私なりの共産党への葛藤&父との思い出
2020.10.04 01:52
私、子どもの頃は、父にくっ付いて出かける事が多かった。
家には、祖母(明治生まれの奄美人)がいて、言葉も奄美語でね…
何より、日本人を毛嫌い。
私の父は日本人だから、険悪な同居生活。
伝法高見診療所
此花区四貫島小学校で、共産党の講演会。
西九条や、それから…
扇町プールとか
赤旗まつりは、万博記念公園でやってた頃
父との思い出
私の父は、西六社のうちの日立造船に勤務していた。
私の父は共産党50年党員。
父は父で琉大事件を知り、そして何て言ったか。
(後日、追記する)
私の父へは、ブルデモの写真は見せてない。
あんなの、見せれるか?
ブルデモを東中光雄さんが喜ぶはずもなく、そして未だに翁長さんを賛美する者達よ、私は許す事がやはり無いかもね💢
( ;-`д´-)
今、あらためて思う💢
昭和40年に入り
大阪市営住宅入居の抽選で当たったのは、中津。
私の祖母は此花区高見に拘ってたからね。
祖母が亡くなってから
高見から伝法団地へ引越し
そして、西淀川区佃へ。
辰巳家とのエピソードとなっていくのだが…
私の母は、昭和34年に奄美から大阪へ移住。西淀川区内の電機会社へ就職。
西淀川区では、沓抜タケ子さんと出会う。
西淀病院には、川上貫一の石碑がある。
そんな、衆院選大阪5区に
宮本たけしさんを擁立!!!!!
私の父、とにかく
私の祖母(明治生まれの奄美人)との同居生活は、本当に大変だったやろにと
そもそも、そもそもとなると
共産党よ
続く