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西方浄土は月だった!?~映画『かぐや姫の物語』を見て

2020.10.03 09:43

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/8003194  【死とは】

http://www.e-kazokuso.com/gallery/gallery-1727-50229.html 【西方浄土は月だった!?~映画『かぐや姫の物語』を見て その1】 より

年はジブリの映画が夏と秋に2本も公開された贅沢な年でしたね。

ジブリの新作が公開の度に、劇場まで足の運んできたクチなので、夏の『風立ちぬ』はもちろん、先日『かぐや姫の物語』も観てきました。

どちらが良かったかというと、『かぐや姫』でしょうか。

好みもありますが、個人的には今年見た映画の中でもベストでした。

(というほどたくさん見てませんが・・・f(^_^))

ストーリーは、ほぼ昔話の「竹取物語」のまんま。

竹から生まれたかぐや姫が、竹取のおじいさん・おばあさんに育てられ、大きくなって、都に移ったあと、五人の貴公子の求婚と、帝の召し出を退け、最後は「月の都」へ帰ってゆく、というおなじみのお話です。

ですので、ラストのどんでんがえしや、意外なストーリー展開などはなく、人物の豊かな感情表現や、立ち居振る舞い、所作の美しさが見どころとなる映画でした。

あらすじをよ~く知っていたとはいえ、姫が月に帰るラストにはビックリしました。

楽隊や天女をひきつれた仏さまが、雲に乗って、かぐや姫を迎えにくるのです。

「えっ!仏さまが迎えにくるの!」ってことは、月が西方浄土=極楽なん?

という驚き。

どうやら、かぐや姫は、月の世界=極楽=仏の世界の住人で、人間の喜怒哀楽に魅かれて地上にやってきたようです。

月は光あふれる清浄な世界ですが、人間的な喜怒哀楽の感情には欠けた世界だったようです。

そのため、ラストシーンでは、月に人間界の穢れ(けがれ)を持ち込まないように、

姫の人間界での記憶は消されてしまいます。

記憶も消され、地球からも遠く離されてしまう。

コレって、生きることのリセットといいますか、「生まれ変わる」ということですよね。

かぐや姫の生まれ変わりは、しかし、近しい人から見たら「死ぬ」ことと一緒です。

(月と地球では、「生きる」「死ぬ」の意味が違うのでしょうが)


https://lifeskills.amebaownd.com/posts/9758094  【西方浄土は月だった!?】

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%A5%BF%E6%96%B9 【さいほう/西方】より

西の方角。特に阿弥陀仏の極楽浄土を指す。西方極楽浄土の略。西方極楽浄土は西方極楽世界ともいい、西方極楽、西方浄土、西方世界とも略される。『無量寿経』上には「仏、阿難に告げたまわく。法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方に在まします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界を名づけて安楽という」(聖典一・二三六/浄全一・一二)とある。また、『阿弥陀経』には「仏、長老舎利弗に告げたまわく。これより西方、十万億の仏土を過ぎて、世界あり。名づけて極楽という。その土に仏まします。阿弥陀と号したてまつる」(聖典一・三一六/浄全一・五二)とある。阿弥陀仏の極楽浄土がなぜ西方にあるのか、という疑問については、たとえばインドの方向観念に基いて、西は未来の国、来世という観念が生まれたという説がある。このほかにも諸説立てられているが、結論は出ておらず、諸仏とその位置する方角との関係については、必然的根拠に基づいていない可能性が指摘されている。


http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%A5%BF%E6%96%B9%E6%B5%84%E5%9C%9F  【さいほうじょうど/西方浄土】 より

われわれが住む娑婆世界の西方にある浄らかな仏国土のことで、具体的には阿弥陀仏の極楽浄土をさしていう。西方極楽浄土、西方極楽世界、西方安楽国などともいう。阿弥陀仏の仏国土の名はⓈsukhāvatīで、極楽、安楽、安養などと訳される。『阿弥陀経』には「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり。名づけて極楽という。その土に仏ありて阿弥陀と号す」(聖典一・三一六/浄全一・五二)という。『無量寿経』では法蔵菩薩がすでに成仏して阿弥陀仏(無量寿仏)となり「現に西方に在まします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界を名づけて安楽という」(聖典一・二三六/浄全一・一二)としている。いずれも阿弥陀仏の極楽浄土を西方と説く。また『観経』では、王舎城に幽閉された韋提希は仏の神通力によって阿弥陀仏の西方浄土を目の当たりに見るのであり、また仏なきあとの未来世の衆生に西方浄土を観想する方法が説かれる。善導の『観経疏』三には「弥陀仏国は日の没する処に当って、ただちに西のかた十万億刹を超過す」(聖典二・二四一/浄全二・三五下)という。なお西方浄土という成語はインドの仏典にはない。また大乗仏教では十方の諸仏を説き、一仏一仏国土であるから、西方にも無数の仏が存在し、無数の仏国土(浄土)が存在することになる。『阿弥陀経』にも「西方世界に、無量寿仏・無量相仏・無量幢仏・大光仏・大明仏・宝相仏・浄光仏有まします。かくのごとき等の恒河沙数の諸仏各おのその国において…」(聖典一・三一九/浄全一・五四)とあり、本来、西方浄土は阿弥陀仏の極楽浄土のみを特定する用語ではない。中国、日本では阿弥陀仏信仰が盛んになるとともに西方浄土は阿弥陀仏の極楽浄土を意味するようになる。なお東方浄土として知られるのは、阿閦あしゅく仏の妙喜みょうき世界、薬師仏の浄瑠璃じょうるり世界等である。法然の『一紙小消息』に「十方に浄土多けれども、西方を願うは十悪五逆の衆生の生まるる故なり」(聖典四・四二一/昭法全四九九)とある。『平家物語』一には「日の入給ふ所は西方浄土にてあんなり」とある。

【参考】藤田宏達『原始浄土思想の研究』(岩波書店、一九七〇)、望月信亨『浄土教の起原及発達』(共立社、一九三〇)

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%A5%B5%E6%A5%BD 【ごくらく/極楽】

より

阿弥陀仏の仏国土の名。極楽世界、極楽国土、西方浄土などとも称す。原語はⓈsukhāvatīで、極楽の訳語は鳩摩羅什訳の『阿弥陀経』が最初であり、『観経』でも用いられている。『無量寿経』では「安楽」「安養」と訳されている。また、より成立の古い『大阿弥陀経』では「須摩提」、『平等覚経』では「須摩提」「須阿提」と訳されているが、これはⓈsukhāvatīの俗語形の音写とみられる。阿弥陀仏の仏国土の名称について『阿弥陀経』は「これより西方、十万億の仏土を過ぎて、世界あり。名づけて極楽という。その土に仏まします。阿弥陀と号したてまつる。今現にましまして説法したまう」(聖典一・三一六/浄全一・五二)とし、極楽の名の由来を「その国の衆生、衆もろの苦あることなく、ただ諸もろの楽のみを受く、故に極楽と名づく」(聖典一・三一六/浄全一・五二)と説く。『無量寿経』上では阿弥陀仏の前身である法蔵菩薩が四十八の誓願を建てたことを説き「法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界を名づけて安楽という」(聖典一・二三六/浄全一・一二)とし、名称の由来については「三塗苦難の名あることなく、ただ自然快楽の音のみあり。この故に名づけて安楽という」(聖典一・二四三/浄全一・一六)と説く。いずれも極楽とは阿弥陀仏という仏の住する世界(Ⓢloka-dhātu)、もしくは仏国土(Ⓢbuddha-kṣetra)の名称であって、中国、日本では極楽浄土ともいう。また極楽の存在する位置については、釈尊が説法をしている娑婆世界の西方であり、その距離は十万億の諸仏の仏国土の彼方とされる。『観経』では「阿弥陀仏、ここを去ること遠からず」(聖典一・二九一/浄全一・三九)と説く。西方の理由を仏典は説かないが、道綽の『安楽集』下は「閻浮提えんぶだいには日の出ずる処をいいて生と名づけ、没する処を死と名づく。…この故に法蔵菩薩は願じて成仏し、西に在りて衆生を悲接ひしょうす」(浄全一・七〇二下/正蔵四七・一八上)という。 『無量寿経』と『阿弥陀経』のサンスクリット本の経題はともにⓈSukhāvatī-vyūhaであり、それには極楽という仏国土に具わる功徳(Ⓢguṇa、特性)の荘厳(Ⓢvyūha、配列、厳飾)の意味がある。両経には極楽の荘厳が種々に説かれるが、世親の『往生論』には観察の対象としての極楽の荘厳を①仏国土の功徳荘厳(一七種)、②阿弥陀仏の功徳荘厳(八種)、③仏国土の諸菩薩の功徳荘厳(四種)(聖典一・三六二~八/浄全一・一九三~六)の三厳二十九種にまとめている。阿弥陀仏信仰による浄土教では、阿弥陀仏の極楽は来世に往生する仏国土であるが、『無量寿経』等では凡夫の往生が可能であり、世親の『往生論』では菩薩のみの往生が説かれる。それをめぐって中国、日本では阿弥陀仏の極楽について凡夫往生が可能か否かで説が分かれる。善導は凡夫往生を認める立場で、『観経疏』一に「正しく仏願に託して、以て強縁ごうえんと作るに由って、五乗をして斉ひとしく入らしむることを致す」(聖典二・一八六/浄全二・一二上)という。また極楽を三界を超過した仏国土とみなすか否かによっても往生人に対する説が分かれてくる。

【参考】望月信亨『浄土教の起原及発達』(共立社、一九三〇)、藤田宏達『原始浄土思想の研究』(岩波書店、一九七〇)

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%8C%87%E6%96%B9%E7%AB%8B%E7%9B%B8 【しほうりっそう/指方立相】 より

阿弥陀仏により具現化された仏身および浄土の有相が、釈尊により方角(西方)と相を通じて説示されたこと。善導が『観経疏』定善義第八像想観釈において、『観経』の「是心作仏、是心是仏」の部分を解説する際に説示した「また今この観門等は、ただ方を指し相を立てて(指方立相)、心を住とどめて境を取らしむ」(聖典二・二六九/浄全二・四七下)という一文が典拠であり、西方極楽世界の有相を解説する最も重要な根拠となるとともに、古来、多くの議論が重ねられてきた。善導は『観経』第八像想観において説示されている「法界身」および「是心作仏、是心是仏」という経文の解釈から派生して、像想観さらには定善十三観をどのように解釈すべきかを議論している。ここで善導は「ある実践者は、この『観経』第八像想観に説示されている内容について、これを〈唯識法身之観〉として理解し、あるいは〈自性清浄仏性観〉として理解しているが、このことは大変な誤解である。この解釈は全くの誤りであり、少しも第八像想観に説示されている内容と相似するようなものではない」(趣意)と述べている。この「唯識法身之観」とは、阿梨耶識ありやしき依持説と如来蔵説を前提として「是心作仏、是心是仏」を理解したもので、如来蔵が顕現することにより法身が現成すると理解したものと考えられる。また「自性清浄仏性観」は『起信論』を典拠とした解釈で、「是心作仏、是心是仏」を衆生心であるとともに自性清浄心として理解する、いわば仏性の顕現を前提としたものと考えられる。

こうした理解に対して善導は「是心作仏、是心是仏」に関して、「〈是心作仏〉と言うは、自の信心に依って相を縁ずること作のごとし。〈是心是仏〉と言うは、心能く仏を想すれば、想に依って仏身現ず。すなわち、この心、仏なり。この心を離れて、外、更に異仏無ければなり」(聖典二・二六九/浄全二・四七下)と述べ、「是心」を「自らの信心」として解釈し、「是仏」を「仏、自らの影現」として理解したと考えられる。つまり善導は衆生の願往生心という阿弥陀仏を想う心そのものを、衆生と阿弥陀仏との接点であり、相互に知見する場所と捉えている。さらに善導は先述の批判理由について、「『観経』第八像想観において、先に仏の像を想うことを説示し、また阿弥陀仏が三十二相を仮に立てることは、真如法界身を凡夫が具体的な相を有するものと認識できず、また具体的な身を有するものと感知することができないということに起因している。そもそも、法身は色を有しておらず、凡夫の眼による認識対象ではなく、しかも何者にも比較の仕様がない存在である。それ故、虚空をもって、法身の体として比喩表現を用いる」(趣意)と説示している。その上で「また今この観門等は、ただ方を指し相を立てて、心を住とどめて境を取らしむ」と述べ、「また、今、この『観経』第八像想観などの内容は、ただ、方向を指示し、具体的な相を立てることによって、心を阿弥陀仏の一箇所に留まらせ、阿弥陀仏を実際の認識対象として感知することのみを目的としており、決して、相が無い境界や念から離れた境界を明かすような内容ではない」(趣意)と説示している。すなわち、「唯、指方、立相、住心而取境」という一文は、釈尊が西方を示し、その先に阿弥陀仏が自らの仏身と浄土の「相」を提示し、両者がそれぞれに、衆生が自らの視覚対象として阿弥陀仏および極楽浄土を具体的かつ実際に認識することが可能となるように、衆生に対して具体的な方向性と有相性を説示していると見られる。すなわち、善導は指方立相説における仏と衆生との関係性を、「釈尊と阿弥陀仏が共に衆生のために法門を開き、衆生は自らの心において阿弥陀仏に想いを繫かける」と説示していると考えられる。つまり「指方立相」とは、『観経』において説示されている法門は、ただ釈尊により方角が指示され、阿弥陀仏により具現化されている仏身および浄土の有相を衆生に開示することのみを目的とし、未来世一切の凡夫を対象とした浄土法門の開示として捉えることができる所説である。

【参考】柴田泰山『善導教学の研究』(山喜房仏書林、二〇〇六)