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Kazu Bike Journey

東京 (29/09/20) 江戸城 (8) 外曲輪12門 / 外濠 (8) 赤坂見附跡/虎の門見附跡

2020.09.30 07:33

外曲輪12門

今日は虎の門病院で定期検診の日。今日に合わせてスケジュールは調整して、今日は赤坂、虎の門の見附跡中心に回る。病院の近くなので、朝早く出て、診察前と診察後の時間を使うことにする。


紀伊和歌山藩徳川家中屋敷 (迎賓館 赤坂離宮)

紀州徳川家は、江戸に20以上の屋敷を構え、公的な施設は上屋敷「麹町邸」で、藩主が暮らしたのがこの中屋敷「赤坂邸」。明治維新後、本殿は赤坂離宮として宮内省の管轄となった。明治6年には皇居が火災に遭ったため、赤坂離宮が仮皇居として使用され、その際に赤坂邸全域が紀州徳川家から宮内省に献上された。

庭園内の池などはほぼ江戸時代の形のまま残っている。

この紀州徳川家の江戸中屋敷の本殿跡には、明治42年造られた東宮御所 (後に赤坂離宮)の一部として迎賓館がある。国宝になっている。ここは以前勤めていた会社への自転車通勤路だったので毎日見ていた。以前には無かったのだが、迎賓館正門の外に洒落たカフェレストランができていた。迎賓館と庭園は公開している事を後から知った。基本コースが1500円と割高なのだが、和風別館をプラスすると2000円。ガイド付きなので妥当な値段かもしれない。庭園だけ観るなら300円で済むそうだ。事前に知っていれば見てみたかった。次回東京に来た際に再訪しよう。

赤坂御庭図画帖

江戸時代の中屋敷の様子を垣間見れる絵が残されている。第10代藩主 徳川治宝の時代に藩主の身の回りの世話を担う御召方坊主であった坂昇春 (さかしょうしゅん) が15の図に渡って紀州藩・赤坂邸にあった庭園の西園を描いた赤坂御庭図画帖だ。この庭園の「西園」は、尾張徳川家下屋敷の「戸山園」、水戸徳川家の「後楽園」とともに徳川御三家の名園と称された場所。


庭園はゆったりとした空間が広がっており、藩主の家族が慌ただしい日常から離れゆっくりと過ごせる様な屋敷だったのだろう。所々に庭園を楽しむ茶室などが設けられている


第一図 洗心亭斬月 ー 洗心亭の前の池には小舟が浮かんでいる。桜が咲いているので春だろう。小船に乗って花見を楽しんだのだろうか?

第二図 合?亭初夏 ー 丘の上に茶室がありその下に川を作って水を流している。初夏と書かれているので、この茶室で川の流れを聞きながら涼んでいたのだろう。

第三図 積翠池時雨 ー この絵はインターネットでは見つけられなかった。残念


第四図 青崖埒打毬之図 ー 打毬 (だきゅう) と呼ばれたポロの様な競技の様子も描かれている。

第五図 望嶽亭霽色 ー この望嶽亭からは富士山が眺められたそうだ。

第六図 鳳鳴閣春草

第七図 長生村仲夏 ー 農村を再現した庭園で、籠の野菜や庭の鶏などは、すべて作られたものだそうだ。

第八図 黄金渓晩秋

第九図 青藍沼 翠譚石 新橋

第十図 向陽亭 初夏一 ー 向陽亭一帯は植物園で、絵には盆栽が並んでいる。

第十一図 向陽亭 初夏二 ー 向陽亭には温室まであったそうだ。

第十二図 宣春観開花

第十三図 騎射場夕陽 ー 庭園内には馬場があり流鏑馬が行われていた。

第十四図 白紅台仲夏 ー 向こうに見えるのは江戸城だろうか?

第十五図 五里書碁雪 ー 冬の庭園

中に入れないと思っていたので、せめて紀伊和歌山藩徳川家中屋敷 (迎賓館 赤坂離宮) の外周を一周する事にした。


紀伊国坂

外堀に沿って中屋敷跡 (赤坂離宮) の東側は坂道になっている。紀伊国の中屋敷があったのでこの名がついている。別名もあり、茜草が生える赤根山(迎賓館付近の高台)に登る坂であることから赤坂・茜坂とも呼ばれたそうだ。これがこの地が赤坂と今でも呼ばれている由縁だ。

小泉八雲の「怪談」の中に登場するのっぺらぼうの貉 (むじな) が出没するのはこの紀伊国坂だ。


東門 紀伊国坂の上の方にあり、ちょうど喰違門への道が分かれる所にある。ここから江戸城にこの道を通り喰違門を抜けて行ったのだろう。


巽門 紀伊国坂から外堀から南側に曲がり、左手に豊川稲荷がある所にこの巽門がある。先程の東門の様には、江戸時代の屋敷門はなく、明治時代の門の様なレトロな門。人が出入りしていたので、入れるのですかと聞くと、警備の警察官が入れないとの答え。この門を入ると秋篠宮邸がある。そこに行く人達はこの門を使っているのだろう。


南門 巽門で青山通りに入り青山一丁目を目指して走ると、三番目の門がある。全く昔の風情は無い。塀の上で警備をしている警察官に聞くとここが南門と言う。


西門 青山一丁目交差点で外苑東通りに右折すると4番目の西門。門が歪んでいる。


正門 明治記念館の所で右折すると今までの門より少し広めの門がある。ここが正門。ここも昔の面影は無い。この門を入ると皇太子家族が住んでいる東宮御所があるので、皇太子家族、天皇家族、東宮御所への来賓者だけがこの門を使えるそうだ。だからか、門の前にも鉄柵のゲートがあり、しまっていた。滅多に使わないのだろう。

かつてはこの様な門だった。


鮫が橋門 安鎮坂を下り切ると6番目最後の門の鮫が橋門。この門は昔のままで残っている。この周辺地域が「四谷鮫が橋」と呼ばれていたことから、この門の名がついた。  この地域が低地で沼沢地で鮫が迷い込んでくることがあったと言う。 四谷鮫が橋地区は江戸時代に極度の貧困地区で、私娼屋が集まった歓楽街の「岡場所」としても知られていた。


弁慶橋

紀伊和歌山藩徳川家中屋敷跡を一周して、再度外堀に出て紀伊国坂を下り、赤坂見附を目指す。ここの外堀は弁慶濠と呼ばれ、赤坂見附門のすぐ手前には弁慶橋が架かっている。江戸時代にはない橋、江戸城の外堀を越えるには見附しか通行できない様になっていたので、後世にかけられたのだ。弁慶橋は江戸城普請に携わった大工棟梁の弁慶小左衛門が架けた橋で、元々はこの場所ではなく神田にあったもの。橋がかかっていた藍染川が埋め立てられ、この地に1889年 (明治22年)、弁慶橋の材料を再利用して架けられ、同じ名前をつけたそうだ。


赤坂見附跡

弁慶濠の突き当たりにあったのが赤坂見附。1636 (寛永13) 年、福岡藩主の黒田忠之 (黒田長政の子) が枡形石垣を築造、1639 (寛永16) 年、御門普請奉行によって門が完成。大山に参拝する大山道 (現在の青山通り) の玄関門となっていた。他の見附門と異なり、橋がかかっておらず、外堀の弁慶濠がここで一旦途絶え、その南側には溜池が新たに外堀として南に伸びている。これは意図的に、見附建設前の軟弱な地盤の低地を避け、見附を高台に設置するため、弁慶濠と溜池間の土橋を版築して行った。溜池と弁慶濠との水位差を保つために難工事だったそうだ。

遺構は枡形石垣の片側 (北側) のみ残っている。枡形門の内側部分にはちょっっとした休憩スペースになっている。

赤坂見附の浮世絵と古写真が残っている。左の浮世絵は二代安藤広重の作品で雨の中向こう側の坂を赤坂見附に登っていく人々が描かれている。右の浮世絵は日本を愛したフランス人ノエル・ヌエットが36年の日本滞在を終え、フランスに戻ってからの作品赤坂見附から弁慶橋を風景を描枯れている。古写真は4枚ある。どれも赤坂見附の当時を良く捉えている。中右上は赤坂見附交差点から見附跡に登っていく風景で見附門の風貌がよくわかる。中右下は反対側の永田町から見附を見たもので、門の右側には渡櫓門がある。中左上は見附から赤坂見附交差点に降る風景で、右側に弁慶濠、左側には現在は埋め立てられてしまった溜池が写っている。中右下は見附の枡形内部から赤坂への門。


九郎九坂

赤坂見附門から紀伊国坂まで降りて戻る。この近辺にある大名屋敷や文化財を巡る。紀伊国坂から青山通りへ向かう坂がある。九郎九坂と立て札がある。九郎九と言う人が住んでいた体そうだ。かつては、ここには鉄砲練習場があり鉄砲坂とも言われている。


豊川稲荷東京別院

九郎九坂を登ったところに豊川稲荷東京別院がある。あることは知っていたが、見たことはなかった。東海道の旅の途中豊橋市にある豊川稲荷で有名な妙厳寺を訪れた際に、ここがその分院ということで、ぜひ来てみたかった所。本山の妙厳寺同様、狐がこの東京別院の狭い敷地内にぎっしりといる。本山の妙厳寺にしてもこの別院にしても、狐なしには経済的に成り立たなくなっているのだろう。本尊の吒枳尼天 (だきにてん) と稲荷信仰が集合していたのだが、明治の神仏分離令以降、一度は神道関連のものは鳥居をはじめ全て撤去されたのだが、戦後復活させている。民衆の要望が強かったのか、経済的理由なのかはわからないが、仏教寺院が元々は神社であったおいなりさんがメインとなっているのにはちょっと違和感はある。妙厳寺がどの様な経緯でこの稲荷神社を扱う様になったのかは妙厳寺豊川稲荷を訪れたときの紀行録に残している。

狐だらけ。参拝者は仏教寺院としてお参りをしているのか、稲荷神社としてお参りをしているのか気にしていない人が多いのではないだろうか...


牛鳴坂

豊川稲荷東京別院の前の青山通りを渡ると、別の坂道がある。牛鳴坂という。当時はこの坂は路面が悪く車をひく牛が苦しんだためにこの名がついたと伝わっている。


三河西大平藩大岡家下屋敷

牛鳴坂のところには三河西大平藩大岡家下屋敷跡がある。表示板も遺構も何もないのだが、ここはテレビドラマ「大岡越前」の大岡忠相の屋敷であった。一時期はこのドラマを見ていたが、このドラマが1970年から30年にもわたって放映されているので、途中から息切れを起こし見なくなった。間違いなく、大岡忠相は日本の高齢者のヒーローであった。大岡忠相が三河の西大平藩の初代藩主であったことはそれほど知られていない。東海道の旅では本国の屋敷跡を訪れた。ただ、大岡忠相は本国には一度も行っていないのだが...

現在は屋敷跡地には国際医療福祉大学のキャンパスビルが立っている。


武家屋敷門 (岡崎藩本多家上屋敷 - 移設)

牛鳴坂を登っていくと武家屋敷門がある。移築保存されており、立派な門構えだ。江戸時代末期の幕府老中で、岡崎藩主 本多忠民 (ほんだ ただもと) の丸の内にあった上屋敷の表門。火事で焼失し、1862年に再建された。山脇学園が寄贈を受けて2016年に山脇学園の隣に移設したもの。見学していると、小学生が下校時にこの門の説明を友達にしていた。この子の友達は「江戸時代のものか」と感心していた。このやりとりを聞いていて、微笑ましくなった。文化財を残す意味は、子供が地域の歴史文化を身近に感じることができる。観光資源としての史跡より、この様な意義の方が大きいと思う。


弾正坂

牛鳴坂の道をそのまま進んで、青山通りに戻る道がある。これも坂道。こちらからだと下りだが、弾正坂と書かれていた。代々、弾正大弼 (だいひつ) を任命された吉井藩松平氏の屋敷があったことからこの名で呼ばれている。弾正大弼は太政官制での監察・治安維持などを行う官職だが、戦国時代、江戸時代は実際の職務ではなく、位としての称号で与えられたもの。


外堀溜池跡

青山通りを通り赤坂見附交差点まで戻る。ここから次の見附跡がある虎ノ門に向かうのだが、赤坂見附と虎ノ門の間には、江戸時代には大きな溜池が外堀の役割を果たしていた。今は完全に埋め立てられて、外堀通りが走っている。この外堀通りが江戸時代の外堀にあたる。

溜池の古写真

今日は定期検診が虎の門病院で予定しているので、ここで一旦、史跡巡りを中断して病院に向かう。自転車で5分のところなので、1時間ぐらいで戻ってこれるだろう。


溜池櫓台

無事定期検診も終わり、異常なし。史跡巡りに戻る。

外堀通は虎の門で霞ヶ関のほうに曲がっている。江戸時代の外堀も同じだった。溜池から洗堰から川の水が汐留川に流れ込み、外濠はこの後、虎の門、幸橋門、芝口門、浜御殿大手門を経て内堀に合流する。江戸城巡りの第一ステージの外濠外曲輪12門巡りは後4つとなった。外濠が虎の門/霞ヶ関で曲がる外濠に溜池櫓台の遺構が残っている。以前は、ここを何度となく通っていたのだが、これには気づかなかった。調べると江戸城外濠の隅櫓は、筋違橋門と浅草橋門との三か所にあったのだが、遺構が残っているのはここだけ。この櫓台は1636年 (寛永13年)、池田輝政の孫の因幡鳥取藩主池田光仲によって構築されたとある。江戸古地図と現在の地図を照らし合わせると、イメージが湧いてくる。

この場所は外濠の内側の石垣だが、外濠の対岸が、今日診察を受けた虎の病院がある所。そこまでが濠だった訳だ。虎の門病院からJTビルまで少し坂になっているのだが、そこはあふひ (葵) 坂と呼ばれ、坂の上には洗堰 (あらいぜき) があった。特許庁がある辺りだ。この堰の向こうが溜池だった。この場所の情景を描いた浮世絵がいくつかある。これを見ると当時の様子が窺える。


溜池近辺の大名屋敷を巡るため、虎ノ門から赤坂の方に戻ることにする。


筑前福岡藩松平家 (黒田家) 中屋敷

溜池交差点から六本木に向かうところに福岡藩松平家中屋敷があったと江戸古地図では書かれてある。福岡藩"松平家"は聞き慣れない。福岡藩は確か黒田家のはずなのだが、藩主は国替えなどで変わるので、いつの時代かに松平家に変わったのかと、調べるとわかった。福岡藩は黒田如水の息子の黒田長政が初代藩主として始まったのだが、徳川家康は黒田家を優遇し、二代藩主 忠之以降の歴代藩主に、松平の名字と将軍実名一字を授与 (偏諱) したと書かれてある。それで古地図では松平家と書かれてある。とにかく松平家と書かれた大名屋敷の多いこと。同じ様に松平家の名字をもらった大名も多くいたのだろう。

中屋敷跡の中に入ろうと思ったのだが、入り口には警察官が監視しており、敷地内への立ち入りは断られた。そこは議員会館になっているからだった。


信濃松代藩真田家中屋敷

筑前福岡藩松平家 (黒田家) 中屋敷の隣に信濃松代藩真田家中屋敷がある。「真田太平記」や「真田丸」のドラマで人気のある真田家だ。一番人気の真田幸村の兄の信之は関ヶ原で家康に味方し、元々の城主であった沼田領と西軍で敗れた父の昌幸の上田領を合わせて上田藩を有していた。1622年 (元和8年) に国替えで信濃国上田藩より、沼田領を保持して松代藩 藩主となった。これが真田家松代藩の始まり、次男の第二代藩主の信政が早逝し、家督争いが起こり、第3代藩主は信政の六男 二才の幸道が継ぎ、反対派であった先に早逝した信之の長男の信吉の次男である沼田城主 信利が松代藩から独立して沼田藩となる。それ以降は松代藩10万石が明治維新まで続くことになる。

中屋敷は南部坂を登ったところにあり、現在は隣接していた中村藩相馬家中屋敷含め丸々跡地が米国大使館職員宿舎になっている。相当の数の職員が駐在しているのか?無論、中には入れない。東京都心の武家屋敷は政府省庁や大使館・領事館になっているところが多く、中に入ることはできない。


勝海舟邸跡/勝安房邸跡

この地域は氷川で勝海舟の住居であった場所が二つある。一つは明治維新後に死去するまで住んでいた場所で、港区特別養護老人ホームになっており、その一画に坂本龍馬と勝海舟の像が立っている。

もう一つは、先ほどの住居後から近い場所にあり、1859年 (安政6年) から1868年 (明治元年)までこの赤坂本氷川坂下の地に住んでいた。坂本龍馬や勝海舟を主人公にしたドラマでは必ず出てくるのが、1862年 (文久2年)に、土佐脱藩浪士の坂本龍馬が、前福井藩主の松平春嶽の紹介により、勝海舟に面会するために訪れ、弟子入りを志願した場面。それがここにあった勝海舟邸宅だ。


氷川公園

江戸時代前期、この公園附近には広島藩浅野家を本家とする浅野家の本・分家の屋敷や、赤穂藩浅野内匠頭の屋敷があったのだが、浅野家は松の廊下の刃傷事件で改易されてしまい、閲覧している江戸古地図はそれ以降のもので、やはり浅野家屋敷は載っていない。1935年 (昭和10年) に公園に整備されている。


転坂 (ころびざか)

氷川神社に向かう道にまたもや坂があった。江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよくころんだために転坂 (ころびざか) と呼ばれていた。


氷川神社 (今井城跡、三次藩浅野土佐守屋敷跡) 

創祀は951年 (天暦5年) というから千年以上の歴史ある神社で、赤坂、六本木地区の氏神だそうだ。安政の大地震、関東大震災、東京大空襲の被災を免れており、神社は江戸時代当時の姿を残している貴重な文化遺産でもある。平安時代には、木曽四天王と呼ばれた木曾義仲の家臣の今井兼平がこの地に今井城を築城したとも伝わっている。

この狛犬も昔から残っているもの。

勝海舟が命名した末社の四合稲荷神社。この地域の四つの稲荷神社を合祀したため、この名前になったそうだが、「しあわせ」ということで人気があるそうだ。

氷川神社は元々は赤坂の方にあり、1730年 (享保15年) にこの地に移ってきたのだが、それ以前は備後国三次藩 藩主浅野土佐守の屋敷であった。赤穂事件で即日切腹となった赤穂藩浅野内匠頭長矩の正室 阿久里 (瑶泉院) は三次藩の出身で、二代藩主長治の三女で、三代藩主長照の養女であったことから、ここにあった屋敷に引き取られ、46歳で亡くなるまでここで過ごした。その後は、寂しい余生だったかもしれないが、赤穂浪士の討入りの後、遠島に処された浪士たちの遺児の赦免運動に4年間も奔走したというから、それに生きる意味を見出していたのだろう。そして4年後に赦免が叶ったの後は穏やかな余生だったかもしれない。

幾度となく映画化されている忠臣蔵の一場面に、吉良邸討ち入りの前日に大石内蔵助が瑶泉院を訪れる「南部坂雪の別れ」はこの三次藩屋敷が舞台だ。これは後世の創作と言われているが、それでもここでそのシーンが浮かんでくる。創作であっても良いシーンと思う。

ここに屋敷を構えていた三次藩も四代藩主長経、五代藩主長寔が立て続けに早逝し、世継ぎがなく家は断絶、廃藩となった。


本氷川坂

氷川神社への南部坂や転坂とは反対側にも坂がある本氷川坂。氷川神社があったからこの名なのだが、別名転坂とも言われていたそうだ。先程通った転坂と同様に旧な坂道で、人が良く転んだそうだ。


雷電墓 (報土寺)

赤坂通りを越え、暫く行くと報土寺という寺にあたる。ここには江戸時代の人気力士の雷電為右衛門の墓がある。勝率.962の大相撲史上未曾有の最強力士と言われる。信濃の小県出身で、伊勢ノ海部屋に入門し、当時大相撲史上屈指の強豪であった谷風の内弟子となる。松江藩お抱えの力士として各地を巡業し、勝率.962の大相撲史上未曾有の最強力士と言われる。谷風、雷電という人気力士登場で、相撲の第1期ブームを巻き起こした。

雷電の墓がここにあるのは、この報土寺が、松江藩縁の寺であったことや、火災で被災した報土寺の再建にあたり、鐘楼と梵鐘を寄贈するほどの関係であったことによる。


三分坂

報土寺の前は急坂がある。三分坂という。急坂のため荷車を後押ししてもらうとき、車賃を銀3分 (百円あまり) ほど増額していたので、この名がついたという。ただ、自転車でも十分登れる傾斜だったので、激坂までは行かない。東京は坂が多いと言われているが、どの坂も短い距離で、苦になる程ではない。この様な短い坂でも名前が付いている。江戸の人々の当時の感覚が想像できる。江戸は比較的平坦なところが大半を占めている。高いところでも標高40mぐらい。この地形の生活に慣れた江戸の人にとっては短くても坂は避けたい場所だったのだろうか? それで、坂には特別に名をつけたのか? 江戸時代にはすでに楽する都会人になっていたのか? それとも、人と話すときに場所が特定しやすい様に町名と同じ様に名をつけたのだろうか?


安芸広島藩松平家中屋敷

三分坂を登ったところはTBSがあり、ここには江戸時代は安芸広島藩松平家中屋敷があった。広島藩松平家とは浅野家の事。将軍から松平姓を賜ったのだが、この時代に浅野家が松平姓を使っていたのだろうか?江戸の古地図では浅野ではなく松平と書かれている。少し疑問が出て調べると、松平の姓を持つ大名は、松平家からの分家は18家、公式文書で松平姓の使用を許された譜代大名は8家、そして大名は10家あった。浅野家は外様10家の一つにあたる。その他の外様大名は 前田家、伊達家、島津家、毛利家、黒田家、鍋島家、池田家、蜂須賀家、山内家の戦国時代から名だたる名門たち。

この前に訪れた氷川神社の際に触れた浅野家の関係がわかる系図が、広島の歴史博物館を訪れた際に見たのでここに載せておく。この安芸広島藩松平家中屋敷は宗家の浅野家の事。三次藩や赤穂藩はその分家にあたる。広島藩は元々は毛利氏の領土で、広島城はその中心の居城だった。関ヶ原の戦いで西軍に味方した事で、広島藩は福島正則の統制となり、福島家改易後、この浅野家が入り明治維新まで続くことになる。

屋敷跡全域はTBSが所有で、ここにTBS本社があった。本社を同じ敷地内に移転しその跡地を、総事業費は約770億円で再開発が行われ赤坂サカスが誕生し、赤坂Bizタワー、赤坂ACTシアター、赤坂BLITZ、赤坂 ザ レジデンス。開発運営を一括委託されている三井不動産の広報ページに赤坂サカスのなの由来が書かれている。桜を咲かすという意味と、赤坂にたくさんある坂=坂s=「サカス」の意味もある。「赤坂サカス」のローマ字表記「akasaka Sacas」を後ろから読むと「SACA・SAKA・SAKA」=「坂・坂・坂」となる。そうだ。確かにこの辺は坂が多い。とは言っても全て短い坂なのだが....

なぜ、これほど広大な土地、それも安芸広島藩松平家中屋敷跡を丸々、TBSが持っているのかが不思議だった。そこで戦前の地図や航空写真を調べてみると、1896年 (明治29年) から1909年 (明治42年) の間に作成された地図には「近衛歩兵営」とあり、1927年 (昭和2年) から1939年 (昭和14年) の間に作成された地図には「(第)三近(衛)歩(兵営)」とある。1936年 (昭和11年) の航空写真にも兵舎が写っている。地図では中屋敷全域がその用地に充てられている。1891年 (明治24年) に近衛師団が創設され、1893年 (明治26年) に兵営が霞が関からこの赤坂一ツ木に移転してきている。TBSの前身の株式会社ラジオ東京がナログテレビジョン放送を開始するために、1953年 (昭和28年) に旧日本軍の近衛歩兵第3連隊跡地を買収したので、中屋敷跡跡がTBSとなった訳だ。この赤坂から霞ヶ関一帯には多くの軍施設があった。


江藤新平遭難遺址碑

もう一度、虎の門方面に向かう。外堀通りの脇に江藤新平遭難遺址碑が建っている。1869年 (明治2年)、江藤新平は、赤坂葵町の佐賀藩邸から駕籠で帰路につくが、藩邸をわずか数歩出たところで、政改革に不満を抱いていた佐賀藩の6名の下級武士たちに襲われ、江藤は駕籠から濠の中へ逃げ、軽傷で済んだ。この四年後には征韓論で政府から離脱、佐賀に帰り、佐賀の乱を起こし、捕縛され即日斬首刑となり梟首となった。この時の鍋島藩の中屋敷跡には、共同通信、JT、国立印刷局、虎ノ門病院がある。

佐賀藩鍋島家中屋敷の場所を確認したのだが、江戸古地図によって異なっている。これは地図の時代によって替わっている可能性があるが、はっきりとはわからなかった。この地図の江戸の時代については記載されていないので、鍋島家がここに移ってくる前のものであろう。今は今日診察をした虎の門病院、JTなどが建っている。

こちらは江戸末期の地図。これでは佐賀藩鍋島家中屋敷となっている。江藤新平は幕末、明治維新に活躍しているので、やはりここが中屋敷であった。周りの地形も少し変化がある。溜池の大溜ができている。


延岡藩内藤家上屋敷跡 (工部大学校跡)

江藤新平君遭難遺址碑の外堀通りの反対側に工部大学校跡ある。1871年(明治4年) に、延岡藩内藤家上屋敷跡地に工部省が技術者養成機関として工部大学校を創設。現在の東京大学工学部の前身。

工部大学校は東京大学と合併し移転した後、学習院と東京女学館の校舎として利用されたが、関東大震災によって倒壊し、それ以降に文部省が置かれた。今はその記念碑が建っている。

江戸時代の浮世絵には延岡藩内藤家上屋敷が描かれ、明治時代の浮世絵には上屋敷に替わって工部大学校が描かれている。写真は明治初期のもの。浮世絵にも同じ形の校舎が描かれている。浮世絵には先に記載した溜池と汐留川の間にあった洗堰 (あらいぜき) も描かれている。

延岡藩内藤家上屋敷の絵


虎の門見附跡

ようやく、虎の門見附跡までたどり着いた。外濠が埋められてしまっており、虎の門見附の遺構もあるのかないのかも良くわからない。幾つかの石垣が残っているのだが、どの部分の石垣なのか現在の地図と古地図の照らして合わせてみないと見当がつかない。残っている石垣跡は全て延岡藩内藤家上屋敷があった外濠の石垣だった。虎の門見附自体の遺構はない。

虎ノ門は肥前国佐賀藩主の鍋島勝茂が築き、枡形は16060年 (慶長11年) に完成。江戸六口の一つ外桜田門から初期の東海道に通じる門で、四神相応の西を守護する白虎から虎ノ御門と呼ばれた。

地下鉄虎ノ門駅の八番出口に虎の像がある。これが虎の門見附碑だそうだ。場所は見附があった場所ではなく見附門へ橋を渡る手前にあたる。実際の場所は写真下の文化庁の前の外堀通りの道路の中にあった。道路工事で完全に消滅している。

右上の石垣は江戸城のものではなく後から作ったもので、当時の石垣はその下の地下に埋まっているそうだ。後の石垣は江戸時代のもの。


讃岐丸亀藩京極家上屋敷 (金刀比羅宮)

虎の門に金比羅宮がある。何度も来たところなのだが特に意識はしていなかった。この江戸城見附巡りを初めて、幾つか金比羅神社があった。高松藩に関係していたものだった。ここにある金比羅宮も香川県にあった藩ゆかりではないかと思った。やはり、ここは丸亀藩に関係していた。丸亀藩の上屋敷はこの金比羅宮のすぐ隣だった。

江戸末期の地図では微妙に敷地が変わっている。金比羅宮との連絡がしやすい様に隣の大名屋敷と交渉でもしたのだろうか?

金比羅宮は1660年 (万治3年)、讃岐の丸亀藩主 京極高和の邸宅を愛宕下に建造した際、讃岐金刀比羅大神を勧請したことが始まる。1679年 (延宝7年)、丸亀藩江戸藩邸の移転の際に金比羅宮も共に移転してきた。


今日の行程は少し頑張りすぎたので、この後の編集が大変だった。やはり、1日で回る文化財の数は制限した方が良いだろう。

これで外曲輪12門 (外濠) の内、浅草橋門、筋違橋門、小石川門、牛込門、市ヶ谷門、四谷門、喰違門、赤坂門、虎ノ門の9門を見終わった。残るは幸橋門、芝口門、浜御殿大手門の3つの門となった。

明日は虎の門の外側にある大名屋敷を見る予定なので、この残った3つの門は数ヶ月後に東京に来たときに巡ることにする。