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aya-kobayashi-manita 's 翻訳 Try It ! ~pupils with heart~

子育ては『Que・Sera・Sera』?~そして『no woman cry』

2020.10.03 13:32

 今、子育てをしていて思う事ー子供って、本当に、一寸一秒で集中力がシフトし、興味の対象が変わる。一寸一秒で、泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだり・・・親は一喜一憂。妊娠中からそうだった。一秒でわからなくなる、はかなすぎる命。モニターをつけるようになってからは、「元気そうですねー、あ、寝ちゃったかな?あ、起きましたねー。」・・・と、万事こんな調子。「え?元気だって言いましたよね?寝ちゃったんですか?え?もう起きたんですか?」こちらとしては、気の休まる事がない。生まれてくる時も、まあ気まぐれな我が娘。マイペースすぎて、陣痛はきているのに、いっこうに出て来る気配を見せない、危ういほどの呑気さ。


そんな娘と向き合ううちに、ふと、こんなBGMが頭から離れない。目下、私の鼻歌ブームは、こちらである。


When I was just a little girl

I asked my mother, what will I be

Will I be pretty, will I be rich

Here's what she said to me.

Que Sera, Sera

Whatever will be, will be.

The future 's not ours, to see

Que Sera, Sera

What will be, will be.

When I was young, I fell in love

I asked my sweetheart what lies ahead

Will we have rainbows, day after day

Here's what my sweetheart said.

Que Sera, Sera.

Whatever will be, will be

The future's not ours, to see

Que Sera, Sera

What will be, will be.

Now I have children of my own

They ask their mother, what will I be

Will I be handsome, will I be rich

I tell them tenderly

Que Sera, Sera.

Whatever will be, will be

 The future's not ours, to see

Que Sera, Sera

What will be, will be


小さな少女だった頃、よくお母さんに尋ねたわ。

私は何になるの?可愛くなるの?お金持ちになる?

するとお母さんは、こう応えるの。

ケ・セラ・セラよ。なんにだってなるの。未来は、想定外、わからないの。ケ・セラ・セラ。さあて、何になるかしらね。

若い頃、恋に落ちてね、私のいい人に、この先どうなるのか、尋ねたわ。

毎日、毎日、私達は虹を見られるの?

すると、私のいい人は、こう応えるの。

ケ・セラ・セラだよ。どうにだってなるよ。未来は、想定外、わからない。ケ・セラ・セラ。さあ、どうなるかな。

今、私には子供がいる。彼らは、自分が何になるのか、ママに尋ねるの。

格好良くなる?お金持ちになる?

そうしたら、私は子供たちに優しく応えるの。

ケ・セラ・セラよ。何になるかしらね。未来は、想定外、わからないの。ケ・セラ・セラ。さあて、何になるかしらね。


映画『知りすぎていた男』の中で、ドリス・デイが歌う。誘拐された息子の安否を、密かに確認するために、息子と常日頃から親しんでいたこの歌を、必死になって、だけど真意をひた隠して、平常心を装いながら、気丈に歌い上げる母親のドリス・デイ。この歌が聞こえた息子は、なんとか口笛で、自身の無事を母に伝えるという、なんとも息の詰まる緊迫と、緊張と、そして、憎い演出が見られる場面だ。


特に難しかったのは、”the future's not ours, to see"だ。直訳すると、「未来は私達のものではない。見るものではない」となるが、そもそも、未来とは、人間の所有物ではなく、つまり、人間がコントロールしたり、手中に収まっている人工の所属品ではないのだ、という大きな概念を突き付けられる。どちらかというと、自分の思う通りに未来を生きようとする考え方の方が、乱暴で横暴なのかもしれない、と、考えさせられるフレーズだ。なるほど人生は、自分ひとりで生きているわけではない。友達、家族、恋人、仲間、ライバル、他人・・・様々な人々と交じり合い、更にh、法や経済、時代の流れ・・・等が必然に、複雑に、加わり、影響し合い、絡み合い、迎えうるのが未来なのだ。独りよがりで勝手に見られるものではないのだ。


私は、今まで、先が見通せない未来なんて怖くて進めないタイプだったような気がする。「ケ・セラ・セラ」なんてとんでもない、何が起こるかわからないなんてとんでもない、と。だけど、妊娠し、出産し、今、育児真っただ中、予測不可能な子供の成長に手を焼かされ、気付くことがある。予定調和の人生なんて、生きるかいあるだろうか?と。人生、何が起こるかわからないのが生きている証なのではないだろうか?順風満帆な人生なども憧れるが、それでは、生きる意味とは何か?先が見えすぎると、生きている実感は湧かないのではないだろうか?突如起こる不都合も、次のハッピーへの序章かもしれない。良いことも悪い事も、人生というストーリーに突然頭をもたげてきては、その度に、計画変更を余儀なくされる事もあるかもしれないが、それが人生生きている瞬間なのかもしれない。最近、本当にふと、素直に、そう思えるようになってきた。先が見える人生など、生きている実感もないものかもしれない。世の中、ケ・セラ・セラと、笑い飛ばし、ポジティブに人生という道を重ねてゆきたいと思う。そのような、先は見えぬが大きな希望は忘れずに、前を向いて進もう、という、メッセージが、この歌からは感じられるのだ。

将来どうなるか、何がどう起こってどうなってゆくか、なんて、綿密に計算式を考えたところで何も始まらず、時間がもったいないだけなのである。起ころうと起こるまいと、本当に、未来は予測不能。そんなものに縛られて、こだわりすぎても、結果、振り返ってみると、本当に実も何も残らないものである。この歌詞のように、人生、少女時代も過ぎ、青春時代も過ぎ、気付けばあっという間に母となっている。この調子だと、本当に一生なんて、もう瞬きのように過ぎ去ってゆく・・・考え込むなんて、なんともったいない労力だったことか。


特に、コロナという突然のウイルスに混迷をきたす昨今、こんな簡単な言葉では、正直とても片づけられない悲鳴だが、少しおまじないの呪文のようには、なるのではないだろうか。


そして、続けて、何故かボブ・マーレイのこの名曲も、思い出さずにはいられない。


no, woman, no cry

no, woman, no cry

no, woman, no cry

no, woman, no cry


'cause-'cause-'cause I remember when  we used to sit

in a government yard in Trenchtown

ob-observing the hypocrites, yeah!

mingle with the good people we meet, yeah!


good friends we have. Oh

good friends we have lost along the way.

in this great future you can't forget your past

so dry your tears, I say, yeah


no, woman, no cry

no, woman, no cry

a little darlin, don't shed no tears

no, woman, no cry


I remenber when we used to sit

in the government yard in Trenchtown

and then Georgie would make the fire lights

I say, log wood burnin' through the nights


then we would cook cornmeal porridge

I say, of which I'll share with you

my feet is my only carriage

and so I've got to push on through


but while I'm gone

everything 's gonna be all right

everything's gonna be all right

everything's gonna be all right

everything's gonna be all right

 

everything 's gonna be all right

everything's gonna be all right

everything's gonna be all right

everything's gonna be all right


so, no, woman, no cry

no, woman, no cry

I say, oh, little- oh little darlin, don't shed no tears

no, woman, no cry.


だめだよ、女よ、泣かないでおくれ

だめだよ、女よ、泣かないでおくれ

だめだよ、女よ、泣かないでおくれ

だめだよ、女よ、泣かないでおくれ


だって、だって、だって、俺たち、トレンチタウンの公団広場に座っていたのを覚えている。

出会った良い人々に混じって、それらしくしている偽善者たちを眺めながら

出会った良い友人たち、ああ、人生の中で、失くしていった良い友人たち

この素晴らしい未来だっていうのに、君は過去を忘れられないでいる

だから、涙を流さないで、僕は言うよ、ああ


だめだよ、女よ、泣かないでおくれ

だめだよ、女よ、泣かないでおくれ

小さな愛おしい人よ、涙をこぼさないで

だめだよ、女よ、泣かないでおくれ


俺たち、トレンチタウンの公団広場に座っていたのを覚えている。

ジョージが焚火を焚いてさ、一晩中、薪を燃やした

それからコーンミールを作ってさ、君と分け合った

両足だけが頼りさ

だから、続けるよ。この足で、生き続けるよ


だけど、もし、僕が死んでしまっても

全ては上手くいく

全ては上手くいく

全ては上手くいく

全ては上手くいく

全ては上手くいく

全ては上手くいく

全ては上手くいく

全ては上手くいく


だめだよ、女よ、泣かないでおくれ

だめだよ、女よ、泣かないでおくれ

小さな愛おしい人よ、涙をこぼさないで

だめだよ、女よ、泣かないでおくれ


”everything's gonna be all right"が頭から離れないのかな。なんて優しい語りかけだろうと、いつも思います。私の大好きな曲のひとつです。このカオスは、いつ始まって、誰から始まって、なぜ、なんのために、そんなのも複雑すぎて見えなくなってきている時代・・・要因や要素が大きすぎて一人ではつかみきれなくなってきている時代ですが、これも呪文のように唱えてみればと、思います。