蕪村の二人の師「巴人と潭北」
https://groups.google.com/g/haikai/c/mYONqBRfqMQ 【蕪村の二人の師「巴人と潭北」】より
(その一) 蕪村の『新花摘』上の潭北
蕪村の師の早野巴人(夜半亭宋阿)については、夙に知られているところである。それに比して、巴人亡き後、その巴人の代替わりをした、常盤潭北について
は、それほど知られていないというのが実情であろう。この潭北については、蕪村の『新花摘』に次のとおり記述されている。
http://yahantei.exblog.jp/ (その二)
・・・(前段)
いささか故ありて(注・寛保二年六月師の早野巴人の死後を指す)、余(注・蕪村)は
江戸をしりぞきて、しもつふさゆふきの(注・下総国結城の)雁宕(注・砂岡雁宕)が
もとをあるじとして、日夜はいかいに遊び、邂逅にして柳居(注・佐久間柳居)がつく
波(注・筑波)まうでに逢いてここかしこに席(注・俳席)をかさね、或は潭北と上野(注・群馬県)に同行して処々にやどりをともにし、松島のうらづたひ
して好風におもて
をはらひ、外の浜(注・青森県の東岸で、謡曲「善知鳥(うとう)」の伝説で名高い)
の旅寝に合浦(注・津軽地方の合浦)の玉のかへるさを忘れ、とざまかうざまとして、
既三とせあまりの星霜をふりぬ。
・・・(中断)
常盤潭北が所持したる高麗の茶碗は、義士大高源吾が秘蔵したるものにて、すなはち源
吾よりつたへて又余にゆづりたり。
・・・(後段)
そのゝちほどへて、結城の雁宕がもとにて潭北にかたりければ、潭北はらあしく(注・気短に)余を罵て曰、「やよ(注・やあ)、さばかりの奇物(注・珍
品)うちすて置たるむくつけ(注・無風流)法師よ、其物我レ得てん、人やある(注・誰かいないか)、ただゆけ」と須賀川(注・福島県須賀川市)の晋流
(注・須賀川の本陣・藤井半左衛門の俳号。其角門)がもとに告やりたり。
・・・
この後段の、「はらあしく(注・気短に)」、「むくつけ(注・無風流)法師よ」と、蕪村を罵ったということで、どちらかというと、蕪村にとっての潭北
は、師というよりも、師の巴人の親友の、小うるさい頑固爺さんというような印象すら受けるのである。
しかし、前段の、蕪村の「奥の細道」行脚などは、宝永三年(一七〇六)に祇空と奥羽行脚を決行した潭北の全面的な支援とそのネットワークによるものと
も解せられて、また、中段の「義士大高源吾」の秘蔵の「高麗の茶碗」を蕪村に譲るなど、二人の関係というのは、亡き巴人の代替わりのような師弟の関係に
あり、当時の潭北の名声などを考えると、巴人以上に、若き日の蕪村に大きな影響を与えた、蕪村にとっては忘れ得ざる恩人であったとの印象をも抱くのであ
る。