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『ファインディング・ドリー』のメッセージを探す 〜ファインディング・『ファインディング・ドリー』【ネタバレ】

2016.07.23 18:34

〈あらすじ〉

あなたの忘れられない《思い出》は何ですか?

それは、何年たっても、どんなことがあっても、決して色あせることのない、かけがえのない宝物…。

カクレクマノミのニモのいちばんの親友で、何でもすぐに忘れてしまうドリーが、たったひとつ忘れられなかったもの──

それは、小さなころの《家族の思い出》でした。

どうして、その思い出だけを忘れなかったのだろう?そして、ドリーの家族はいったいどこに…?

謎に包まれた秘密を解く鍵は、海の生き物にとって、禁断の場所=《人間の世界》に隠されていました…。(公式サイトより引用)



〈はじめに〉

映画ファインディング・ドリーは、この記事で書いた通り、「見りゃわかる」映画でした。それもそのはずで、なぜならただでさえピクサー映画は王道物語であるのに、この映画はPIXAR映画の中でも特にセリフまわしや演出があざとく、メッセージを押し売りする感じで物語が進んでいくからです。「見りゃわか」ってしまうのです。そこで、私は普通の感想記事ではなく、『ファインディング・ニモ』と『ファインディング・ドリー』との比較からPIXAR映画の理念や哲学といったものを炙り出す、といった趣旨の記事を書きました。それが前回の記事です。

その後1週間ほど経って、私の心境も変化しました。確かにこの物語はいちいち解釈するまでもなくメッセージが分かりやすい。でも、そのいくつもあるメッセージの中に明らかに強調されているものがある(私の主観です)。これを一番強いメッセージだと仮定して記事を書けば、面白いものになるんじゃないか。そう考えて再び筆を執った次第です。すなわちこの記事では以下について書こうと思います


『ファインディング・ドリー』における一番強いメッセージを"見つける"


まさに「ファインディング・『ファインディング・ドリー』」といったところでしょうか。つまりこの記事は前回の記事と違い、純粋な『ファインディング・ドリー』の単体感想記事ということになります。前回の記事で私が書いたことにも触れるので、できれば読んで頂くと良いかと思います。



〈本論〉

まず、前回の記事で挙げた3つの裏テーマについて考えていきます。すなわちそれは、

「人間が環境に与える影響」「ハンディキャップを背負う者と社会」「過保護な親の問題」

の3つです。


・「人間が環境に与える影響」?

確かに人間の傲慢さを示唆するシーンはありました。前の記事でも書きましたが、これに関連するシーンは、主にドリーが連れ去られるシーンと、水族館の「タッチゾーン」のシーンです。前者では人間の善意が実は今回の壮大な旅の契機になってしまったという皮肉、後者では人間が何の気なしに行っている海の生き物たちとの「触れ合い」が、実は彼らにとっては拷問に等しいものだったという皮肉によって、「人間が環境に与える影響」というテーマを描写しています。しかし、やはりメインのメッセージではないでしょう。あくまで子供に連れられて映画を見ている「大人」をハッとさせて、惹きつけることを狙ったものであると言えます(この具体的な効果と目的については前回の記事を読んで下さい)。

「ハンディキャップを背負う者と社会」?

「ハンディキャップを背負う者と社会」というテーマがあるというのは、一般によく言われていることです。生まれながらに障害を持つキャラクターが、それをどうやって受け入れ、乗り越えてゆくのか。それに対して社会はどう働くのか。そういう純然たるメッセージが、前作『ファインディング・ニモ』から引き続いて、今作にも込められているというのです。

しかし、私はここに引っかかりました。確かに、『ファインディング・ニモ』にはその側面がありました。ニモは生まれつき片方の胸ビレが小さく、しかしながらもそれを乗り越えて、歯医者の水槽から脱出したのです。では、今作はどうかと言うと、前回の記事でも述べた通り、『ファインディング・ドリー』には前作以上に障害を持つキャラクターが登場します。しかしながら、「ハンディキャップを背負う者と社会」というテーマが、この物語における最も強いテーマであるかどうかとなると、私としては微妙でした。理由は簡単で、描写のされ方が弱いからです。私はここがこの映画の欠点の一つだと思っていて、確かにドリーの健忘症という障害については、「乗り越え」る描写が強くなされていたのですが、他のキャラクターについてはそれが弱いのです。

障害を「乗り越え」るとはどういうことか。アンドリュー・スタントン監督によれば、この映画には「弱点は個性であり、時には強みになることもある」という思いを込めたそうですが、ではこれを「乗り越え」の定義としましょう。すると、監督の思いは明らかにドリーのみに注がれていることに気付きます。逆に言えば、他のキャラクターたちに対する描写が弱いのです。

ドリーの「忘れっぽい」という弱点は、同時に「複雑なことを考えず直感で動ける」という強みだったんだ、という描写はなされています。「ドリーならどうする?」と言いながらピンチを乗り越えていくマーリンたちが、監督の思いをよく表しています。

しかしながら、他のキャラクターについてはどうでしょう? 7本足のハンクは、足が1本ないことを自分の個性とし、強みとしたでしょうか? 私としてはむしろ「海に戻るのが怖い」というトラウマという精神的な障害を、ドリーという仲間に感化されて克服したように思えます。エコロケーションに問題のあるベイリーはどうでしょうか? 彼の場合、自分で自分の障害を思い込んでいただけで、仲間のピンチによりその思い込みが解けた、という運びでした。目の悪いデスティニーは? 彼女の場合、最終的にベイリーに「僕が君の目になってあげる」と言われたことで、水族館から抜け出すことに成功しました。つまり、仲間のおかげで障害を克服したと言えます。

このように考えてみると、ドリー以外はみな障害を「克服」してはいるものの、「乗り越え」てはいません。ハンクについて言えば、克服したのは体の障害ではないし、ベイリーに至ってはそもそもその障害が思い込みだったというよく分からない設定だったので、重ねてイマイチです。むしろドリー以外については、(身体のものに限らない)障害を、仲間とともに克服する」ということが強調されているように思われます。キャラクターを多く出しすぎたということもあるのでしょうが、「ハンディキャップを背負う者と社会」というテーマをこの映画の一番強いメッセージとするなら、少なくとも障害を持つキャラクター全員がそれを「乗り越え」る描写が必要だったのではないでしょうか。以上のような理由から、2つ目の裏テーマも、この映画における一番強いメッセージとは言えないと考えます。

・「過保護な親の問題」?

これについてもやはり前作ほど強調されていません。前作では、マーリンがまさに過保護な親として提示されたキャラクターでしたが、今作ではドリーの両親がその役を担っています。しかしながら、この描写が割とアッサリで、目立つ描写といえば終盤にトラックに運ばれたマーリンとニモを助けようとするドリーに対して、彼女の両親が「もうどこへも行かないで」と言うだけです。これだけでは、作品の根幹に関わるようなテーマであるというには無理があります。むしろ、前作を見た人に向けたオマケ的要素のようにすら感じました。


以上のように考えると、「人間が環境に与える影響」「ハンディキャップを背負う者と社会」「過保護な親の問題」の三つについては、どれも映画にその要素はあるものの、メインテーマとは言えなさそうです。裏テーマが実は映画の一番強いメッセージである、という作品は多く存在しますが、この映画はそのパターンではなかったようです。

考えてみればそれは必然です。なぜなら、PIXAR映画は「大人と子供の両方に向けた映画」だからで、そんな映画のメインテーマが大人にしか理解できないものだったり、あるいはその逆では困るのです(この辺りの議論は、前回の記事で詳しくしています)。

となると、我々が探している『ファインディング・ドリー』における最も強いテーマは、裏テーマではなく表テーマ、すなわちPIXAR映画定番の「仲間や家族の大切さ」「あきらめない気持ち」「信頼と勇気」のどれかだということになります。実際、このうちの一つが映画でかなり強調されていました。では、それはどれでしょうか。


・キーワードは「貝殻」

この映画のクライマックスは、言うまでもなくドリーが家族と再会するシーンです。ドリーは家族の元へ見事たどり着き、彼女の家族を探す旅は、あそこで一旦終了するわけです。

ここで重要な役割を果たしたのは、「貝殻」でした。「困ったら貝殻をたどれ」という家族の教えが、忘れっぽいドリーの中でも生き続け、それによって彼女は家族と再会できたわけです。しかしながら、これを「あー、あの貝殻がどうたらの回想シーンが伏線だったのかー、すごいなぁ」で終わらせてしまうのは、ちょっともったいない気がします。今にして思えば、「貝殻」にはもっと大きな意味が込められていたように思えてならないのです。

ここで考えてみたいのが、この映画がドリーと家族の再会シーンで終わらなかったことです。やはり今作も、前作と同様に「もうひと山」入れてきます。すなわち、前作がマーリンとニモの再会シーンで終わらず、その後に「漁業者の放つ網からの脱出」という「もうひと山」があったことで、あの物語のテーマがより強調されたように、今作もドリーと家族の再会シーンで終わらず、その後の「もうひと山」でこの物語のメインテーマが強調されるのです(余談ですが、今作は明らかに脚本構造が前作を意識したものになっている部分が多々あります)。

今作での「もうひと山」は、これまた言うまでもなく「カーアクション」です。具体的に言うと、ドリーはトラックに運ばれたマーリンとニモを助けようとするのです。このとき彼女を引き止める両親に向かってドリーが言ったことは何だったか。それは、「もしまた忘れたって、また見つけられる」ということでした。これこそがこの映画のメインテーマではないでしょうか。つまるところ、この映画は「どんなに遠く離れていても本能で結ばれた家族の尊さ」についての映画なのです。そう、本能。それは、冒頭でエイ先生が言っていたことでした。動物には本能があるのです。そして、家族もその本能で結ばれているのです。だからこそ、忘れっぽいドリーも家族の元にたどり着けたし、「もしまた忘れたって、また見つけられる」と自信を持って言えるのです。幼い頃に親から受けた愛情は、その子どもの本能に刻まれて、家族を結びつける強い絆へと変わるわけですそう考えると、前述の「『貝殻』の持つもっと大きな意味」が見えてきます。それは、ドリーの両親が自分の娘の本能を信じて張り巡らした貝殻の網は、どんなに離れていても届く家族の強い絆を具現化したものであるということです。

この映画がすごいのは、それだけで終わらないことです。ドリーを引きとめようとする両親に、彼女はこうも言っていました。「マーリンとニモはただの友達じゃない、家族なの」と。これは相当強いメッセージです。つまり、前作であれだけ共に苦難を乗り越え、お互いに助け合った者同士ならば、もはや仲間というより「家族」なのです。言い換えれば、家族は血縁関係だけとは限らないのであり、本当にお互いを思い合う者同士なら、それは「家族」なんだ、ということになります。そう考えると、マーリンやニモのみならず、今作でドリーを助けたハンクやデスティニー、ベイリーなども、彼女の家族となっていくことでしょう。世界中のあらゆる者が、自分の家族たり得るのだという、強烈なメッセージを私は感じました。誰もが互いを家族だと思い合う世界という一種の理想世界を、ドリーの周りに縮尺して描き、その世界の持つ可能性を我々に知らしめるという構造です。これには我々も肯くことしかできないでしょう。


〈おわりに〉

「誰もが互いを家族だと思い合う世界」――我々は経験上、そのような理想世界の形成が非常に困難であることを知っています。そして気がつけば、そんなものは理想に過ぎないと思うようになり、いつしかその理想すらも忘れてゆきます。しかしながら、この映画は我々にその理想を思い出させてくれます。それはまるで、何でもすぐに忘れてしまうドリーが、ハッと何かを思い出すかのようです。我々も、「誰もが互いを家族だと思い合う世界」という理想を、すぐに忘れてしまうドリーなのです。そんな我々も、この映画を観ればその理想を「また見つけられる」でしょう。