわずか17文字に、永遠の景が封じ込められているように感じるのは私だけではあるまい。しかもその言外に源義経という稀代の武将に対する鎮魂の情までをも含ませていたとしたら、それはもう17文字の芸術家松尾芭蕉の驚くべき創意というしかない。

義経公の人気は、元禄当時も根強いものがあった。しかし俳諧の宗匠ともなれば、その辺の心情を容易に明かせなかったのは想像するに難くない。要するに天下の松尾芭蕉が、町衆と同じように判官贔屓の持ち主では、格好が付かない。そこで芭蕉自身の義経公鎮魂という思いは、言葉の奥に秘されたのである。それでもその旅の経路と訪れた旧跡、そして何と云っても17文字の句の中に込められた意味をよくよく考えてみれば、彼が義経公の鎮魂をしようとしていることは否定しようのない事実である。何故、このことを二百年以上、誰も指摘しなかったのか。不思議な感じさえ受けるほどである。

芭蕉の句によらず、紀行文によらず、芭蕉芸術の奧は途方もなく深い。それはあたかも人間精神という原始林を目の当たりにする思いだ。ある芭蕉研究者はこんなことを云っている。

「芭蕉の遺した作品は、今も成長過程にある」

義経伝説は、「おくの細道」の中でも確かに生きている。そして今この瞬間にも刻々と成長を遂げているのかもしれない。義経伝説畏るべし。芭蕉芸術畏るべし。そして日本文化畏るべし。佐藤


https://genron-alpha.com/article20200621_01/ 【禍の時代を生きるための古典講義】『おくのほそ道』 より

現実と虚構の世界のあわいを行き来する芭蕉の『おくのほそ道』。実際の旅を元にした有名なフィクション作品だが、裏テーマに鎮魂の旅がある。『おくのほそ道』からはその本質と物語誕生の裏、そして現代の我々の時代にも繋がるものを探し、『鶉衣』からは人生を生き抜くコツを引き出していく。両名を案内人としながら、芭蕉の旅路を追体験していく講義となった。

『おくのほそ道』はTRPGである

 あらためて、松尾芭蕉とは何者か。彼は伊賀上野(現在の三重県伊賀市)の平氏の傍流の生まれであったとされるが、おそらくは苗字帯刀は許される無給の武士である無足人クラスの土豪の後裔であったのではないかとされる。その生まれによってこの世での出世を諦めた芭蕉は、世の中の外へ出るために、俳諧の道へと入る。師匠の北村季吟によって俳諧師に認定されたあと、41歳のときに『おくのほそ道』の下地となる旅へ出る。

 実際に『おくのほそ道』の旅を歩いた安田は、TRPG(テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム)のシナリオブックのように感じたという。

 TRPGはプレイヤーが参加して初めて完成するゲームだ。『おくのほそ道』に記された芭蕉の俳句は、「発句」といって次に続く句の呼水となるもの。芭蕉のように旅をすることは難しかった当時、蕉門の弟子たちは芭蕉や曾良になりきって、連歌を詠む遊びを行っていたのだろう。

 さらに安田は、『おくのほそ道』のシナリオの攻略本が能であるという。当時、謡や能の古典は、俳諧を作り、楽しむためには必須の教養だった。それが示されている資料として、門人の東藤が芭蕉を絵描き、そこに芭蕉自身が自筆で発句を記した作品が残っている。そこには能『梅枝うめがえ』の一節「はやこなたへといふ露の むぐらの宿はうれたくとも 袖かたしきて御とまり あれやたびびと」が謡の節を表すゴマ符号つきで引用され、絵の横には「旅人と 我がな呼ばれむ はつしぐれ」という芭蕉の句がある。

『梅枝』は、偶然通りかかった旅の僧(ワキ)が、ある悲惨な死を遂げた太鼓の名人の妻の霊(シテ)を慰める、能らしい旅の物語だ。謡と芭蕉の句の両方に登場する「たび人」の文字は、芭蕉が能のワキ方のようなたび人であることを示唆している。

『おくのほそ道』は、作者の芭蕉自身もまた、能のワキ方の役をロールプレイしているかのように読めるのだ。

鎮魂の旅

『おくのほそ道』は平泉を転換点とし、前半と後半で雰囲気が大きく変わる。前半はシリアスで、後半は俳諧的な軽妙な笑いに満ちている。

前半のルートは、西行が崇徳院を鎮魂するために歩いた旅路を踏襲している。安田は、芭蕉の旅の前半部分は、義経への鎮魂を目的としていたのではないかという。

 なぜ芭蕉は義経の鎮魂へ向かったのか? 当時在位していたのは、五大将軍徳川綱吉。綱吉は儒教や和歌による文治政治を推進したことで知られる。初代から三代で安定したかのように見えた徳川政権だが、実際にはまだまだ不安定な部分も多く、怨霊の存在も現実的なリスクとして認識されていた。そこで綱吉は、かつての義経が怨霊になって政権に害を及ぼす可能性を憂慮し、腹心の部下である柳沢吉保に鎮魂を命じ、そこから彼に寵愛された北村季吟に話が行き、芭蕉が遣わされたのではないか――安田はそう推測し、芭蕉の旅程を読み解いていく。

歌枕も重要な役割を果たす。古来から多くの歌に読み込まれてきた歌枕を、安田は土地の記憶の圧縮装置だという。その知識を持った歌人や俳人が現地を訪れ、歌を詠むことが、圧縮装置を解凍するキーになる。感受性と知識がなくては、この装置からはなにも得ることができない。

『おくのほそ道』もまた、圧縮装置のような構造をしている。文中、芭蕉があえて省略している描写。登場人物の不穏さ。能、謡、漢文の教養が散りばめられたテクスト。これらの面白さが引き出せるかどうかは、読者の教養にかかっている。そうした教養のある人間に読み解かれるための「秘儀の本」として、『おくのほそ道』は書かれたのではないだろうか。実際に『おくのほそ道』は芭蕉の生前には公刊されておらず、死後に出版されて広まった。


http://www.ahiguchi.com/stroll/log/hidiary.cgi?yyyy=2011&mm=11&dd=15 【ちょっと寄り道・旅と鎮魂】より) 

歴史散歩を書くために多くの場所に足を運び時間と労力を費やしてきました。誰のために、何のために、このような作業を続けているのか?自分でも良く判らなくなるときがあります。

 内田樹先生はブログでこう述べておられます。

能におけるワキの多くは「旅の僧」である。彼は秩序の周縁である土地に、日のくれる頃に、疲れきってたどり着く。彼はそこに何らかの「メッセージ」をもたらすためにやってきたわけではない。むしろ何かを「聴く」ためにやってきたのである。彼はその土地について断片的なことしか知らない。だから、その空白を埋める情報を土地の者に尋ねる。そして、その話を聴いているうちに眠りに落ち夢を見る。これが「存在しないもの」との伝統的な「交渉」の仕方なのである。(中略)西行は源平の戦いの後、国内を巡歴して死者たちのために鎮魂歌を歌った。その時代における最大の「祟り神」は崇徳上皇の怨霊であった。西行は崇徳上皇が葬られた白峯陵に詣でて一首を詠み上皇の霊はそれによって鎮まったと伝えられている。安田さんによると芭蕉の「奥の細道」もほとんど趣旨は同じ呪鎮の旅だそうである。芭蕉が鎮魂しようとしたのは源義経一行である。義経と弁慶もまた、その供養の仕方を誤ると巨大な「祟り神」として王土に障りをなす可能性のある存在だった。だから「平家物語」から能楽(「鞍馬天狗」「橋弁慶」「船弁慶」「安宅」「正尊」「摂待」などなど)に至る無数の芸能によって慰撫されなくてはならなかったのである。芭蕉の旅はその最後の大きな試みであり、それを芭蕉は「西行のまねび」というかたちで実行した(というのが安田説)。(11/7/31)

 私は歴史散歩の中で幾度となく死者(敗者)に触れてきました。自分でも意識しないままに死者のための鎮魂を続けてきたような気がします。私は死者の声に引かれて歴史散歩を始めたわけではありませんが、調べていくうちに当地の死者の声を聞いたような気がする時があります。その死者のために鎮魂の言葉を捧げなければならない気がする時があるのです。

 そのとき、私も怨霊の声を聞く「旅の僧」になっていたのかもしれませんね。


内容紹介

死、中有、再生、鎮魂のステージからなる壮大な旅の物語は、現代のRPGだった!

中学・高校で、だれもが触れる、松尾芭蕉の不朽の名作『おくのほそ道』。でもこの物語、実は当時の門人たちがゲーム感覚で楽しみながら読んでいた、今でいうロールプレイングゲームのようなものだった! 当時の流行芸能であり、知識人の常識でもあった「能」をキーワードに読み解いてみると、その実態が見えてくる。

『おくのほそ道』というロールプレイングゲームでのゲームマスターは松尾芭蕉。参加するのは蕉門の人たち。門人たちは、自分がまだ行ったことのない東北を、松尾芭蕉のトークとともに旅をした。現代のロールプレイングゲームでは、怪物の巣食うダンジョンに迷い込み、怪物たちと遭遇するが、『おくのほそ道』では、芭蕉が実際の旅で迷ったように人々も迷宮に迷い込み、行く先々で詩人の魂や亡き人の霊と出会う。怪物と戦う代わりに、詩人の魂と交流をし、怨霊を鎮魂し、四季の景色を愛でて、名所を一見する。

コスプレあり、ジョブチェンジあり、パラレル・ワールドあり。まったく新しい視点から読み直した、本当は面白い『おくのほそ道』の世界を紹介。

【内田樹氏推薦】

芭蕉は現実の空間を踏破しながら、同時に物語の中も旅します。死者たちのための物語です。『おくのほそ道』は旅日記であると同時に、芭蕉と死者たちのあいだのひそやかな対話の記録です。その対話の聴き手として安田登さんほど適任の人を僕は思いつきません。

目次

■序章 RPGとして読むおくのほそ道

 パラレル・ワールド移行スイッチを探せ! 攻略本は「能」!

■第1章 死出の旅

 壮大なミッションに向けて、過去の自分を捨てる旅

 ――ファーストステージ 深川~日光

■第2章 中有の旅

 死と生の狭間で生活エネルギーを回復する旅

 ――セカンドステージ 那須~遊行柳

■第3章 再生の旅

 鎮魂者へと生まれ変わっていく旅

 ――サードステージ 白河~しのぶの里

■第4章 鎮魂の旅 PART1

 与えられたミッションを遂行していく旅・前編

 ――ファイナルステージ(1) 飯塚~末の松山

■第5章 鎮魂の旅 PART2

 与えられたミッションを遂行していく旅・後編

 ――ファイナルステージ(2) 塩竃神社~平泉


http://watowa.net/book/  【学びのきほん 役に立つ古典】[著]安田登出版社:NHK出版

価格:724円  より

私たちは、あの名著を「誤読」していた。

『古事記』『論語』『おくのほそ道』『中庸』──代表的4古典に書かれている「本当のこと」とは? 私たちは何を知っていて何を知らないのか。古典の「要点」さえ理解できれば自分だけの生きる「道」が見えてくる。自分なりの価値観を見出していくために。古今東西の名著に精通する能楽師による、常識をくつがえす古典講義!

はじめに──「本当の」古典と出会う

第1章 『古事記』に息づく「日本人」の原点

日本人の精神の古層/日本的な思考の始まり/『古事記』の漢字は間違い?/前古代の死

生観/「死」は存在しなかった/一時的に「しぬ」/前古代の時間観/「因果」が存在し

なかった日本/『古事記』の企みとは/いま『古事記』を読む意味

第2章 『論語』が示す「心」の道しるべ

世界初の心のマニュアル/『論語』の新しい顔/「四十にして惑わず」ではない/自分を

限定するな/本当の「切磋琢磨」/過ちを改めるには/本当の友人/本当の「温故知新」

/新しい精神活動/「仁」とは何か/これからは「仁」の時代

第3章 『おくのほそ道』に学ぶ「和とユーモア」の視点

人気俳諧師からホームレスへ/旅に出た理由/いまの生をリセットする/絶対に行きた

かった場所/異世界に入る芭蕉/体験は受け止め方しだい/鎮魂のパワー/「軽み」とい

う境地/芭蕉の流儀①場所を変える/芭蕉の流儀②古典を知る/芭蕉の流儀③俳諧的に生きる

第4章 『中庸』が伝える「誠」の力

マイナーだけど役に立つ/中庸=常にぴったり/感情が動く前に注目する/成るべきも

のを成させる力/心の塵を掃く/自分の「性」を探すには/「誠」を得る五則/自分を知

り他人に尽くす/二宮尊徳の「誠」/「誠」の道とは/「誠」の危うさ/まずは自分が「誠」を目指す

おわりに── 古典を身につける方法