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百日紅ややちりがての小町寺

2020.10.07 09:25

https://note.com/ictm_3/n/nf677e5383e98  【「百日紅」について】 より

こんにちはICTmです。今回は、「百日紅」(さるすべり)について紹介いたします。百日紅は梅雨明けから九月末ごろまで咲く木の花です。

ここで、百日紅が使用されている有名な句を紹介いたします。

「百日紅ややちりがての小町寺」与謝蕪村が作った句です。

この句は、百日紅がすこしちりかけて夏も終わりそうな日の事を表現しています。

百日紅がちりかけている様子と場所だけが描かれていますが、私は、この句から寂しさと悲しさを感じ取りました。また、視点を近くから遠くへ誘導する所が素敵だと思いました。

ここで、私が百日紅を使って作った句を紹介いたします。

「デパートのチーク試すや百日紅」

デパートの薬局で試して気に入って買ったチークを思い出して

さるすべりの赤の色を連想したので、句にしました。

次は、他の夏の花の季語でも俳句を作っていきたいです。


https://wind.ap.teacup.com/6rats-winterflog/3309.html  【「百日紅く花」】

残暑がきびしいなかを坂を上っている。有栖川有栖の短編『幻坂(まぼろしざか)』の冒頭にある「天王寺七坂について」として、「大阪市は起伏の乏しい街だが、中央には上町台地が南北に伸び、その西側に多くの坂を持つ。本書の舞台となった七つの坂は、天王寺七坂あるいは大阪七坂と呼ばれ、すべて天王寺区にある。七坂の界隈は寺町を形成して、四天王寺をはじめ多くの神社仏閣が連なる(最も古い大阪)であり、古代から現代に至るまでこの都市の記憶を抱く。」と紹介されているそのなかの一つを喘ぎ喘ぎ、汗を拭き拭き上って行く。

江戸時代、大坂の俳人与謝蕪村は、「百日紅(さるすべり)ややちりがての小町寺」と詠んだ美女小野小町ゆかりの寺ではないのだが、見事な百日紅の紅の色が晩夏光に輝いている寺に出合った。汗が引くまでを、寺の木陰から蕪村が詠んだやや散りがての、の表現を考えてみた。恐らく小町晩年の容貌の衰えを暗喩した蕪村特有の文学センスなのだろう。そのなかに白い花の百日紅、否、百日白があるのも美しい取り合わせなのだろうが、紅と白の色の違和感を考えたときやや散りがての、との蕪村の人生感にも及んでいるとの実感が湧いて来た。

  『百日紅』と題する八木重吉の「うたを歌わう」という詩稿があるのを思い出す。

   さるすべりをみたらば たくさんに

   いい花がさきみだれてゐた 紅(あか)くて

   そっとわたしの肩をたたくようなきがした

 足腰を鍛えようと上って行く坂道は、年を経て、ますます厳しくなって来たのだが、百日紅が咲き乱れている抒情にこころが休まる思いにもなる。

   一生は短きものよと嘆きいて百日紅とは美しき花


https://sogyusha.seesaa.net/archives/20130911-1.html 【百日紅古希の女の色気かな   高井 百子】 より

『季のことば』

サルスベリは七月半ばから十月半ばまで百日も咲き続けるタフな花木なので「百日紅」と名付けられた。日本へは室町時代に中国から持ち込まれ、花の少ない盛夏の庭を彩ってくれることと、野放図に大きくならないことから庭園樹として好まれ、すっかり定着した。濃いピンクが普通だが、紫と白もある。

この句は大胆な詠みっぷりで実に面白い。颯爽たる七十歳のオバアチャン。小粋な洋服を着て、念入りに化粧して、髪もちょっとバイオレットに染めたりしている。お肌などサルもすべるほどのすべすべだ。これからデートにお出かけ、まさに真夏の青空をバックに咲き誇る百日紅そのものである。

控えめに慎ましくというのが日本女性の徳性とされて来たのだが、実は大昔からこういう愛らしいオバチャン、オバアチャンはかなりいたようである。加賀千代女なぞは「散れば咲き散れば咲きして百日紅」と、「負けてなるものか」という心意気を見せている。もっとも蕪村は、そういうひとをからかってか、「百日紅ややちりがての小町寺」と詠んだ。(水)


https://japanmystery.com/z_miyako/rakuhoku/komachi.html 【小町寺【こまちでら】】より

洛北の市原は小野一族の所領地であった。その地に【小町寺】という通り名の寺院がある。正式な名は【補陀洛寺(ふだらくじ)】。小野小町終焉の地として知られ、小町の晩年からその死後にまつわるさまざまな伝承の史蹟がある。

伝説によると、小町は京都や地方を転々としていたが、晩年は小野氏の所領である市原に居を定めて暮らしていたという。ある時、井戸の水に映った自分の姿を見て愕然とする。そこに映った姿は、もはや昔の美貌とは懸け離れた老婆の姿であった。その醜く老いさらばえた姿を嘆き悲しみ、小町はこの地で亡くなるのである。実際、この小町寺の境内には『姿見の井戸』という湧き水の跡がある。

さらにこの小町寺には“小野小町老衰像”というストレートな名前の像が安置されている。顔の表情から女性であると認識できるが、絶世の美女と言われた小町のイメージをその像から思い浮かべることはまず無理である。むしろその容姿から想像されるのは、三途の川の番人である“脱衣婆”である。

しかし、無常さという意味で【姿見の井戸】を越える逸話がこの寺には残されている。死んだのち、小町の遺骸は埋葬されず放置されていた。ある時、その辺りを僧が通りかかると「あなめ、あなめ(ああ、目が痛い)」という声が聞こえる。不審に思って声のする方へ行くと、一つの髑髏が転がっており、その目の穴からすすきが生えていた。その髑髏の主が小町だったのである。

小町寺の境内の一角に、髑髏が転がっていた場所が特定されている。しかもそこは今でもなお、すすきが生えてくる。【穴目のすすき】と呼ばれるその逸話は、死んでなお不遇であった小野小町を象徴するものである。

『通小町(かよいこまち)』という能の演目がある。鞍馬に滞在する僧のもとへ若い女性が毎日訪れる。名を聞くと「小野とは云わじ、すすき生いたる…」と答えて消える。思い当たる節があり、市原にある小野小町の墓所に赴き供養する。そこへくだんの女が現れて受戒を頼むが、男が現れ妨害しようとする。女は小野小町の亡霊、男は小町への百夜通いを果たせずに死んだ深草少将の亡霊であった。成仏しようとする小町と、愛憎の世界に留まろうとする少将。 僧は二人に受戒を勧め、少将に百夜通いの様子を再現させる。そして二人は悟りを開き、成仏する。

この世阿弥が作り上げた演目によって、市原は小野小町終焉の地として知られるようになる。

https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4048988&id=49201758 【としひとつ積もるや雪の小町寺】より

蕪村の歳暮の句に次のものがある。

   としひとつ積もるや雪の小町寺

この句にはいくつもの事が思われる名句である。年の暮れ、また年を重ねるのだなという実感、それが小町が年をとっていく様子と重なり、蕪村自身が年とともに小さくなっていくこと、また降る雪が小町の容貌を雪のように白くて美しく見せ、しんしんとした静かな雰囲気が過去を振り返らせてくれること。

眺めているだけで一寸雪が積もっていく、そこに流れる時間。雪の縦に落ちる動きと、次元を異にするが時間の流れがあり、その中に雪の小野小町がまる。小町の老いと年末の年をとることを小町の口紅の赤さえ見えるようである。しかし、そこには何もなかった。そこは小町ゆかりの寺(洛北市原野)であり、小町と見えたものは自分の妄想であった。ただ、雪はしんしんと降っていることはかわらない。

面白い比較であるが、古今和歌集に次の和歌がある。

年の果てによめる

   あらたまの年の終りになるごとに

     雪も我が身も古りまさりつつ  (冬歌 339 在原元方)

「毎年毎年、年末になるごとに、雪もますます降りまさるが、私自身もますます年老いてゆくことであるよ」(久曾神昇)

 雪が「ふる」ことと自分古くなることを掛け、「新」しい年と「古」りまさるの新古が対比される。当時は、平均寿命は40にもならなかっただろう。年をかさねていく内に、寿命の果てに加速度的に近づくという実感が顕著に心身ともにみられたのではないだろうか。「まさりつつ」とはそうしたことを言っているのではないかと思う。

「とし一つ」という蕪村の表現は時間が等速度で流れていくような感じで、蕪村は句作の頃はまだ壮年ではなかったか。雪の降り方も、蕪村は一定の積雪量、しかし元方の見た雪は時間とともに、どんどん増大するようにみえたのではないか。