下駄を脱いだ日
忘れ去られた140文字オーバー。
Twitterでは事足りない、寝言の世界へようこそ。
幼女、女の子、制服、女子高生。
青文字、ストリート、レイバー、20代。
大人女子、女社長、アラサーまでは、そうかな。
いつだって何かしらの冠をかぶってきた。
それに気が付いたのはこの頃だ。
いま、わたしの頭の上にはなんの冠も載っていないと気がついて、ああそうか、あれは冠であり下駄だったのだと気がついた。
わたしは夢見がちな性格で、大人になったらなにかが成るのだと思っていた。
子どもの頃はもちろんなにをやっても未熟で下手くそで、「若さ」込みで評価してもらえていることには気が付いていたけれど、あしたのあたしはもっとスゴいって、いつも思っていた。
絵を描いても、派手な格好しても、会社を立ち上げても、それだけが評価されていたワケじゃなかった。分かっていたつもりだけど、そんなもんじゃなかったと、最近気がついたのは、同じことをしていても若い子に負けるからだ。
いっておくけど決して劣っているわけではない。
もちろん少しばかり巧い。
ただ、若い子は確実に時代をとらえ、その存在こそが「いま」とばかりに輝いており、魅力的で、目が奪われる。
片やわたしは……そう考えることは不毛だと、結論より先に頭を振って、意識を過去に飛ばす。
そうだった、かつてはわたしも「いま」であり、ヒリヒリとした存在感を示し、「若さ」の冠をかぶっていた。
その足下にあった下駄はけっこう高かったんだなーと思った。そんな風に考えるのは卑屈かもと思いつつ、いや公平に考えても下駄は履いていたと思い直す。いやさなに、だって悪いことじゃなく、ただの過ぎた事実なのだから。
いまのわたしは裸足だ。
少しくらい上手に書けたって、当たり前なのだ。
だって多少の経験という年の功がある。
「あの頃」放っていたジリジリとした太陽のような貪欲さは収まってしまったけれど、将来への不安が「いま」という陰を落とす。
生物的成長の頂点を越えて降下していくだけの肉体に、残された時間と気力を思ってただ足元を眺める。
そこは裸足だ。
冠はわかりやすく、面白い。
アラフォーや未婚だって立派な冠だ。
下駄は別に、着いてこないけど。
とりあえずいまはそれで生き抜いて、あと10年もしたら自分を「オバチャン」といえるだろうか。
最近の50代若いからな。
でもそれをいうと60代半ばを過ぎた母は、いまもまだまだ乙女だ。年齢より若く見えるのに、自分の顔をしわだらけだと顔をしかめる。老いを受け入れないのもまた希望だ。
いつか「オバチャン」や「おばあちゃん」になったら、またわたしの足元に下駄がやってくるかも知れない。
でも、それはまだ、もうちょっと、いやだいぶ先の話だし、もしかしたらもう下駄なんて来ないかも知れない。
あれが下駄だったんだともっと早くに気が付けば良かったなーと思いつつ、済んだことを考えたって意味がない。
それに、脱いでから分かる下駄や冠は他にもあるかも知れない。
東京暮らしとか、日本人とか、女性とか。
時間は誰にも平等だし、若かったり、時が経って若くなくなったりすることも平等で、その時何かしらの冠をかぶっているってこともきっと平等だけど、それを冠だと気が付くのはそれぞれかも知れない。
そしてその冠を有効活用できるのも。
せっかく「いま」しかないのだから、共感アイテムである冠の特徴をよく見て、活用出来るかも知れない。将来への不安に使う脳みそのメモリを冠を観察することに載せ替えた。
人はこれを、ポジティブシンキングという。
せっかくの裸足を放り投げて、足の裏を感覚を楽しむとしよう。
写真は「若く見えるのは服装か、言動か。ただ“年相応”のマークアップは自分でやりたい」と思っているわたし、もうすぐ39才だ。