正岡子規の句
https://www.nakamura-tome.co.jp/2019/08/19/%E4%B8%96%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%82%84%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E8%8A%B1%E5%92%B2%E3%81%8F%E7%99%BE%E6%97%A5%E7%B4%85%EF%BC%88%E3%81%95%E3%82%8B%E3%81%99%E3%81%B9%E3%82%8A%EF%BC%89/ 【”世の中やひとり花咲く百日紅(さるすべり)”】 ヨリ
”世の中やひとり花咲く百日紅” 正岡子規の俳句です
正岡子規は、この百日紅の木を好んだらしく多くの俳句を残しています。
炎天下の中に、ひとり孤軍奮闘咲いている 百日紅を自分の立場を省みて親近感を感じたのかもしれません。
地元石川県では、高校野球にて星稜高校が初の優勝かと連日盛り上がりを見せています。
炎天下のなか、泥だらけで汗をかきながら一球入魂する高校球児の姿に多くの感動をもらっています。
http://202.212.148.174/200908/shiki_kigo/su_shokubutsu_sarusuberi.html 【子規俳句 季語・季題検索 夏 植物 百日紅 さるすべり】 より
百日紅 さるすべり ひゃくじつこう 紫薇 しび 怕痒樹 はくようじゅ くすぐりの木 くすぐりのき 百日白 ひゃくじつはく しろばなさるすべり 白さるすべり しろさるすべり
図説俳句大歳時記 夏 498ページ 角川書店
カラー版 新日本大歳時記 夏 234ページ 愛蔵版 490ページ 講談社
季語別 子規俳句集 夏 257ページ 子規記念博物館
明治25年 此頃は薄墨になりぬ百日白 青天に咲きひろげゝり百日紅
明治26年 てらてらと小鳥も鳴かず百日紅 無住寺と人はいふなり百日紅
夏に籠る傾城もあり百日紅
明治28年 きらきらと照るや野寺の百日紅 通夜堂や緑の中の百日紅付
明治29年 世の中やひとり花咲く百日紅 雨乞のしるしも見えず百日紅に
半里さきに見ゆや庄屋の百日紅 寺焼けて土塀の隅の百日紅
小祭の獅子舞はせけり百日紅 野の中の小寺や百日紅咲けり
まぎれなき百日紅や森の中 赤〃と百日紅の旱かな
百日紅咲くや真昼の閻魔堂 百日紅咲くや小村の駄菓子店
酒好の昼から飲むや百日紅
http://blog.sankouan.sub.jp/?eid=1056321 【炎天に百日紅のひとり揺る】より
梅雨明けが次々に報じられ、猛暑日となる。サルスベリが咲き始めている。とにかく暑い。
暑さの中に咲く百日紅を詠んだ句をあげる。
天辺に百日紅の第一花 山本幸代 高空を風の音過ぐ百日紅 冨田みのる
世の中やひとり花咲く百日紅 正岡子規 てらてらと小鳥も鳴かず百日紅 正岡子規
てらてらと百日紅の旱かな 正岡子規 青天に咲きひろげゝり百日紅 正岡子規
又しても百日紅の暑さ哉 正岡子規 百日紅ごくごく水を呑むばかり 石田波郷
石塀のさはれぬ熱さ百日紅 片山由美子 咲き満ちて天の簪百日紅 阿部みどり女
百日紅空の青さの衰へず 西村和子 百日紅佛蘭西風と見れば見ゆ 京極杞陽
百日紅こぼれつぐ日に逢ひにけり 沼尻巳津子 という恋の句を詠んだ沼尻巳津子に
けふ我は揚羽なりしを誰も知らず 巳津子といういい句がある。
このアゲハチョウ(揚羽蝶・鳳蝶)を呼んだ句に
後の月に逢ふも揚羽のゆかりなる 巳津子 碧揚羽見えて去らざる遠き恋 巳津子
がある。夏の句には、
夏の月我が混沌をあるがまま 巳津子 生涯のここまでは来し髪洗ふ 巳津子
http://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960930,19961013,19961231,19980318,19980521,19980907,19981204,19990722,20000527,20000920,20001130,20010619,20010813,20010827,20020704,20020730,20020826,20020925,20021029,20030306,20031106,20040601,20040813,20041126,20041229,20050116,20050424,20051012,20060121,20060909,20070307,20070406,20071005,20080101,20080118,20080312,20080409,20080530,20090614,20091023,20091230,20100221,20100317,20110316,20120520,20120725,20130721,20140920,20151204&tit=%90%B3%89%AA%8Eq%8BK&tit2=%90%B3%89%AA%8Eq%8BK%82%CC 【正岡子規の句】 より
鶏頭の十四五本もありぬべし
正岡子規
中学の教室で習った。明治三十三年の作。教師は「名句」だといったが、私にはどこがよい句なのか、さっぱりわからなかった。しかし、年令を重ねるにつれて、だんだん親しみがわいてきた。この季節になると、ふと思いだす句のひとつである。作家にして歌人の長塚節がこの句を称揚し、子規の弟子である虚子が生涯この作品を黙殺しつづけたのは有名な話だ。この件について山本健吉は、意識下で師をライバル視せざるをえなかった「表面は静謐の極みのような」虚子の「内面に渦巻く激しい修羅の苦患であった」と書いている。その虚子の鶏頭の句。「鶏頭のうしろまでよく掃かれたり」。なんとなく両者の鶏頭への思いが似ていると感じるのは、私だけでしょうか。(清水哲男)
夏草やベースボールの人遠し
正岡子規
暑苦しい「夏草」の季節はとっくに終ったが、「ベースボール」の方は日に日にアツくなるばかりで、巨人かオリックスかとかまびすしい限りだ。子規は俳人歌人の中では最初の野球狂ともいうべき人物で、明治二十年には「ベースボール程愉快にてみちたる戦争は他になかるべし」(「筆まかせ」)などと書いている。子規が「ベースボール」を「野球」と翻訳したというのは誤伝だが、野球に熱心で各ポジションの名称を翻訳したのは事実だ。子規の訳語中、打者(バッター)や四球(フォアボール)は今も生きているが、攫者(かくしゃ・キャッチャー)や本基(ほんき・ホームペース)はアウトということになる。(大串章)
行く年やわれにもひとり女弟子
富田木歩
昔は、大晦日に師の家に挨拶に行く風習があった。正岡子規の「漱石が来て虚子が来て大三十日」の句は、つとに有名だ。まことにもって豪華メンバーである。そこへいくと木歩の客は地味な女人だ。が、生涯歩くことができなかった彼の境遇を思うと、人間味の濃さの表出では、とうてい子規句の及ぶところではない。たったひとりの女弟子のこの律儀に、読者としても、思わずも「ありがとう」と言いたくなるではないか。(清水哲男)
毎年よ彼岸の入に寒いのは
正岡子規
この句ができた明治二十六年(1893)の子規は二十五歳で、抹消句を含めると、なんと四千八百十二句も詠んでいる。日本新聞社に入社したころで、創作欲極めて旺盛だった。ところで、この句の前書には「母上の詞自ら句になりて」とある。つまり、母親との日常的な会話をそのまま五七五にしたというわけだ。当時の子規は芭蕉の神格化に強く異議をとなえていたこともあり、あえてこのような「床の間には飾れない」句を提出してみせたのだろう。母の名は八重。子規の妹律によれば、彼女は「何事にも驚かない、泰然自若とした人」だったという。子規臨終のときの八重について、碧桐洞はこう語っている。粟津則雄『正岡子規』(講談社文芸文庫)より、孫引きしておく。「静かに枕元へにじりよられたをばさんは、さも思ひきつてといふやうな表情で、左り向きにぐつたり傾いてゐる肩を起しにかゝつて『サァ、もう一遍痛いというてお見』可なり強い調子で言はれた。何だかギョッと水を浴びたやうな気がした。をばさんの眼からは、ポタポタ雫が落ちてゐた」(『子規の回想』)。(清水哲男)
青あらし神童のその後は知らず
大串 章
青あらし(青嵐)は、青葉の頃に吹き渡るやや強い南風のことで、夏嵐とも言う。子規の「夏嵐机上の白紙飛び尽す」が有名だ。中学時代に、教室で習った。嵐とはいっても、翳りのない明るい風である。そんな風のなかで、作者はかつて神童と呼ばれていた人のことを思い出している。ときに「どうしているかな」と気がかりな人ではあるが、地域を出ていった後の消息は絶えている。風に揺れる青葉のように、まぶしいほどの才能を持っていた人だ。が、かといって、今の作者はその人の消息を切実に知りたいと願っているわけでもないだろう。青葉のきらめきに少し酔ったように、かつての才子を懐しんでいるのである。「神童」とは、昔の地域共同体が生んだいわば神話的人物像である。だから、今は伝説のなかに生きていればそれでよいのだと、作者は思っている。「神童も二十歳過ぎればただの人」という意地悪な川柳(?)もあるけれど、この句の人は消息不明だけに、その意地悪からは免れている。それでよいと、やはり読者も作者にここで同感するのである。『山童記』(1984)所収。(清水哲男)
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
正岡子規
世にこれほど有名で、これほどわけのわからない句も珍しい。何度も考えてみたのだが、結局は不可解のままに放置してきた。他の人のいろいろな解釈を読んでも、一つもピンとくるものはなかった。ところが、最近俳誌「未来図」(1998年9月号)を開くに及んで、やっと腑に落ちる解説に会うことができた。目から鱗が落ちた思いである。柿の季節にはいくらか早すぎるが、とても嬉しいので早速引用紹介しておきたい。作家・半藤一利氏の講演記録からの抜粋である。明治十八年十月、子規は漱石から十円を借りて松山より東京に戻る途中、関西に遊んだ。「私は簡単に解釈します。松山の子規記念館に、子規の遺しました『人物見立帳』という直筆の本があります。河東碧梧桐は『大根』、誰某は『玉蜀黍』とか書いてあり、漱石の所を見ると『柿』とあります。つまり子規さんの見立で言うと漱石は柿なんです。ですから、『柿くへば』というのは漱石を思い出しているんですね。お前さんから貰った十円の金をここでみな使っちまったという挨拶の句なんです」。道理で句のわからないわけがわかったと、私は膝を打ったのだけれど、この句を有名にしている理由はまた別にあるということも、はっきりとわかった。蛇足ながら、子規はこの当時としては大金の十円を、ついに返さなかったという。漱石の胃も痛むわけだ。(清水哲男)
日のあたる石にさはればつめたさよ
正岡子規
冬の季語「冷たし」は寒さを表す言葉の一つであるが、同じく季語である「寒し」に比べると、皮膚感覚に重点がかけられている。より即物的な感覚を表す。この句は、そういうことを言っている。教科書に載っているかどうかは知らないが、小学生などにそういうことを教えるためには格好の教材だろう。日があたっているというのだから、少しは寒気もゆるんでいる。しかし、何げなく触れてみた石は、ハッとするほどに冷たいのだった。誰もがよく体験することだけれど、そこを逃さずにスケッチしたところは、やはり子規ならではと言うべきか。漢字と平仮名の配合もよい。「つめたさよ」のほうが、漢字にするよりも本当に触った実感が滲み出てくる。そしてこのとき、なんでもない路傍の石がにわかに存在感を増すのである。ずしりと重くなるのだ。この「冷たし」が心理的に拡大されると、たとえば「あの人は冷たい」などという用法に発展する。すなわち「あの人」の存在感が、にわかに不人情の一面からクローズアップされるわけだ。こんなことなら「日のあたる」暖かそうな「あの人」に、触らなければよかったのに……。(清水哲男)
草茂みベースボールの道白し
正岡子規
正岡子規の野球好きは、つとに有名だ。写真館で撮影したユニフォーム姿が残っているくらいだから、熱の入れようは尋常ではなかったらしい。明治19年(1886)の大学予備門(後の第一高等中学校)の寄宿舎報に「赤組は正岡常規氏と岩岡保作氏と交互にピッチとキャッチになられ」とあるのが、子規の野球熱を伝える最初の記事である。もっとも、百年以上も前の時代には「野球」という言葉はなかった。子規の文章を読むと「弄球」などと出てきて、はてなと思わされたりする。十代の終わり頃から二十代のはじめにかけて熱中した「弄球」も、突然の喀血によって終わりを告げる。句は、病床にあった子規が、幻のように野球熱中時代を回想したものだ。「草茂み」で、季節は夏。「道白し」は私が幻と言う所以で、白い球やユニフォームや、あるいは石灰で引いた(かもしれぬ)白いラインのことなどを、このように表現したのだろうと読める。病臥苦闘のなかにしてペースボールを思う気持ちは、そのまま子規の絶望の深さにつながっている。炎暑の床で白い幻を見た人の生涯は、まことに短かった。『寒山落木』所収。(清水哲男)
たぶんもう来ないとおもふ馬刀がゐる
西野文代
馬刀(まて)は「馬蛤貝(まてがい)」あるいは「馬刀貝」で春の季語。もう、旬は過ぎているだろう。アンチョコによれば「マテガイ科の横長筒状の二枚貝。殻長は十二センチほど。美味」とある。干潟の生息穴に塩を入れると、反射的に飛び出してくるというから、面白い動きをする貝である。正岡子規に「面白や馬刀の居る穴居らぬ穴」がある。あまり海には出かけないので、見たことがあるようなないような……。アレがそうだったのだろうかとも思うが、自信なし。句を採り上げたのは、「たぶんもう来ないとおもふ」という発想に魅かれたからだ。旅に出て、自然にこう思うようになるには、それなりの年齢が必要だ。若い頃には、皆無に近い思いだろう。それがいつしか、どこに出かけてもこんな気持ちになる。その気持ちを、元気で剽軽な動きの馬刀に結びつけたところが句の魅力だ。「何をそんなに感傷的になってるの」。このときの馬刀は、そんな顔(?!)をしている。今日の私は、一年に一度の旅行に出かける。職業柄ウィークデーの休暇はとりにくく、たった一泊しかできないけれど、楽しみだ。きっと、先々で「たぶんもう来ないとおもふ」のだろう。「俳句界」(2000年6月号)所載。(清水哲男)
秋晴や薮のきれ目の渡船場
鈴鹿野風呂
野風呂(のぶろ)とはまた古風な俳号だが、1971年に亡くなっているから現代作家だ。京都の人。薮の小道を通っていくと、真っ青な空の下にある小さな渡船場が眼前に開けた。そこに、客待ちの舟が一艘浮かんでいる。「やれ嬉しや」の安堵の目に、何もかもがくっきりとした輪郭を持つ風景が鮮やかだ。読者もまた、作者とともにこの風景を楽しむのである。川を横切る交通手段に舟を用いたのは、掲句からもうかがえるように、古い時代ばかりじゃない。たとえば、東京の青梅線は福生駅から草花丘陵に行くには、多摩川にかかる永田橋という橋を渡るが、土地の人はいまでも「渡船場」と言う。私が草花に移住した1952年(昭和27年)には、既に木造の永田橋はかかっていたけれど、やっつけ仕事で作ったような橋の姿からして、戦後もしばらくは舟で渡っていたようだった。草花では「とせんば」と言うが、掲句では「とせんじょう」だろう。虚子門の俳人が、極端な字足らず句を詠むはずもないので……。ところで「秋晴」や「冬晴」はあっても、「春晴」や「夏晴」はない。澄み切った大気のなかの上天気が「晴」なのである。「日本晴」は秋だけだろう。この句をみつけた『大歳時記・第二巻』(1989・集英社)の解説(辻恵美子)によれば、江戸期に「秋晴」の句はないそうだ。かわるものとして「秋の空」「秋日和」があり、「秋晴」の季題は子規にはじまるという。「秋晴るゝ松の梢や鷺白し」(正岡子規)。覚えておくと、たとえ作者の俳号が古風でも、「秋晴」とあれば近現代の句だとわかる。(清水哲男)
薪をわるいもうと一人冬籠
正岡子規
病いに倒れた子規を看病したのは、母親と妹の律(りつ)である。元来が男の仕事である薪割りも、病臥している子規にはできない。寒い戸外で、「いもうと一人」が割っている「音」が切ない感じで聞こえてくる。病床は暖かく「冬籠(ふゆごもり)」そのものだ。申し訳ないという思いと同時に、けなげな「いもうと」への情愛の念が滲み出た一句だ。平仮名の「いもうと」が、句にやわらかい効果を与えていて素晴らしい。ところで、この句だけを読むと、子規は「いもうと」に対して常にやさしい態度で接していたと思えるが、実はそうでもなかった。『病臥漫録』に、次の件りがある。「律は強情なり 人間に向って冷淡なり 特に男に向って shy なり 彼は到底配偶者として世に立つ能(あた)はざるなり しかもその事が原因となりて彼は終(つい)に兄の看病人となりをはれり (中略) 彼が再び嫁して再び戻りその配偶者として世に立つこと能はざるを証明せしは暗に兄の看病人となるべき運命を持ちしためにやあらん」。このとき、子規は三十五歳、律は三十二歳だった。いかな寝返りも打てぬ病人とはいえ、あまりにも手前勝手な暴言だと憤激するムキもあるだろう。しかしこの文章を読み、また掲句に戻ると、子規の「いもうと」という肉親に対する思いは、どちらも本当だったのだという気がする。すなわち肉親に対する情愛、愛憎の念は、誰にでもこのように揺れてあるのではないだろうか、と。(清水哲男)
鮓店にほの聞く人の行方かな
正岡子規
なじみの「鮓(すし)店」。客もたいていがおなじみの面々だ。といってもお互いに深いつきあいはなく、顔を合わせれば「やあ」と言ったり目礼したりする程度。名前も職業も知らない人もいる。そんな常連の一人が、最近ぱたりと顔を見せなくなった。何となく気になるので、「どうしたのかなあ」と主人に尋ねてみる。「私もよくは知りませんが……」と話してくれた主人の言で、ぼんやりとではあるが「行方」などが知れた。尋ねるほうも話すほうも、何がなんでも事情や所在を知ろうというわけではないので、会話は「ふうん」くらいで終わってしまう。それが「ほの聞く」。常連の多い店の会話は、だいたいこんなものだ。詮索好きの客や主人がいるとしたら、人は寄ってこない。付かず離れずの関係でいられるからこそ、居心地がよいのである。客は、いわば雰囲気も同時に食べている。そんな「鮓店」のよい雰囲気を、さらりと伝えた佳句だ。いまどきの回転鮨屋では、こうはいかない。ハンバーガー・ショップなどでもそうだが、腹ごしらえさえできればよいという店が跋扈している。逆に雰囲気を求めようとすれば高くつくし、この二十年ほどは、行きつけの店のないままに暮らしてきた。高浜虚子選『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)
生身魂七十と申し達者なり
正岡子規
明治期の七十歳は、人生五十年くらいが普通だったので、相当な高齢だ。いまで言えば、九十歳くらいのイメージだったのではなかろうか。しかも達者だというのだから、めでたいことである。まこと「生身魂(いきみたま)」と崇めるにふさわしい。盆は故人の霊を供養するだけでなく、生きている年長者に礼をつくす日でもあった。いわば「敬老の日」の昔版だ。孫引きだが、物の本に「この世に父母もたる人は、生身玉(いきみたま)とて祝ひはべり。また、さなくても、蓮の飯・刺鯖など相贈るわざ、よのつねのことなり」(『増山の弁』寛文三年)とある。このようにして祝う対象になる長寿の人、ないしは祝いの行事そのものを指して「生身魂」と言った。しかし、いつの間にか、この風習が「よのつねのこと」でなくなったのは何故だろう。それとも、寺門の内側ではなお生きている行事なのだろうか。新井盛治に「病む母に盆殺生の鮎突けり」がある。殺生をしてはならない盆ではあるが、「病む母」のためにあえて禁を犯している。作者にしてみれば、生きている者こそ大事なのだ。何も後ろめたく思う必要はない。この姿勢は「生身魂」の考えに通じているのだから。(清水哲男)
小刀や鉛筆を削り梨を剥く
正岡子規
私くらいの世代ならば、すぐに肥後守(ひごのかみ)を思い出すはずである。刃渡り十センチ少々の「小刀(こがたな)」だ。折込式の柄は鉄製か真鍮製で「肥後守」と銘を切ってあり、鉛筆を削るための学用品だった。鉛筆削り器なんて洒落れた物はなかったから、誰もが携行していた。子規の時代にもあったのかと調べてみたが、わからない。そんな鉛筆を削るための道具で梨を剥いたというだけの句だが、妙にこの「小刀」が生々しく感じられる。洗濯機で薯を洗うのと同じことで、機能的には何の問題もないのだけれど、衛生観念上でひっかかるからである。奥さんに林檎を剥かせるときに、剥いた部分には絶対に手を触れさせなかったという泉鏡花が現場を見たとしたら、真っ青になって失神しかねないほどの不衛生さだ。でも、子規は「こんなこと平気だい」とバンカラを気取っているのではなく、いつしか不衛生に感応しなくなっている自分に、あらためて感じ入っているのだと思う。局面を違えれば、誰にでも似たようなことはあるのではなかろうか。習い性となっているので、自分では何とも思わない振るまいが、他人の目には奇異に写るということが……。子規は、そんな自分のありようの一つを発見してしまったということだ。子規二十九歳。腰痛がひどくなった年だが、まだ外出はできた。(清水哲男)
上野から見下す町のあつさ哉
正岡子規
あまり暑くならないうちに、書いておこう。高浜虚子編『子規句集』明治二十六年(1893年)の項を見ると、「熱」に分類された句がずらり四十一句も並んでいる。病気などによる「熱」ではなく「暑さ」の意だ。体感的な暑さを読んだ句(「裸身の壁にひつゝくあつさ哉」)から精神的なもの(「昼時に酒しひらるゝあつさ哉」)まで、これだけ「熱」句をオンパレードされると、げんなりしてしまう。とても、真夏には読む気になれないだろう。「上野」はもちろん、西郷像の建つ東京の上野台だ。句が詠まれたときには、既に公園は完成しており動物園もあった。いささかの涼味を求めてか、上野のお山に登ってはみたものの、見下ろすと繁華な町からもわあっと熱風が吹き上がってくるではないか。こりゃあ、たまらん。憮然たる子規の顔が浮かんでくる。現代の上野にも、十分に通用する句である(今のほうが、もっと暑いだろうけれど)。他にも「熱さ哉八百八町家ばかり」とあって、とにかく家の密集しているところは、物理的にも精神的にも暑苦しい。ましてや、子規は病弱であった。「八百八町」の夏の暑さは、耐え難かったにちがいない。句集の「熱」句パレードは、「病中」と前書された次の句によって止められている。「猶熱し骨と皮とになりてさへ」。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)
撫し子やものなつかしき昔ぶり
正岡子規
季語は「撫子(なでしこ)」で秋。秋の七草の一つだが、七月には開花するので、現実的には夏の花でもある。前書に「陸奥の旅に古風の袴はきたる少女を見て」とあって、作句は明治二十六年(1893年)だ。女性用の袴には大別して二種類あり、キュロット状のものとスカート状のものとに分けられる。明治中期の東京の女学生の間では、いまの女子大生が卒業式などに着用するスカート状の袴が一般的になっており、それまでのキュロット・スタイルはすたれていた。スカート型(形状から「行灯袴」と言ったようだ)のほうが、裾さばきを気にしないですむので、断然活動的だったからだろう。ところが旅先の陸奥で見かけた少女は、まだ襠(まち)のある古風な袴をはいていた。そこで「ものなつかしき昔ぶり」と詠んだわけだが、近辺に咲いていた撫子と重ね合わせることで、古風で可憐な少女の姿を彷彿とさせている。このときに、作者にとっての少女は、すなわちほとんど撫子そのものなのであったろう。ハイカラな東京の女学生には見られない、凛とした気品も感じられる。句から吹いてくる、涼しい野の風が心地よい。高浜虚子選『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)
鄙の宿夕貌汁を食はされし
正岡子規
原文の「夕貌」の「貌」は、「白」の下に「ハ」を書く異体字が使われている。「夕貌(夕顔)」の花は夏の季語だが、この場合は実なので、秋季としてよいだろう。『仰臥漫録』に、八月二十六日の作とある(当歳時記では、便宜上夏の部に登録)。さして佳句とも思えないが、食いしん坊の子規が「食はされし」と辟易している様子が愉快だ。いかな「鄙(ひな)の宿」といえども、あんなに不味いものを出すことはないのにと、恨んでいる。子規にも、食べたくないものはあったのだ(笑)。私の子供の頃に、味噌汁の具として食べた記憶があるけれど、まったく味も素っ気もなかった。やはり、干瓢にしてからのほうが、よほど美味しい。さて、子規の猛然たる食いっぷりを、掲句を書きつけた日の記録から引用しておこう。この食生活に照らせば、句の恨みのほどがよくわかる。「朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干し(砂糖つけ)。昼 粥四椀、鰹のさしみ一人前、南瓜一皿、佃煮。夕 奈良茶飯四椀、なまり節(煮て、少し生にても)、茄子一皿」。これだけではない。この後に「この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす」とあり、「二時過牛乳一合ココア交ぜて、煎餅菓子パンなど十個ばかり」とある。そして、まだ足りずに「昼食後梨二つ、夕食後梨一つ」というのだから、食の細い私などは卒倒しそうになる。さすがに「健胃剤」を飲んでいたようだが、とどめの文章。「今日夕方大食のためにや例の下腹痛くてたまらず、暫くにして屁出で筋ゆるむ」です、と。(清水哲男)
榎の実散る此頃うとし隣の子
正岡子規
季語は「榎の実(えのみ)」で秋。『和漢三才図会』に「大きさ、豆のごとし。生なるは青く、熟するは褐色、味甘にして、小児これを食ふ。早晩の二種あり。……」とある。榎(えのき)は高さ二十メートルにも達する大木だから、熟して落ちてくるまでは食べられない。落ちてくると、いつも拾いに来る「隣の子」が、このごろはさっぱりご無沙汰だ。どうしたのだろうか。母と妹との三人暮らし。来客のない日には、よほど寂しかったと思われる。子供でもいいから来てくれないものかと、願っている感じがよく出ている。子供は移り気だ。昨日まで何かに夢中でも、今日新しいことに興味がわくと、昨日までの関心事はすっぱりと放り投げてしまう。そのことは子規ももちろん承知しているから、もう来ないだろうと半分以上はあきらめているのだ。だから、いっそう寂寥感が増す。ところで、実は子規庵には榎の木はなく、食べられる実のなる似たような木としては椎の木があった。事実「椎の実を拾ひにくるや隣の子」と詠んでいる。では、なぜわざわざ「榎の実」としたのだろうか。最近出た中村草田男『子規、虚子、松山』(2002・みすず書房)によれば、「此句では、其椎の木を、松山地方には沢山ある榎の木にちょっと入れかえてみたのでしょう」とある。すなわち、望郷の念も込められている句なのであった。病者の寂しさは、どんどんふくらんでいく。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)
月明の毘沙門坂を猪いそぐ
森 慎一
地
句碑
名的には正式な呼称ではないようだが、「毘沙門坂(びしゃもんざか)」は愛媛県松山市にある。松山城の鬼門にあたる東北の方角に、鎮めのために毘沙門天を祀ったことから、この名がついた。さて、掲句はおそらく子規の「牛行くや毘沙門坂の秋の暮」を受けたものだろう。写真(愛媛大学図書館のHPより借用)のように、現地には句碑が建っている。百年前の秋の日暮れ時に牛が行ったのであれば、月夜の晩には何が行ったのだろうか。そう空想して、作者は「猪(い・いのしし)」を歩かせてみた。子規の牛は暢気にゆっくり歩いているが、この句の猪はやけに早足だ。「い・いそぐ」の「い」の畳み掛けが、猪突猛進ほどではないが、そのスピードをおのずと物語っている。何を急いでいるのかは知らねども、誰もいない深夜の「月明」の坂をひた急ぐ猪の姿は、なるほど絵になる。さらに伊予松山には、狸伝説がこれでもかと言うくらいに多いことを知る人ならば、この猪サマのお通りを、狸たちが息を殺して暗い所からうかがっている様子も浮かんでくるだろう。月夜の晩は狸の専有時間みたいなものだけれど、猪がやって来たとなれば、一時撤退も止むを得ないところだ。いたずら好きの狸も、猪は生真面目すぎるので、苦手なのである。そんなことをいろいろと想像させられて、楽しい句だ。こういう空想句も、いいなあ。『風丁記』(2002)所収。(清水哲男)
長閑さや鼠のなめる角田川
小林一茶
季
隅田川
語は「長閑(のどか)」で春。「角田川」は隅田川のことで、「すみだがわ」の命名は「澄んだ川」の意からという。川端を散策していると、ちっぽけな鼠が一心に水を飲む姿が、ふと目にとまった。いかにも一茶らしい着眼で、「ほお」と立ち止まり、しばらく見守っていたのだろう。警戒心を解いて水を飲む鼠の様子は、それだけでも心をなごませるものがある。ましてや、眼前は春風駘蕩の大川だ。小さな営みに夢中の鼠の視座から、視界を一挙に大きく広げて、ゆったりと陽炎をあげて流れる水面を見やれば、長閑の気分も大いにわきあがってこようというものである。小さなものから大きなものへの展開。無技巧に見えて、技巧的な句と読める。角田川と言えば、正岡子規に「白魚や椀の中にも角田川」があり、こちらは大きなものを小さなものへと入れてみせていて、もとより技巧的。比べると、企みの度合いは子規のほうがはるかに高く、この抒情はやはり近代人ならではのものだと思われた。同じ「角田川」でも、一茶と子規の時代では景観もずいぶんと違っていたろうから、そのことが両者の視座の差となってあらわれているとも考えられる。図版は、国立歴史民俗博物館所蔵の江戸屏風絵の部分。うわあ、当時の川は、こんなふうだったんだ。とイメージして一茶の句に戻ると、私の拙い読みなどはどこかに吹っ飛んでしまい、まこと大川端の長閑さが身体のなかに沁み入ってくるようだ。「一枚の絵は一万語に勝る」(だったと思う)とは、黄金期「少年マガジン」のキャッチフレーズであった。(清水哲男)
柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな
正岡子規
松山に行くので、子規が読みたくなって読んでいる。松山どころか、四国に渡るのは生まれてはじめて。仕事があるとはいえ、楽しみだ。例によって飛行機ではなく、地べたを這ってゆくので、三鷹からおよそ七時間ほどかかる。先の萩行きの深夜バスに比べれば、ラクなものである。揚句は、しかし松山ならぬ奈良での即吟だ。明治半ばころの奈良の横町はこんなだったよと、セピア色に変色した写真を見せられているようだ。名句なんて言えないけれど、いまの私にはこんな何でもないような句のほうが心地よい。張り切った句には疲れるし、技巧に優れた句にもすぐに飽きてしまう。非凡なる凡人ではないが、凡なる凡句にこそ非凡を感じて癒される。まったく、俳句ってやつは厄介だ。我が故郷の「むつみ村」がいまだにそうであるように、昔の奈良の横町あたりでも、柿などはなるにまかせ、落ちるにまかせていたのだろう。熟したヤツがぼたっと落ちると、びっくりした犬が一声か二声吠えるくらいだ。いまどきの犬は、柿が落ちたくらいでは吠えなくなったような気がする。実に、犬は犬らしくなくなった。あるいはそんな直接的な因果関係き何ももなくて、柿は柿として勝手に落ち、犬は犬として勝手に吠えているのかもしれない。どっちだっていいのだが、往時ののんびりした古都・奈良の雰囲気が、かくやとばかりによく伝わってくる。柿が大好きだった子規には、「もったいない」と少々こたえる場面ではあったろうが、その後でちゃんと「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」と詠んでいるから、心配はいらない。子規の柿の句のなかに「温泉の町を取り巻く柿の小山哉」もある。「温泉(ゆ)の町」は道後だ。ちょっくら小山の柿の様子も見てきますね。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)
六月を奇麗な風の吹くことよ
正岡子規
前書に「須磨」とある。したがって、句は明治二十八年七月下旬に、子規が須磨保養院で静養していたときのものだろう。つまり、新暦の「六月」ではない。旧暦から新暦に改暦されたのは、明治六年のことだ。詠まれた時点では二十年少々を経ているわけだが、人々にはまだ旧暦の感覚が根強く残っていたと思われる。戦後間もなくですら、私の田舎では旧暦の行事がいろいろと残っていたほどである。国が暦を換えたからといって、そう簡単に人々にしみついた感覚は変わるわけがない。「六月」と聞けば、大人たちには自然に「水無月」のことと受け取れたに違いない。ましてや、子規は慶応の生まれだ。須磨は海辺の土地だから、水無月ともなればさぞや暑かったろう。しかし、朝方だろうか。そんな土地にも、涼しい風の吹くときもある。それを「奇麗(きれい)な風」と言い止めたところに、斬新な響きがある。いかにも心地よげで、子規の体調の良さも感じられる。「綺麗」とは大ざっぱな言葉ではあるけれど、細やかな形容の言葉を使うよりも、吹く風の様子を大きく捉えることになって、かえってそれこそ心地が良い。蛇足ながら、この「綺麗」は江戸弁ないしは東京弁ではないかと、私は思ってきた。いまの若い人は別だが、関西辺りではあまり使われていなかったような気がする。関西では、口語として「美しい」を使うほうが普通ではなかったろうか。だとすれば、掲句の「綺麗」は都会的な感覚を生かした用法であり、同時代人にはちょっと格好のいい措辞と写っていたのかもしれない。高浜虚子選『子規句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)
耳しいとなられ佳き顔生身魂
鈴木寿美子
季語は「生身魂(いきみたま)」で秋。平井照敏の季語解説から引いておく。「盆は故人の霊を供養するだけでなく、生きている年長の者に礼をつくす日でもあった。新盆のないお盆を生盆(いきぼん)、しょうぼんと言ってめでたいものとする。そして、目上の父母や主人、親方などに物を献じたり、ごちそうをしたりし、その人々、およびその儀式を生身魂と言った。食べさせるものは刺鯖が多く、蓮の葉にもち米を包んだものを添えたりする」。つまり現在の「敬老の日」みたいなものだが、敬老の日よりも必然性があると言えるだろう。彼岸に近い存在である高齢者を直視し、故に敬老の日のような社会的偽善性は避けられ、長寿への賛嘆と敬意の念が素直に表現されているからだ。この句もそうした素直な心の発露であり、それをまた微笑して受け入れる土壌が作者の周辺にはあるということである。子規の句にもある。「生身魂七十にして達者也」。いまでこそ七十歳くらいで達者な方はたくさんおられるけれど、子規の時代には相当なお年寄りと受け取られていたにちがいない。私が子どものころだって、七十歳と言えば高齢中の高齢だった。一つの集落に、お一人おられたかどうか。小学生のときに「おれたちは21世紀まで生きられるかなあ」「六十過ぎまでか、まあ無理じゃろねえ」と友だちと言い交わしたことを思い出す。もちろん、村の高齢者の年齢から推しての会話であった。今日は、旧盆の迎え火。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)
世の中も淋しくなりぬ三の酉
正岡子規
今日は「三の酉」。十一月酉の日の鷲神社の祭礼だ。東京台東区千束の鷲神社の市が有名だが、他の社寺でも境内に鷲神社を勧請し、この祭を行う所が多い。参道には、熊手や縁起物を売る店が立ちならぶ。三の酉のある年には火事が多いというが、十一月も終わりころになると寒さが募り、暖をとるための火を使うようになるので、火事に警戒せよという言い伝えだろう。実際、三の酉と聞くと、寒い日の思い出しかない。気象的にも寒いのだけれど、社会的にも寒々としてくる。商店街などでは年の暮れモードに入り、仕事も年末年始を見据えてあわただしさが増し、句のようになんとなく「淋しく」なってくる。「世の中」は、気象的な条件を含んだ人間社会と解すべきだろう。どうという句ではないようにも思えるが、三の酉のころの人々の心持ちがよく出ていると思う。二十代の終わりのころに入り浸っていた新宿の酒場「びきたん」は、花園神社に近かった。ママのしいちゃんは毎年熊手を買いに行くのだが、店を開けてから客が増えてくると、なかの何人かを誘い、あとの客に留守を頼んで出かけていた。そんなときに私は、誘われても行かずに、いつも留守番役を志願したものだ。寒風のなかなんぞに出かけたら、せっかくの酔いが醒めるからというのが理由だった。思えば、若いのに「淋しい」男だったな、私は。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)
吹きたまる落葉や町の行き止まり
正岡子規
季語は「落葉」。歳末風景とは限らないが、押し詰まってきたころに読むと、ひとしお実感がわく。どこか侘しくも淋しい雰囲気があって、それがまた往く年を惜しむ気持ちにふんわりと重なるからだ。今年の落葉は遅めのようで、我が町ではまだ銀杏の葉が盛んに散っている。よく行く図書館への道筋に、ちょうど「行き止まり」の場所があって、まさに掲句のような感じだ。日頃はボランティアで掃除をしている老人も、最近は寒いせいか見かけない。となれば落葉はたまる一方で、ときおり風に煽られてはかさこそと音を立てている。しかし私は、きれいに掃除された町よりも、落葉がたまっているような場所が好きだ。汚いと言って、眉をひそめる人の気が知れない。というよりも、そもそも落葉を汚いと感じる神経がわからない。最近では隣家の落葉に苦情を言いにいく人もいるそうで、いったい日本人の審美眼はどうなっちゃってるのだろうか。句に戻れば、この風情は今日(きょう)あたりからの「町」ならぬ「街」でも味わえる。潮のように人波が引いてしまった官庁街やビジネス街を通りかかると、あちこちに落葉が吹きたまっている。年末年始とも、長い間麹町の放送局で仕事をしていたので、そんな侘しい光景は何度も目撃した。たしかに侘しいけれど、なにか懐かしいような気分もしてきて、実は密かな私の楽しみなのであった。高浜虚子選『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)
うそのやうな十六日櫻咲きにけり
正岡子規
季語は「十六日桜(いざよいざくら・いざざくら)」で新年。前書きに「松山十六日櫻」とあるように、愛媛県松山市にある有名な桜だ。正月十六日(旧暦)に満開となる。一茶がこの桜を見に出かけ、「名だたる桜見んと、とみに山中に詣侍りきに、花は咲満たる芝生かたへにささえなどして、人々の遠近にあつまりたる……」と日記に記した。小泉八雲も『怪談』で紹介している。もっともこの桜は戦災で焼けて枯れてしまい、現在伝えられている樹は元の樹の実から育てたもので、満開は新暦三月初旬頃だそうだ。早咲きには違いないが、子規が見た頃のように「うそのやうな」早咲きぶりではない。掲句は明治二十九年(1896年)の作。既に体調がおもわしくなく「二月より左の腰腫れて痛み強く只横に寝たるのみにて身動きだに出来ず」という状態。それでも「四月初め僅かに立つことを得て」、「一日車して上野の櫻を見て還る」と花見に出かけていった。このときに詠まれた句だから、写生句ではない。上野の桜を見ているうちに、卒然と故郷の花を思い出したのだろう。誰にだって故郷贔屓の気味があるから、咲く時期の早さといい花の見事さといい、上野の花よりも十六日桜のほうに軍配をあげている。「うそのやうな」には、そんなお国自慢めいた鼻のうごめきが感じられる。が、内心では、もう一度あの花を見てみたいという望郷の念止み難いものもあったに違いない。べつに名句というような句ではないけれど、珍しい新年句として紹介しておく。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)
ていれぎや弘法清水湧きやまず
吉野義子
季語は「ていれぎ」で春。ただし、ほとんどの俳句歳時記には載っていない。先日実家を訪ねた折り、母と昔話をしているうちに「もう一度『ていらぎ』が食べたいねえ」という話になった。で、何か「ていらぎ」の句はないものかと調べてみたら、この句に出会った。山口県では「ていらぎ」と呼びならわしていたが、句の「ていれぎ」と同じものだ。現在でも愛媛県松山地方では「ていれぎ」と言い、松山市指定の天然記念物になっているから、ご存知の読者もおられるだろう。「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」(正岡子規)。アブラナ科の多年草で、清流に育つ美しい緑色の水草だ。正しくは大葉種付花と言うらしく、クレソンに似ているが別種である。物の本には必ず「刺身のつま」にすると書いてあるけれど、私の子供の頃には大量に穫ってきて鍋で茹で、醤油をばしゃっとかけておかずにしていた。若芽を生で噛むとほのかな辛みがあるが、茹でると抜けてしまうのか、小さい子でも食べることができた。食糧難の時代だったからか、これがまた美味いのなんのって、そこらへんの野菜の比ではなかった。まさに野趣あふれる草の味だった。そんなわけで掲句を見つけたときには、一瞬「食べたいな」と思ってしまったが、もちろん食欲とは無関係な句だ。「弘法清水」は新潟県西蒲原郡巻町竹野町にあって、弘法大師が水の乏しい良民のため地面に錫を突き立てて掘ったという伝説に基づく。行ったことはないのだが、「ていれぎ」との取り合わせでその清冽な水のありようがわかるような気がする。ああ「ていらぎ」を、もう一度。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)
萩咲て家賃五円の家に住む
正岡子規
季語は「萩」で秋。前書きに「我境涯は」とある。すなわち、「自分の境涯は、まあこんなところだろう」と、もはや多くを望まない心境を述べている。亡くなる五年前の句だ。一種の諦観に通じているのだが、何となく可笑しい。もちろん、この可笑しさは「家賃五円」というリアリスティックな数字が、とつぜん出てくることによる。「萩咲て(はぎさいて)」と優雅に詠み出して、生活に必要な金銭のことが具体的に出てくる変な面白さ。坪内稔典の近著『柿喰ふ子規の俳句作法』(2005・岩波書店)を読んでいたら、「子規俳句の笑いの基本形は、見方や感じ方のずらしが伴う」と書いてあり、私もその通りだと思った。それも企んだ「ずらし」ではなくて、自然にずれてしまうところが面白い。同書にも書かれているが、子規の金銭感覚はずっと若いときに比べると,この頃は大いに様子が違っている。漱石の下宿に転がり込んでいたころには、「人の金はオレの金」みたいにルーズだったのが、晩年には逆に合理的な考え方をするようになった。掲句の「五円」は切実な数字だったわけで、だからこそ句に書いたのだが、しかし境涯をいわば経費で表現するのは並みの感覚ではないだろう。そう言えば、みずからの墓碑銘(案)の最後に「月給四十円」と記したのも子規であった。稔典さんによれば「その月給で一家を支えている子規のひそかな誇りが示されている」ということであり、これまたその通りであろうとは思うのだけれど……。高浜虚子選『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)
狼も詠ひし人もはるかなり
すずきみのる
季語は「狼」で冬。「山犬」とも言われた日本狼(厳密に言えば狼の亜種)は、1905年(明治三十八年)に奈良の鷲家口で捕獲されたのを最後に絶滅したとみられている。したがって、ここ百年ほどに詠まれた狼句は、すべて空想の産物だ。といって、それ以前に人と狼とが頻繁に出会っていたというわけではなく、たとえば子規の「狼のちらと見えけり雪の山」などは、いかにも嘘っぽい。実景だとすれば、もっと迫力ある句になったはずだ。そこへいくと、江戸期の内藤丈草「狼の声そろふなり雪のくれ」の迫真性はどうだろう。掲句はそんな狼だけを主眼にするのではなく、狼を好んで「詠(うた)ひし人」のほうにも思いを寄せているところが新しい。で、この「詠ひし人」とは誰だろうか。むろん子規でも丈草でも構わないわけだが、私には十中八九、「絶滅のかの狼を連れ歩く」と詠んだ三橋敏雄ではないかという気がする。絶滅した狼を連れ歩く俳人の姿は、この世にあっても颯爽としていたが、鬼籍に入ったあとではよりリアリティが増して、どこか凄みさえ感じられるようになった。三橋敏雄が亡くなったのは2001年だから、常識的には「はるかなり」とは言えない。しかし、逆に子規などの存在を「はるかなり」と言ったのでは、当たり前に過ぎて面白くない。すなわち、百年前までの狼もそれを愛惜した数年前までの三橋敏雄の存在も、並列的に「はるかなり」とすることで、掲句の作者はいま過ぎつつある現在における存在もまた、たちまち「はるか」遠くに沈んでいくのだと言っているのではなかろうか。そういうことは離れても、掲句はさながら話に聞く寒い夜の狼の遠吠えのように,細く寂しげな余韻を残す。『遊歩』(2005)所収。(清水哲男)
月一輪星無數空緑なり
正岡子規
月の句を、と『子規全集』を読む。この本、大正十四年発行とありちょっとした辞書ほどの大きさで天金が施されているが、とても軽くて扱いやすい、和紙は偉大だ。そしてこの句は第三巻に、明治三十年の作。満月に近いのだろう、月の光が星を遠ざけ、空の真ん中にまさに一輪輝いている。さらにその月を囲むように星がまたたく。濃い藍色の空に星々の光が微妙な色合いを与えていたとしても、月夜の空、そうか、緑か。時々、自分が感じている色と他人が感じている色は微妙に違うのではないかと思うことがあるが、確かめる術はない。しかし、晩年とは思えない穏やかな透明感のある子規の絵の中で、たとえば「紙人形」に描かれた帯の赤にふと冷たさを感じる時、子規の心を通した色を実感する。明治三十五年九月十九日、子規は三十五年の生涯を閉じる。虚子の〈子規逝くや十七日の月明に〉の十七日は、陰暦八月十七日で満月の二日後、そして今日平成十八年九月九日は、本来なら陰暦八月(今年は閏七月)十七日にあたる。前出の虚子の句が子規臨終の夜の即吟、と聞いた時は、涙より先に句が出るのか、と唖然としたが、もし見えたら今宵の月は十七日の月である。ただし、今年は閏七月があるため、暦の上の名月は来月六日とややこしい。ともあれ、月の色、空の色、仰ぎ見る一人一人の色。『子規全集』(1925・アルス)所載。(今井肖子)
色町や真昼しづかに猫の恋
永井荷風
荷風と色町は切り離すことができない。色町へ足繁くかよった者がとらえた真昼の深い静けさ。夜の脂粉ただよう活況にはまだ間があり、嵐(?)の前の静けさのごとく寝ぼけている町を徘徊していて、ふと、猫のさかる声が聞こえてきたのだろう。さかる猫の声の激しさはただごとではない。雄同士が争う声もこれまたすさまじい。色町の真昼時の恋する猫たちの時ならぬ争闘は、同じ町で今夜も人間たちが、ひそかにくりひろげる〈恋〉の熱い闘いの図を予兆するものでもある。正岡子規に「おそろしや石垣崩す猫の恋」という凄い句があるが、「そんなオーバーな!」と言い切ることはできない。永田耕衣には「恋猫の恋する猫で押し通す」という名句がある。祖父も曽祖父も俳人だった荷風は、二十歳のとき、俳句回覧紙「翠風集」に初めて俳句を発表した。そして生涯に七百句ほどを遺したと言われる。唯一の句集『荷風句集』(1948)がある。「当世風の新派俳句よりは俳諧古句の風流を慕い、江戸情趣の名残を終生追いもとめた荷風の句はたしかに古風、遊俳にひとしい自分流だった」(加藤郁乎『市井風流』)という評言は納得がいく。「行春やゆるむ鼻緒の日和下駄」「葉ざくらや人に知られぬ昼あそび」――荷風らしい、としか言いようのない春の秀句である。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)
春風にこぼれて赤し歯磨粉
正岡子規
日々の食事の内容について克明な記録を残した点から子規を健啖家として捉える評や句は多くある。子規忌の「詠み方」としてそれは一典型となっている。結核性腹膜炎で、腹に穴が開き、そこから噴出す腹水やら膿やらと、寝たきりの排泄の不自由さに思いを致して、凄まじい悪臭が身辺を覆っていたという見方もよく見かける視点である。子規が生涯独身で、母と妹が看病していたが、その妹への愛情やその裏返しとしての侮蔑についてもよく語られるところ。特異な状況下におかれた人のその特異さについてはさまざまな角度から評者は想像を膨らませていくわけである。それが子規を語る上のテーマになったりする。しかし、死に瀕した人間が特殊なことに固執したり、健常者から見れば悲惨な状況に置かれたりするのはむしろ当然のこと。そういう状況が、どうその俳人の俳句に影響を与えたのか、与えなかったのかの見方の方に僕などは興味が湧く。子規の日記に歯痛についての記述もあるから、この句から歯槽膿漏の口臭について解説する人がいたとしても不思議はないが、僕は歯磨粉という日常的素材と「赤し」の色彩について「写生」の本質を思う。そのときその瞬間の「視覚」の在り処が「生」そのものを刻印する。「見える」「感じる」ということの原点を思わせるのである。子規の「写生」は、「神社仏閣老病死」の諷詠でなかったことだけは確かである。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)
蓑虫や滅びのひかり草に木に
西島麦南
滅びとはこの句の場合、枯れのこと。カメラの眼は蓑虫に限りなく接近したあと、ぐんぐんと引いていき秋の野山を映し出す。テーマは蓑虫ではなく、「滅びのひかり」である。もうすぐ冬が来る気配がひかりの強さに感じられる。鳥取県米子市に住んだときはかなりの僻地で、家の前が自衛隊の演習地。広い広い枯野で匍匐前進や火炎放射器の演習をやっていた。他の人家とは離れていたので、夜は飼犬を放した。夜遊び回った果てに戻ってきた犬が池で水を飲む音がする。子規の「犬が来て水飲む音の寒さかな」を読んで、ああこれだななんて思ったものだ。「滅びのひかり」を今日的に使うならすぐ社会的な批評眼の方へ引いて行きたくなるところだが、麦南さんは「ホトトギス」の重鎮。あくまで季節の推移の肌触りを第一義にする。言葉はしかし五感に触れる実感に裏打ちされているからこそ強烈に比喩に跳ぶ。季節の推移についての実感を提示したあと、やがて人類や地球の滅びをも暗示するのである。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)
妻よ天井を隣の方へ荒れくるうてゆくあれがうちの鼠か
橋本夢道
あけましておめでとうございます。末永くよろしくの思いとともに、自由律の長~い一句を掲句とした。子年にちなんで、ねずみが登場する句を選出してみたら、あるわあるわ150以上のねずみ句が見つかった。以前猫の句を探したときにもその数に驚いたが、その需要の元となるねずみはもっと多いのが道理なのだと納得はしたものの、現代の生活ではなかなか想像できない。しかし、〈長き夜や鼠も憎きのみならず 幸田露伴〉、〈新藁やこの頃出来し鼠の巣 正岡子規〉、〈鼠にジヤガ芋をたべられて寝て居た 尾崎放哉〉、〈しぐるるや鼠のわたる琴の上 与謝蕪村〉、〈寒天煮るとろとろ細火鼠の眼 橋本多佳子〉などなど、それはもう書斎にも寝室にも台所にも、家でも外でもそこらじゅうに顔を出す。どこにいても決してありがたくない存在ではあるが、あまりに日常的なため、迷惑というよりも「まいったなあ」という感じだ。掲句の屋根の上を走るねずみの足音にもにくしみの思いは感じられない。荒々しく移動していくねずみに一体なにごとが起きたのか、天井を眺めて苦笑している姿が浮かぶ。おそらく呼びかけられた妻も、また天井裏続きのお隣さんもおんなじ顔をして天井を見上げているのだろう。『橋本夢道全句集』(1977)所収。(土肥あき子)
日のあたる硯の箱や冬の蠅
正岡子規
この句に日野草城の「日の当る紙屑籠や冬ごもり」を並べて「日のあたる」二句の比較を楽しんでいる。二句とも仰臥の位置からの視線であるところが共通点。二人とも長い病の末結核で世を去った。両者とも日常身辺の限られた範囲の中で、視覚的な物象に句材を得ている。二句の違いというか、それぞれの特徴として、僕は子規の「眼」の凝視の力と、草城のインテリジェンスを思う。子規が見出した「写生」という方法は、生きて在ることの実感を瞬間瞬間の「視覚」によって確認することが起点となっている。子規が詠んだ有名な鶏頭の句も糸瓜の句も、季題の本意や情趣がテーマではなく視覚の角度やそこに乗せる思いがテーマ。この句でも冬の蠅を凝視する子規の「眼」に子規自身の「生」が刻印されているような感じがする。何気ない枕もとの日のあたる硯箱が背景になっていることがさらに鬼気迫るほどのリアリティを見せている。一方、草城の句は、冬ごもり、書き物、反古、紙屑籠という一連の理詰めの連想が起点となっている。つまり草城は自己の病臥の状態から句を詠んでも季題の本意を忘れず、俳諧を意識し、フィクションを演出する。そこに「知」を強烈に働かせないではいられない。「新興俳句」の原動力となった所以である。『日本大歳時記』(1981・講談社)所載。(今井 聖)
炭砿の地獄の山も笑ひけり
岡本綺堂
言うまでもなく「山笑ふ」も「笑ふ山」も早春の季語である。中国の漢詩集『臥遊録(がゆうろく)』に四季の山はそれぞれこう表現されている。「春山淡冶(たんや)にして笑ふがごとし。夏山は蒼翠にして滴るがごとし。秋山は明浄にして粧ふがごとし。冬山は惨淡として眠るがごとし」と、春夏秋冬まことにみごとな指摘である。日本では今や、炭砿は昔のモノガタリになってしまったと言って過言ではあるまい。かつての炭砿では悲惨なニュースが絶えることがなかった。まさしくそこは「地獄の山」であり「地獄の坑道」であった。多くの人命を奪い、悲惨な事故をつねに孕んでいる地獄のような炭砿にも、春はやってくる。それは救いと言えば救いであり、皮肉と言えば皮肉であった。それにしても「地獄の山」という言い方はすさまじい。草も木もはえない荒涼としたボタ山をも、綺堂は視野に入れているように思われる。ずばり「地獄の・・・・」と言い切ったところに、劇作家らしい感性が働いているように思われる。春とはいえ、身のひきしまるようなすさまじい句である。子規の「故郷(ふるさと)やどちらを見ても山笑ふ」という平穏さとは、およそ対極的な視点が働いている。句集『独吟』をもつ綺堂の「北向きに貸家のつゞく寒さかな」という句も、どこやらドラマが感じられるような冬の句ではないか。『独吟』(1932)所収。(八木忠栄)
恋猫のもどりてまろき尾の眠り
大崎紀夫
猫の交尾期は年に四回だと言われる。けれども、春の頃の発情が最も激しい。ゆえに「恋猫」も「仔猫」も春の季語。あの求愛、威嚇、闘争の“雄叫び”はすさまじいものがある。ケダモノの本性があらわになる。だから「おそろしや石垣崩す猫の恋」という子規の凄い句も、あながち大仰な表現とは言いきれない。掲出句は言うまでもなく、恋の闘いのために何日か家をあけていた猫が、何らかの決着がついて久しぶりにわが家へ帰ってきて、何事もなかったかのごとくくつろいでいる。恋の闘いに凱旋して悠々と眠っている、とも解釈できるし、傷つき汚れ、落ちぶれて帰ってきて「やれやれ」と眠っている、とも解釈できるかもしれない。「まろき尾」という、どことなく安穏な様子からして、この場合は前者の解釈のほうがふさわしいと考えられる。いずれにせよ、恋猫の「眠り」を「まろき尾」に集約させたところに、この句・この猫の可愛さを読みとりたい。飼主のホッとした視線もそこに向けられている。猫の尾は猫の気持ちをそのまま表現する。このごろの都会の高層住宅の日常から、猫の恋は遠のいてしまった。彼らはどこで恋のバトルをくりひろげているのだろうか? 紀夫には「恋猫の恋ならずして寝つきたり」という句もあり、この飼主の同情的な視線もおもしろい。今思い出した土肥あき子の句「天高く尻尾従へ猫のゆく」、こちらは、これからおもむろに恋のバトルにおもむく猫の勇姿だと想定すれば、また愉快。『草いきれ』(2004)所収。(八木忠栄)
五月雨や上野の山も見あきたり
正岡子規
明治三十四年、死の前年の作。子規は根岸の庵から雨に煙る緑の上野の山を毎日のように見ていた。病臥の子規にとって「見あきたり」は実感だろうが、人間は晩年になると現世のさまざまの風景に対してそんな感慨をもつようになるのであろうか。「見るべきほどのことは見つ」は壇ノ浦で自害する前の平知盛の言葉。「春を病み松の根つ子も見あきたり」は西東三鬼の絶句。三鬼の中にこの子規の句への思いがあったのかどうか。この世を去るときは知盛のように達観できるのが理想だが、なかなかそうはいかない。子規も三鬼も「見あきたり」といいながら「見る」ことへの執着が感じられる。思えば子規が発見した「写生」は西洋画がヒントになったというのが定説だが、この「見る」ということが「生きる」ことと同義になる子規の境涯が大きな動機となっていることは否定できない。生きることは見ること。見ることの中に自己の瞬時瞬時の生を実感することが「写生」であった。『日本の詩歌3・中公文庫』(1975)所載。(今井 聖)
家は皆海に向ひて夏の月
正岡子規
そうなのか、と思います。たしかに家にも正面があるのだと、あらためて気づかせてくれます。海に向かって表側を、意思を持ってさらしているようです。扉も窓も、疑うことなくそうしています。一列に並んだ同じような大きさの家々の姿が、目に見えるようです。この句に惹かれたのは、ものを創ろうとする強引な作為が、見えなかったからです。家も、海も、月も、静かに句に導かれ、収まるところに収まっています。作り上げようとするこころざしは、それをあからさまに悟られてはならなのだと、この句は教えてくれているようです。家々が海に向かっているのは、海と対峙するためではなく、生活のほとんどが海との関わりから成り立っているためなのでしょう。朝起きればあたりまえのように海へ向かい、日の入りとともに海から帰ってくる。単純ではあるけれども、生きることの厳かさを、その往復に感じることが出来ます。梅雨の間の月が、そんな人々の営みを、さらに明らかに照らしています。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)
田圃から見ゆる谷中の銀杏かな
正岡子規
子規が見る景色すなわち子規の作品の中の風景というのは「見ること」「見えること」そのこと自体を目的とする風景のように思えてならない。何を見るのかということや、見て何に感動するということよりも、見るということ自体に意味がある、そんな風景である。たんぼの中から谷中の銀杏の巨木を見ている。子規つまり、内部に「生きている私」を抱えた存在が眼という窓を通して風景を見ている。見ていること自体が存在することなのだ。この句から谷中の下町の風情などを読み取ろうとするのは子規の写生を読み解く本意にあらずと僕は思う。『新日本大歳時記』(1999)所収。(今井 聖)
大年や沖遥かなる波しぶき
新藤凉子
とうとう今年も、今日を入れて二日を残すのみとはなりにけり――である。大年(おおとし)とは十二月三十一日のこと。山本健吉の『季寄せ』では、こう説明されている。「年越と同じく、除夜から元旦への一年の境を言う。正月十四日夜の小年(こどし)にたいする言葉。だが大晦日そのものをも言う。大年越」。さらには「大三十日」「おほつごもり」とも呼ばれる。今日三十日は「つごもり」。年も押し詰まったある日、はるか海上を見渡せば、沖合にいつもと変わりなく白い波しぶきがあがっている。一年のどん詰まりとはるかなる沖合(まさに時間と空間)の対比が、句に勢いを加えている。大きさとこまやかさ。数年前の夏のある日、友人たちと熱海にある凉子のマンションに招かれたことがあった。ビールを飲んでは、見晴らしのいい大きなガラス窓から、海上はるかに浮かぶ初島を飽かず眺望していた。もしかして、作者はあの島を眺めていて、波しぶきを発見したのかもしれない。大晦日になって、妙にこせこせ、せかせかしないおおらかな句である。いかにも凉子の人柄が感じられる。ほかに「冬帽子母のまなざし蘇る」というこまやかな句もある。正岡子規には「漱石が来て虚子が来て大三十日」というゼイタクな句もある。『平成大句会』(1994)所載。(八木忠栄)
菜の花や小学校の昼餉時
正岡子規
読めばそのままに、広々とした風景が目の前に現れてくるようです。木造の校舎を、校庭のこちら側から見つめているようです。かわいらしく咲き乱れている菜の花と、教室内でお昼ご飯を食べている、これまたかわいらしい小学生の姿が、遠景によい具合につりあっています。今は静かなこの校庭にも、もうすぐご飯を食べ終わった子供たちが飛び出してきて、ひどくやかましい時間が訪れることでしょう。あっちこっちから走ってくる子供たちの姿を、ぶつかりやしないかと心配しながら、菜の花の群れが優しいまなざしで見つめています。とにかく句全体に、鮮やかに花が咲き乱れているようです。こんな句を読めた日には、わざわざいやなことなどを考えずに、ゆったりといちにちを過ごしてみようかな。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)
梅が香や根岸の里のわび住居
船遊亭扇橋
もう梅の季節も過ぎてしまったか。さて、巷間よく知られているくせに作者は誰?ーという掲出句である。「……根岸の里のわび住居」の句の上五には、季語を表わす何をもってきてもおさまりがいいという、不思議な句の作者は落語家であった。オリジナルは「梅が香や」だけれど、「初雪や」と置き換えてもいいし、「冷奴」でもピタリとおさまる。「ホワイトデー」だっておかしくはない。この落語家(大正~昭和期に活躍)の名前は今やあまり知られていない。句のほうが有名になってしまい、名前などどうでもよいというわけ。落語の歴史が語られる際、この扇橋の名前はほとんど登場しないが、人格的リーダーとして名を馳せた五代目柳亭左楽の弟弟子にあたる八代目扇橋と推察される。しかし、詳細は知られていない。現・九代目扇橋の亭号は「入船亭」だけれど、古くは「船遊亭」だった。かつて文人墨客が多く住んだ根岸には、今も言わずと知れた子規庵(旧居)があり、子規はここで晩年十年を過ごした。落語関係では、近くに先代三平の記念館「ねぎし三平堂」があり、根岸はご隠居と定吉が「風流だなあ」を連発する傑作「茶の湯」の舞台でもある。「悋気の火の玉」も関連している。子規が根岸を詠んだ句に「妻よりは妾の多し門涼み」がある。そんな時代もあったのだろう。結城昌治『俳句は下手でかまわない』(1997)所載。(八木忠栄)
すこしだけ振子短くして彼岸
美濃部治子
春分の日(三月二十一日)の前後三日間を含めた一週間がお彼岸。だから、もうすぐ彼岸の入りということになる。彼岸の入りを「彼岸太郎」「さき彼岸」とも呼び、彼岸の終わりを「彼岸払い」「後の彼岸」などとも呼ぶ。昼と夜の長さが同じになり、以降、昼の時間が徐々に長くなって行く。人の気持ちにも余裕が戻る。まさしく寒さも彼岸まで。それにしても振子のある時計は、一般の家庭からだいぶ姿を消してしまった。ネジ巻きの時計は、もっと早くになくなってしまった。振子の柱時計のネジをジーコジーコ、不思議な気持ちで巻いた記憶がまだ鮮やかに残っている。時計の振子を「すこしだけ」短くするという動きに、主婦のこまやかな仕草や、何気ない心遣いがにじんでいる。治子は、十代目金原亭馬生の愛妻で、落語界では賢夫人の誉れ高い人だった。酒好きの馬生がゆっくり時間をかけて飲む深夜の酒にも、同じ話のくり返しにも、やさしくじっとつき合っていたという証言がある。馬生の弟子たちは、この美人奥さんを目当てに稽古にかよったとさえ言われている。馬生は一九八二年に五十四歳の若さで惜しまれて亡くなり、俳句を黒田杏子に教わった治子は二〇〇六年、七十五歳で亡くなった。他に「初富士や両手のひらにのるほどの」がある。彼岸といえば、子規にはご存知「毎年よ彼岸の入に寒いのは」がある。『ほほゑみ』(2007)所収。(八木忠栄)
其底に木葉年ふる清水かな
正岡子規
小林洋子さんという若いアーティストが作った「時積層」という作品があります。高さ約3mの透明なアクリル製の直方体の中を、A3版の白いコピー用紙が一枚ずつ舞い降りてくる作品です。紙のかさなりによって時間の経過を視覚化させる砂時計のような装置です。掲句も、木の葉のかさなりが時の経過を物語ることで、清水の新鮮さを伝えています。「其底に」(そのそこに)と指示語で始まることで、かえって場所の具体性が指示されていて、句に、額縁をほどこす効果も感じられます。「其底」は、「その木の葉の底」です。木の葉が「降り」、年が「経(ふ)り」、幾重にもかさなった木の葉が古びてかさなり、今、「其底」から、清水が湧き出して、かさなり合った木の葉が下からもち上げられて流れ出てきています。掛詞として使われている「ふる」が、木の葉のかさなりを重層的に伝えています。深大寺の青渭(あおい)神社や水天宮など、水を祀る信仰は古来よりあります。掲句は信仰とは関係ないでしょうが、それでも清水の清浄な源泉を木の葉に隠れる「其底」と目に見えぬようにしているところに、清水に対する畏敬の念があるように思われます。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)
年毎の二十四日のあつさ哉
菊池 寛
掲句が俳句として高い評価を受けるに値するか否か、今は措いておこう。さはさりながら、俳句をあまり残した形跡がない菊池寛の、珍しい俳句として採りあげてみたい。この「二十四日」とは七月二十四日、つまり「河童忌」の暑さを詠んでいる。昭和二年のその日、芥川龍之介は服毒自殺した。三十六歳。「年毎の……あつさ」、それもそのはず、一日前の二十三日頃は「大暑」である。昔も今も毎年、暑さが最高に達する時季なのだ。昭和の初めも、すでに猛烈な暑さがつづいていたのである。「節電」だの「計画停電」だのと世間を騒がせ・世間が騒ぎ立てる現今こそ、発電送電体制が愚かしいというか……その原因こそが愚策であり、腹立たしいのだが。夏はもともと暑いのだ。季節は別だが、子規の句「毎年よ彼岸の入に寒いのは」をなぜか連想した。芥川自身にも大暑を詠んだ可愛い句がある。「兎も片耳垂るる大暑かな」。また万太郎には「芥川龍之介仏大暑かな」がある。そう言えば、嵯峨信之さんは当時文春社員として、芥川の葬儀の当日受付を担当した、とご本人から聞かされたことがあった。芥川の友人菊池寛が、直木賞とともに芥川賞を創設したのは昭和十年だった。さまざまなことを想起させてくれる一句である。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
蚊柱やふとしきたてて宮造り
正岡子規
明治26年の作。前書に、「神社新築」とあります。江戸時代と明治時代では、政治体制から生活様式まで、大きな転換がありましたが、神社仏閣にも変革がありました。江戸時代は、今でも口に出して言う「神さま仏さま」が、神社や寺院で混然と一体化していましたが、明治政府は「神仏判然令」を出し、神社と寺院を分離します。神社は、宗教施設としてではなく、国家の宗祀として、国家が尊び祀(まつ)る公的な施設として位置づけられたので、新築も多かったはずです。明治39年には「神社合祀令」が発令されて、大規模な統廃合がおこなわれ、19万社から13万社へと整理されました。かつては、村の鎮守の森、氏神さまだった神社が、中央集権の影響を受けるようになってきた背景があります。掲句の「ふとしき」は、「太敷く」で、柱をいかめしく、ゆるがぬように建てることです。子規は、その手前に蚊柱が立っているのを見て、面白がったのでしょう。不安定にうごめく蚊柱と、地中奥深く突き立てて、地と天のかけ橋を造ろうとする神柱。ところで、中七は、全てひらがなになっています。これは、もしかしたら、それほど大規模な社殿ではなく、蚊柱と同じ視野に納まるほどの構図を示しているのかもしれません。神を数える助数詞は「一柱」ですが、その語源は二十以上の説があり、定まっていません。諏訪大社「御柱祭」の関係者は、「天と地との架け橋が有力」とおっしゃっていますが、いかに。なお、「蚊柱」の中心には一匹の雌が居て、その周りを有象無象の雄たちが、惑星、衛星、すい星のようにぐるぐる回っているそうです。子規は、この事実は知らなかったでしょうね。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(小笠原高志)
葛の葉の吹きしづまりて葛の花
正岡子規
まず香りで気づくことが多い葛の花。成長期には一日数十センチメートルも伸びるというから強烈な生命力である。掲出句は、これが葛の花よ、と教わったとき一緒に教えられた句でその時は、ふーん、と聞き流してしまったように思うのだが、秋になって葛の花に出会うたびに心に浮かんで、気がつくと愛誦句となっていた。群生する大きな葛の葉を吹き渡る秋風、その風が止んだ後いつまでも残る花の香りが余韻となって続く。静かな句ほど印象深いということもあるのだろう。昨日九月十九日は子規忌日、秋に生まれ秋に逝った子規である。『花の大歳時記』(1990・講談社)所載。(今井肖子)
菜屑など散らかしておけば鷦鷯
正岡子規
鷦鷯(ミソサザイ)は雀よりやや小さめの日本最少の小鳥である。夏の高所から冬の低地に移り住む留鳥である。根岸の子規庵は当時の状態に近い状態で保存されている。開放されているので訪れる人も多い。そこに寝転んで庭を眺めていると下町の風情ともども子規の心情なんぞがどっと胸に迫ってくる。死を覚悟した根岸時代の心情である。病床の浅い眠りを覚ましたのはミソサザイのチャッツチャッツと地鳴き。これが楽しみで菜屑を庭に撒いておいたのだ。待ち人来るような至福の喜びがどっと襲う。ここでの句<五月雨や上野の山も見あきたり><いもうとの帰り遅さよ五日月><林檎くふて牡丹の前に死なん哉>などが身に沁みる。高浜虚子選『子規句集』(1993)所収。(藤嶋 務)