「長崎とキリスト教」10 「小ローマ長崎」⑤秀吉とキリシタン(2)「サン・フェリペ号事件」
日本でのキリスト教布教は、ザビエルが来日した1549年以降40年以上にもわたって、イエズス会が独占していた。1585年、教皇グレゴリウス13世は日本での布教を、ポルトガルの布教保護権下にあるイエズス会のみに許し、他の修道会の布教を禁じた。そのイエズス会は、1587年の秀吉によるバテレン追放令のもと、表立った活動は控えていた。そのこともあって教会の破壊も行われていなかった。しかし、1592年、秀吉は突然長崎の修道院と教会の破壊を命じる。何があったのか?
これにはポルトガル人とスペイン人の対立が関わっている。スペイン艦隊を率いたマゼランは1521年にフィリピンに上陸。その後、スペインは1564年にフィリピンの領有を宣言し、1571年にはマニラ市を建設して、太平洋を隔てた植民地メキシコとの間でガレオン貿易を行っていた。秀吉は朝鮮出兵の関連外交として、フィリピン総督に日本への服属を要求したが、フィリピン総督は融和外交に持ち込もうと、1592年8月、フィリピン総督の使者としてドミニコ会士ファン・コーボを送る。彼は、朝鮮出兵の出陣基地である肥前名護屋で秀吉に謁見する。フロイスは、そのコーボと彼を案内したスペイン人のファン・デ・ソーリスが秀吉に対して、ポルトガル人の悪口を種々話したので、それを信じた秀吉がポルトガル人に怒りを抱き、長崎の修道院、教会の破壊を命じたという(フロイス『日本史』)。
もちろん、秀吉の命令はそれだけが理由ではない。当時、朝鮮出兵の基地名護屋では城郭や屋敷・倉庫の不信のために材木が不足していた。そこで長崎代官が、イエズス会は長崎に堅牢な木材の大建築を持っていると伝えたことから解体されたのだと秀吉家臣の原田喜右衛門は証言している。また、秀吉はマニラ交易にも大きな関心を示していたから、イエズス会・ポルトガル商人主導の長崎貿易の在り方を転換させる意図もあったようだ。
1593年、フィリピン総督の使節としてスペイン系修道会フランシスコ会のペドロ・バプチスタが来日する。彼は禁教下にもかかわらず、京都で公然と布教し、教会を建てたり、病院を開いて病人の救済にあたるなどしていた。日本で最初の大殉教事件は、これが一因となるが、直接の引き金となったのは1596年の「サン・フェリペ号事件」だ。土佐(高知県)の浦戸(うらど)にフィリピンからメキシコへ向かっていたスペイン船サン・フェリペ号が、台風に遭い航海不能となり漂着。国主長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)は、強引に浦戸湾内に入港させようとした。ついで船は座礁し、おびただしい船荷が流出。元親から南蛮船漂着の知らせを受けると、豊臣秀吉は増田長盛(ましたながもり)を奉行として浦戸に遣わし、同船の積み荷を没収し、その乗組員を拘留した。先に秀吉はフィリピンのスペイン人総督に対し、日本では遭難者を救助すると通告していたので、水先案内フランシスコ・デ・オランディアは憤り、世界地図を長盛に示してスペインが広大な国土を有し、日本がいかに小国であるかを語り、質問に答える間、スペイン国王はまず宣教師を海外に遣わし、布教事業とともに征服事業を進めるという意味のことを語った。
まず、積荷没収についてだが、その契機となったのは、伏見にいたイエズス会士のポルトガル人たちが秀吉に、スペイン人の悪い情報を吹き込んだからのようだ。スペイン人は海賊であり、メキシコやフィリピンを征服するために、まずフランシスコ会を派遣してキリスト教を布教し、しかるのちにその地を奪った、サン・フェリペ号にもその嫌疑がある、と語ったというのだ。もちろんイエズス会士がスペイン人を敵視したのは、ポルトガル商人にとってマニラのスペイン商人はライバルであり、イエズス会士にとって、マニラからやって来るフランシスコ会などのスペイン系組織の宣教師は、ローマ教皇も認めたイエズス会による日本布教権を侵犯する存在だったからだ。サン・フェリペ号には、スペイン系のフランシスコ会、アウグスティノ会、ドミニコ会の宣教師が乗船していた。秀吉に入れ智恵したポルトガル人は、秀吉がスペイン船やスペイン人に厳しく当たることによって、日本に近づかなくさせようという魂胆があったようだ。
「サン・フェリペ号模型」日本二十六聖人記念館
長宗我部元親
増田長盛
「肥前名護屋城」(バーチャル)
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、その出兵拠点として築かれた城
イエズス会員と日本人 1600年ごろ