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Kazu Bike Journey

東京 (30/09/20) 江戸城 (9) 外曲輪12門 / 外濠 (9) 大名屋敷 新宿

2020.10.01 14:42

外曲輪12門

今日は今回の東京滞在の7日目最終日だ。史跡文化財を巡った後、自転車を土肥さん宅に預けるので、今日は見学時間が少し短めになるだろう。新宿周辺にあった大名屋敷中心に巡る。


田安徳川家下屋敷 / 四谷大木戸

まずは四谷4丁目交差点まで一気に走る。新宿御苑に行くため。ここも通勤で2年間は自転車で毎日通ったところ。ここは今でも四谷大木戸と呼ばれることがある。1616年 (元和2年 2代徳川秀忠の時代)、江戸幕府がここに甲州街道からの江戸への出入り口として大木戸が設けた。出入りを取り締まるため木戸は石垣で囲われ夜間は木戸は閉められていたが、1792年 (寛政4年 11代徳川家斉の時代) 以降は、木戸が撤去され、通行が自由になった。江戸時代に描かれた四谷大木戸は木戸が撤去された時代で、既に人の出入りが自由になっていたので、賑わっている様子がわかる。

五街道の一つの甲州街道は、下諏訪まで全長53里 (212km) で、表街道に38、裏街道には6で合計44の宿場があり、この四谷大木戸あたりには日本橋からの一番目の宿である内藤新宿が1699年 (元禄12年 5代徳川綱吉の時代) に高遠藩内藤家の下屋敷の敷地一部を返上させて、大木戸の西に設けられていた。しかし、19年後の1718年 (享保3年) には 8代将軍・徳川吉宗による享保の改革の風俗取締りで、宿場としてより岡場所として賑わっていた内藤新宿は廃止となってしまった。五街道 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道) でまだ走っていないのはこの甲州街道だけなので、どうしても走ってみたい。江戸城巡りの次は甲州街道の旅に出てもいいかな...

四谷大木戸跡には明治初頭までは石垣などは残っていたが、撤去され今はその遺構はなくなっている。ただ、四谷4丁目交差点にはその記念碑が建てられているのみ。記念碑は二つあり、一つは四谷図書館・水道局のところ、もう一つは田安徳川家下屋敷跡の前の四谷4丁目交差点にある。


田安徳川家下屋敷は四谷4丁目交差点の西と東の部分にあり、下之地図のオレンジで囲った部分だ。田安徳川家は徳川家は第8代将軍吉宗の次男の宗武を家祖としており、徳川将軍家、御三家に後嗣がないときは御三卿の他の二家 (吉宗の4男宗尹の一橋家,9代将軍家重の次男重好の清水家) と共に後嗣を出す資格を有した。家格は御三家 (家康の9男義直の尾張家、10男頼宣の紀州家、11男頼房の水戸家) に次ぐものであった。


玉川上水水番所

四谷大木戸跡石碑のところにはもう一つ別の石碑が建っている。現在の四谷4丁目交差点の場所にあった玉川上水の水番所の跡の石碑で、明治時代に建てられている。ここは現在は水道局になっている。1653年 (承応2年 4代徳川家綱の時代) にのこに四谷水番所が設けられ、江戸市中へ配水していたのだ。

もう数年も前になるのだが、ここから玉川上水に沿って多摩の羽村まで走ったことがある。全長43kmで人工のもので全て手掘りだった。終点の羽村には幕府からこの玉川上水の建設を命じられた玉川兄弟の像があったことを覚えている。始点の羽村と終点の四谷間は標高差100mしかなく、43kmの玉川上水の建設は難航するも、失敗しルートを変え、玉川兄弟は私財を売り払い、約半年で完成させた。記録などはほとんど残っていないのだが、この工事にはいろいろな出来事があったことは想像に難くない。


新宿御苑に行く前にその周りの史跡を見ることにする。


太宗寺

慶長元年(1596年)ごろに僧 太宗が開いた草庵「太宗庵」が前身。安房国勝山藩主の内藤氏 (1691年 [元禄4年 5代徳川綱吉]、内藤氏は信濃国高遠藩へ移封) と縁が深く、その寄進で1668年 (寛文8年 4代徳川家綱の時代) に太宗を開山として太宗寺が創建され、以降、高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれている。

境内には江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置された地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番地蔵が入り口のところにある

閻魔堂には「内藤新宿のお閻魔さん」と呼ばれた閻魔像と「(三途の川の一つの) 葬頭河 (そうづか) の婆さん」と呼ばれた奪衣婆 (だつえば 三途川で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼) 像が安置されており、江戸時代から庶民に信仰されてきた。

さらに、不動堂の横には真っ白に塩を被った姿が特徴の「塩かけ地蔵」などがあり、観光にも面白い寺だ。


雷電稲荷神社

ついこの間、若松川田にある源義家ゆかりの厳島神社抜弁天を訪れたが、ここにも源義家ゆかりの祠がある。雷電稲荷神社という。創建年代は不詳。源義家が奥州征伐に向かう途中に雷雨にあい、この祠の前で休んでいる時に、一匹の白狐が現れ、義家の前で三回頭を下げると、雷雨がたちまち止んだことから、村人は雷電神社と呼ばれるようになったそうだ。現在は花園神社に合祀され、神社としては消滅しまが、鳥居と祠だけが残されている。


天龍寺

雷電稲荷神社の側に天龍寺という寺がある。全く何も知識はないのだが、観光地図に載っていたので訪れた。どうも、徳川家康に関連している様だ。天龍寺の前身は遠江国にあった法泉寺と言われ、法泉寺は徳川家康の側室の西郷局の父、戸塚忠春の菩提寺であった。西郷局が後に2代将軍となる徳川秀忠を産んだことから、家康の江戸入府に際し遠江国から牛込に移され、法泉寺の近くを流れていた天竜川の名をとって天龍寺と改めた。この寺は江戸城を守る役割があっとという。上野の寛永寺が江戸城の鬼門鎮護で、この天龍寺は裏鬼門鎮護の役割だった。そして、1683年 (天和3年 5代徳川綱吉の時代) に現在地へ移転した。境内には上野寛永寺、市谷亀岡八幡宮の鐘と並び江戸三名鐘の一つとされる梵鐘 「時の鐘」が現存しており、当時は内藤新宿で遊行する人々に帰りの時を知らせ、「追出しの鐘」と呼ばれたという。江戸三名鐘なので亀岡八幡宮で見たかなと思ったが、梵鐘がなかった。見落としたかと調べると、鐘は築地本願寺に移されたそうだ。


高遠藩内藤家下屋敷 (新宿御苑)

現在の新宿御苑はもともとは高遠藩内藤家下屋敷だった。ここで少し疑問が湧く、高遠藩の様な小国が何故、伊井家、紀伊徳川家、尾張徳川家、加賀前田家の屋敷に引けを取らないほどの広大な屋敷を拝領していたのかだ。歴史でも内藤家など出てこない地味な存在だ。そこで高遠藩と内藤家について少し調べてみた。まず内藤家だが、内藤清成は徳川譜代で家康の岡崎時代から家康の小姓から、岡崎城で後の2代将軍秀忠が生まれた際に傅役になっている。家康が江戸の移封された後、徳川幕府では関東八州庶務奉行、関東総奉行、江戸町奉行、老中などを歴任し、幕府初期の治世を支えている。幹部中の幹部であったことは確かだ。家康との関係がこの屋敷を賜ったことに大いに関係しているのだろう。江戸時代の人も同じ疑問を抱いた様だ。こんな逸話が残っている。「鷹狩の際に、家康から "馬で乗り回した土地を全て与える" と言われた清成は、白馬で一気に駆け巡り広大な土地を拝領した。南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走った白馬は家康の元へ駆け戻った直後に息絶えた」駿馬伝説と言われ、下屋敷内にあったていない神社の多武峯内藤神社に「駿馬塚の碑」まで残っている。死んだ馬は駿馬塚の碑のある樫の木の根本に埋められたという。あまりにもできた話だ。真偽はさておき、やはりこの広大な屋敷の拝領は当時の人のゴシップのネタになったのだろう。それを鎮めるために、幕府がこの様な話を流したか、内藤家が流したのだろう。その後、1816年 (文化13年 12代徳川家慶) にこの駿馬塚の碑が内藤家家臣によって邸内社の死んだ馬を埋めた場所に作っている。この逸話に信憑性を加える意図があったのかも知れない。

新宿御苑は1902年 (明治35年) から4年の歳月をかけて1906年 (明治39年) に皇室の庭園として完成した。そして戦後の昭和24年に一般に国民公園新宿御苑として公開される事になる。 新宿御苑への入口は幾つかある。その内二つに1927年 (昭和2年) に建てられた門衛所旧大木戸門門衛所 (写真左下) と旧新宿門門衛所 (右下) が残っている。皇室庭園時代のものだ。

庭園にある池は江戸時代からの玉川園の場所。庭園の構成などは変わっているのだろうが、江戸時代もこの様な感じだっただろう。非常にゆったりとしている。

公園内には幾つかの施設がある。茶室の楽羽亭 (写真上) は明治時代のものが戦争で焼失後再建したもの。大温室 (左下)、明治時代に建てられた皇室の休憩に使われた旧洋館御休所 (右下) など...

昭和天皇成婚記念に、台湾在住の日本人が寄贈した旧御凉亭 (台湾閣) 

明治期には近代農業や園芸振興の為、ここには新宿御苑ができる前の明治5年に造られた内藤新宿試験場があった。その名残が残る。ここがいちばんのおすすめの場所。まだバラは殆どが開花前。10月中旬は見頃になっているだろう。長い並木道にはベンチが置かれて、夏でも日陰でのんびりできる。ここで持ってきた弁当で昼食をとる。

公園はとにかく広大で広い広場がいくつもある。公園は500円の入場料がいるので、人は少なく、静かでゆったりと過ごせる。年間パスポートが2000円なので、ジョギング目的や近所に住んでいれば日々の散歩には快適。


熊野十二所権現社 (くまのじゅうにしょごんげんのやしろ)

新宿御苑の後、都庁方面に向かう。十二社権現という神社を訪れる。

十二社熊野神社は、室町時代の応永年間 (1394~1428) に紀州出身の鈴木家が紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったと伝えられている。1403年 (応永10年) には熊野三山の十二所権現すべてを祠り、 江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれた。

十二社熊野神社は、江戸時代には滝や池を擁した江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れたそうだ。十二社の池は、1606年 (慶長11年) 田畑の用水溜として大小つの池を開発したもの。だがだが、現在は完全に埋め立てられ、十二社通りを隔てたビル街になっている。

浮世絵に描かれている大滝は熊野の滝・萩の滝と呼ばれ、1667年 (寛文7年) に玉川上水から神田上水の水量を補うために造られた神田上水助水堀が、熊野神社の東端から落ちるところにできたものだそうだ。

明治時代の落語家三遊亭円朝作の『怪談乳房榎』の終盤はこの大滝が舞台になっている。落語だけでなく、映画にもなり、舞台でも演じられている。早速この怪談乳房榎を三遊亭圓生と桂歌丸のものを聞いてみた。三遊亭圓生のものは2時間以上、桂歌丸のものは1時間とどちらもとにかく長い。



彦根藩井伊家下屋敷 (明治神宮)

江戸時代初めには肥後藩藩主・加藤家の別邸であり、寛永17年 (1640年) より彦根藩藩主 井伊家の下屋敷となっていたもので、この土地が1874年 (明治7年)、井伊家から政府に買い上げられて南豊島御料地となっていた。1912年 (明治45年) に明治天皇が崩御し、東京市民からの要望で、渋沢栄一など有力者が中心となって、神宮の建設案が立てられ、国会にで可決され、1915年 (大正4年)、官幣大社明治神宮を創建することが発表された。造営には全国から11,129人もの国民が労力奉仕に参加した。この労力奉仕は自発的に行われたとあるが、これには少々疑問もある。確かに、自発的に動いた国民も多かったとは思うが、この建設には政治的な背景もあり、政府の画策の結果であったと思う。着工は1915年10月7日で、1920年 (大正9年) 11月1日に完成。明治天皇は国民に人気があったんは確かだ。歴史を見ると、明治時代に薩長政府の中で、意に沿わぬことも、数々あっただろうが、うまくバランスをとって新しい時代を生きた人と思う。ある意味で明治維新に大いに貢献したであろう。それ以降、大正天皇、昭和天皇、平成天皇と続くが、国民から大正神宮、昭和神宮、平成神宮建設の要望は、一部の右翼団体以外は目立った動きがない。それほど、明治天皇は国民に慕われていたのだろう。

神宮本殿は太平洋戦争末期の1945年 (昭和20年) 4月、アメリカ軍の空襲で焼失し、その後、全国からの復興資金で、仮殿が建設され、現在の本殿はその後、国内外からの寄付などによって造営が進められたもの。

本殿への参道には展示版が設置されている。今年が鎮座100年とある。

明治神宮の敷地内は林や整備された芝生が大半を占めている。池は井伊家屋敷の時代から残っているのだが、江戸時代の庭園は無くなっている。


鳩森八幡宮

千駄ヶ谷駅の近くに、江戸八所八幡のひとつで、千駄ヶ谷一帯の総鎮守の鳩森八幡宮がある。鎮座は、神亀 (724年-729年) 又は貞観 (859年-877年) 年間と伝えられているので1200も前の神社ということになる。言い伝えでは、「大昔ここに鎮座前に、めでたいことが起こる前兆の瑞雲がたびたび現れ、ある日青空より白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入っていくと、突然白鳩が数多、西に向かって飛び去った。」このことにより、森に祠を作り鳩森 (はとのもり) と名付けたという。この言い伝えに対しての解説はなく、さらっと読んでも何を意味しているのか推し量るのは難しいだろう。多分、瑞雲が鳩に姿を変えて、この地に降りてきたので、ここは有難い場所になったと考えるのが自然ではないだろうか?

境内には1789年 (寛政元年 11代徳川家斉) 築造とされる「江戸八富士」の一つの富士塚がある。

山裾には里宮 (浅間神社) があり、また七合目の洞窟には身禄像、山頂には奥宮が安置されるなど富士山を再現している。修復されているものの建造当時の旧態を留めており、都内に現存する富士塚の中では最古のもの。


今日はここで終了。明日は沖縄に帰るので、東京滞在中に使っていた自転車を預ける為に土肥さん宅に向かう。今晩は新橋で今年2月にゲストハウスで知り合った大森さんと会う予定。これで7泊8日の東京旅行 (メインは定期検診だが...) は終了。また、三ヶ月後の定期検診で東京に来たときには、江戸城巡りの続きをやる予定だ。