季語が柿の句
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【季語が柿の句】
里ふりて柿の木もたぬ家もなし
松尾芭蕉
元禄七年(1694)八月七日の作品だから、新暦ではちょうどいまごろの季節の句だ。柿の実はまだ青くて固かっただろう。農村に住んでいたせいだろうか、こういう句にはすぐに魅かれてしまう。私の頃でも、ちゃんとした農家の庭には必ず柿の木が植えられていたものだ。俗に「桃栗三年柿八年」というように柿の木の生育は遅いので、この句のように全戸に柿の木が成熟した姿で存在するということは、おのずからその村落の古さと安定とを示していることになる。ここで芭蕉が言っているのは、一所不住を貫いた「漂泊の詩人」のふとした自嘲でもあろうか。少なくとも俳諧などには無関心で、実直に朴訥に生きてきた人たちへの遠回しのオマージュのように、私には思える。二カ月後に、彼は「旅に病で夢は枯野をかけ迴る」と詠んだ。時に芭蕉五一歳。『蕉翁句集』所収。(清水哲男)
柿二つ読まず書かずの日の当り
小川双々子
秋の日差しを受けて、二つだけ木に残った柿の実が美しく輝いている。それなのに、作者はといえば本を読む気にもなれないし物を書く気力もない。そんな情けない日(「日」は「日差し」にかけてある)を浴びながらも、柿はけなげに自己を全うしつつあるのだという感慨。しかし、この無為を悔いる気持ちは、あまり深刻なものではないだろう。軽口で言う「空は晴れても心は闇だ」という程度か。というのも「柿二つ」は「読まず書かず」に対応していて、このあたりに遊び心を読み取れるからだ。この明るさと暗さを対比させる方法は、キリスト者である作者初期の段階から始まっている。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
正岡子規
世にこれほど有名で、これほどわけのわからない句も珍しい。何度も考えてみたのだが、結局は不可解のままに放置してきた。他の人のいろいろな解釈を読んでも、一つもピンとくるものはなかった。ところが、最近俳誌「未来図」(1998年9月号)を開くに及んで、やっと腑に落ちる解説に会うことができた。目から鱗が落ちた思いである。柿の季節にはいくらか早すぎるが、とても嬉しいので早速引用紹介しておきたい。作家・半藤一利氏の講演記録からの抜粋である。明治十八年十月、子規は漱石から十円を借りて松山より東京に戻る途中、関西に遊んだ。「私は簡単に解釈します。松山の子規記念館に、子規の遺しました『人物見立帳』という直筆の本があります。河東碧梧桐は『大根』、誰某は『玉蜀黍』とか書いてあり、漱石の所を見ると『柿』とあります。つまり子規さんの見立で言うと漱石は柿なんです。ですから、『柿くへば』というのは漱石を思い出しているんですね。お前さんから貰った十円の金をここでみな使っちまったという挨拶の句なんです」。道理で句のわからないわけがわかったと、私は膝を打ったのだけれど、この句を有名にしている理由はまた別にあるということも、はっきりとわかった。蛇足ながら、子規はこの当時としては大金の十円を、ついに返さなかったという。漱石の胃も痛むわけだ。(清水哲男)
柿が好き丸ごとが好き子規が好き
小川千子
小学生の句ではない。それが証拠に、小学生の知らない人の名前が出てくる。子規が出てくる必然性も、小学生にはわかるまい。最近、とくに女性の作品に、こんな雰囲気の句が増えてきた。一言で言えば、主観的な断定に見せて、内実は読者に同意を求める体のものだ。例の「ワタシって、子供のころからカキが大好きじゃないですか」の俳句版である。私はその全てを否定しないし、この句も悪くはないと思う。悪くないと思う根拠は、「丸ごと」を投網のように柿と子規とに打ちかけている技巧に思いが及ぶからだ。しかし、この作法に未来はないだろう。「好き」なのは作者の勝手だが、その主観の吐露の構造のなかに含まれている「媚(こび)」に寛容である読者は少ないからである。ところで、瀕死の床にあっても、なお食いしん坊だった子規の明治三十四年(1901)の今日の献立は、次のようであった。朝、粥三腕と佃煮。昼、さしみ(かつを)と粥三、四腕にみそ汁と梨。間食には、西洋西瓜の上等のものを十五きれほど。夕食には粥三腕、あかえ、キャベツ、冷奴、梨一つ。夜、羊羮二切。作者・小川さんのおかげで、ひさしぶりに『仰臥漫録』をひろげる気分になった。俳誌「船団」(42号・1999年9月1日発行)所載。(清水哲男)
老い母は噂の泉柿の秋
草間時彦
柿が実るのは秋にきまっているが、あえて「柿の秋」としたのは、たわわに実る柿の姿を強調したかったのだと思う。「泉」と照応して、おのずと自然の豊穣な雰囲気が出ている。ただ、豊穣といっても、この場合は噂話しのそれだ。老いた母が、泉の水のようにとめどなくくり出してくる他人の噂。老いても元気なのはなによりだけれど、聞かされる身としては、いささか辟易しているという図だろう。「柿の秋」ならぬ「噂の秋」だ。女性一般の噂話し好きは、いったい、どこから来るものなのか。むろん例外の女性もいるが、総じて女性はぺちゃくちゃと他人の動静についてしゃべることを好む。それこそ「泉」だとしか言いようのない人もいる。私などがじっと聞いていると、究極のところ、彼女は自分のする噂話しを自分自身に言い聞かせているような気がしてくる。聞いてくれる他人を媒介にして、自己説得しているように思えてくるのだ。となると、彼女にとっての噂話しとは、いわばアイデンティティを確認するための生活の知恵なのだろうか。このあたりのことを考えてみるのも面白そうだが、そんなヒマはない。『中年』(1965)所収。(清水哲男)
ものかげに煙草吸ふ子よ昼の虫
鈴木しづ子
たとえば「娼婦またよきか熟れたる柿食うぶ」などと奔放に書いた作者の、もう一つの顔はこのようであった。人にかくれて煙草を吸う少年、あるいは少女。チッチッと弱々しげな昼の虫の音が「ものかげ」から聞こえてくる。めったに姿を見せない鉦叩(かねたたき)の類だろうか。作者によって「子」と「虫」がこのように切り取られたとき、その相似性が語るものは、生きとし生けるものなべての哀れさであろう。ただし注目すべきは、作者がどこかでこの「哀れ」を楽しんでいる気配のうかがえるところだ。自虐の深さまでには至っていないが、この気分が昂揚すると娼婦句の世界へとつながっていくのだと思われる。『女流俳句集成』(1999・立風書房)の年譜によれば、鈴木しづ子は1919年(大正8年)東京神田生まれ、東京淑徳高等女学校卒。松村巨愀の主宰誌「樹海」に出句し、戦後間もなくは各務原市に住んで二冊の句集を出版したが、その後はぷつりと消息を断ってしまった。現在に至るも、生死不明という。第一句集『春雷』(1946)所収。(清水哲男)
店の柿減らず老母へ買ひたるに
永田耕衣
好物なのだろう。母に食べてもらおうと、柿を求めた。老母のためだから、数はそんなに必要はないのだが、ちょっと多めに買った。いくつかは無駄になるとしても、母に差し出すときには、はなやかに見えるほうがよい。気持ちのご馳走だ。ところが買った後で、もう一度店先の柿の実の山を見てみると、少しも減った感じがしない。自分が買ったのに、その行為の痕跡もないのだ。せっかく「母へ買ひたるに」もかかわらず、これでは子としての母への思いが通じないじゃないか。バカみたいじゃないか。と、内心で深く作者は落胆している。この句は、我々の「プレゼント欲」の本質を突いている。老母へのプレゼントに下心などあるはずもないが、しかし、単純に喜んでほしいと思うのも手前勝手な「欲」には違いない。「欲」だから、できればその「欲」の成就を、あらかじめ保証してくれる何かが欲しい。このときに簡単なのは、自分が相手のために確かにある行為をしたという確かな痕跡を見ることだ。例えば、大富豪が恋人のために街中の花屋の花を買い占めてしまうのも、買い占めるときの気持ちは、自分の「欲」の成就を確信したいがためなのである。花を全部買い占めるのも柿を少し余分に買うのも、つまるところ「欲」の構造としては相似形だ。意地悪だろうか、私の読みは……。『驢啼集』(1952)所収。(清水哲男)
剣劇の借景の柿落ちにけり
守屋明俊
稲刈りなどの秋の農繁期を過ぎると、芝居がかかるのが楽しみだった。たまに旅回りの一座がやってくることもあったが、定期的に演じられていたのが素人芝居だ。村の若い衆とおっさん連中が、田圃やら空き地やらに舞台を組んで、クラシックな『瞼の母』やら『国定忠次』やらを演じたものだ。にわか作りの舞台だから、立派な背景画なんぞは望むべくもない。ならば、そこらへんの自然を生かして(「借景」として)やろうじゃないかと知恵を出し、舞台裏に見える景色に合った出し物を選んでいたのだろう。実際、日ごろ無愛想な近所のおっさんが、白塗りで「山は深山(しんざん)、木は古木(こぼく)……」と見栄を切る場面なんぞは、背景がまさにその通りなのだからして「ウマいことを言うなあ」と感心した覚えがある。だから、いまだに覚えているのだ。さて、掲句ではクライマックスの「剣劇」シーンだ。切り狂言といって、この立ち回りが芝居の華。「役者」たちが演出通りに押したり引いたりしていると、背景の柿が突然ぽたっと落ちた。おそらくは、あろうことか舞台の上に落ちてきたのだろう。これで舞台と客席に張りつめていたせっかくの緊張感が、あっけなくも途切れてしまう。なかには、吹き出す奴もいたりする。ここで、芝居はパーだ。柿が熟して自然に落ちる様子は「ぽたっ」というよりも「ぽたあっ」ないしは「ぼたり」と、かなり存在感のある落ち方をする。そこらへんの機微をよく捉え、滑稽感に哀感を振りかけたような味が面白い。いや、お見事っ。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)
柿むいて今の青空あるばかり
大木あまり
晴天好日。「今の」今しか「青空」を味わえぬ静かな時間。理屈をこねて鑑賞する野暮は承知で述べておけば、句を魅力的にしているのは「柿むいて」という行為が、あくまでも過程的なそれであるからだろう。「柿むいて」ハイおしまいというのではなく、むく目的は無論食べるための準備だ。この句の上五を、たとえば「柿食べて」「柿食えば」とやっても、俳句にはなる。なるけれど、食べるという自足感が「青空」の存在を希薄にしてしまう。食べちゃいけないのだ。下世話に言えば、よく私たちは「さあ、食うぞっ」という気持ちになったりするが、「柿むけば」は「さあ、食うぞっ」のはるかに手前の段階であり、ひとかけらの自足感もない。手慣れた手つきで、ただサリサリと、何の思い入れなくむいているだけである。事務的と言うと「事務」に怒られるかもしれないが、しかし柿をむくというような過程的な行為である「事務」の目からすると、「今の青空」の「今」が自足した目よりも強く意識されるのだと思う。「今」を貴重と感じる心は、いつだって自足のそれからは遠く離れているのだと……。たかが、作者は柿をむいているにすぎない。その「たかが」が「今の青空」と作者との交感関係を、いかに雄弁に語っていることか。でも、やっぱり、こんなことは書くまでもなかったですね。『火のいろに』(1985)所収。(清水哲男)
釣月軒隣家の柿を背負ひをり
星野恒彦
芭
釣月軒
蕉の生家(三重県上野市)の奥の離れが「釣月軒(ちょうげつけん)」。粋な命名だ。『貝おほひ』執筆の書斎であり、その後も帰省するたびに立ち寄っている。生家とともに当然のように観光名所になっているが、私は行ったことなし。ただ、写真はそこら中に溢れているので、行かなくても、だいたいの様子はわかったような気になっていた。しかし、掲句ではじめて「隣家(となり)」に大きな柿の木があることを知り、私の中のイメージは、かなり修正されることになる。まさか芭蕉の時代の柿の木ではないにしても、柿を植えるような庭のある隣家と接していたと思えば、にわかに往時の釣月軒のたたずまいが人間臭さを帯びてきたからだ。観光用や資料用の写真では、私の知るかぎり、この柿の木は写っていない。「背負ひをり」と言うくらいだから、この季節だと写り込んでいてもよさそうなものだが、写っていたにしても、すべてトリミングで外されているとしか思えないのだ。なぜ、そんな馬鹿なことをするのだろう。釣月軒であれ何であれ、建物は周囲の環境とともにあるのであって、それを写さなければ情報の価値は半減してしまうのに……。俳句は写真ではないけれど、作者はただ見たままにスナップ的に詠んだだけで、軽々と凡百の写真情報を越えてしまっている。釣月軒を見たこともない私に、そのたたずまいが写真よりもよく伝わってくる。「背負ひをり」はさりげない表現だが、建物のありようをつかまえる意味において、卓抜な措辞と言うべきだろう。写真は、よくある釣月軒紹介写真の例。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)
換気孔より金管の音柿熟るる
星野恒彦
どうかすると、こういうことが起きる。「換気孔」からは空気が吐き出されてくるのだが、管を伝って音が出てきても不思議ではない理屈だ。いつだったか、我が西洋長屋の台所の換気扇から、かすかながらも表の人声が聞こえてきたことがある。はじめは幻聴かなと思ったけれど、そうではなかった。できるだけ換気扇に耳を近づけてみると、明らかに女性同士の話し声だと知れた。表の換気孔の近くで、立ち話をしていたのだろう。そんな体験もあって、掲句が目についた。この場合には、作者は戸外にいる。「金管(ブラス)の音」が聞こえてくるのだから、普通のマンションなどの近くではないだろう。学校などの公共の建物のそばだろうか。もとより作者に金管の正体は見えないわけだが、吹奏楽などの練習の音が漏れ聞こえてきているようだ。「柿熟るる」ころは学園祭のシーズンでもあるので、金管の音と熟れている柿との一見意外な取り合わせにも、無理がないと感じられる。金管楽器にもいろいろあるが、換気の管によく伝わるのは高音の出るトランペットの類か。いずれにしても、たわわに実った柿の木の上空は抜けるような青空であり、気持ちの良い光景に更にどこからともなくブラスの音が小さく加わって、至福感がいっそう高まったのだ。『連凧』(1986)所収。(清水哲男)
西へ行く日とは柿山にて別る
山口誓子
誓子の山の句ばかりを集めたアンソロジー『山嶽』(1990・ふらんす堂)の編者後書きに、こうある。「美濃に、富有柿を一山に植え盡した柿山がある。ここの山は日だまりで、十二月に入っても硬質で大粒の柿を樹に成らせる。葉が落ち盡した裸木に赤い美事な実は枯れ一面の中に鮮かである」(松井利彦)。想像しただけで、見事な情景が浮かんでくる。実際に、見てみたくなった。よく晴れた日に、作者が見ているのは午後の遅い時間だろう。句は「別る」と押さえていて、既に日が没し(かかっ)た状態とも読めるが、そうではあるまい。「別る」は、別れることが決まっている切なさをあらかじめ先取りしているのであり、それゆえに眼前の一刻の景色を大切にする気持ちの現われを表現している。なだらかな山の上の数えきれないほどの柿の実に、まだまんべんなく日があたっていて、その朱色がいっそう輝いている時間なのだ。しかし、秋の日はつるべ落とし。間もなく「西へ行く日」とは別れねばならない。そして同時に、この柿山の美しさとも……。なお、深読みに過ぎるかもしれないが、初見のときの私には「日と」が「ひと」とのダブルイメージとなって、染み入ってきた。いずれにせよ、極めて格調の高い名句と言えよう。(清水哲男)
木守柿妻の名二人ある系図
秦 夕美
季語は「木守柿(きもりがき)」で秋。代々長くつづいている家だと、寺に行けば過去帳(鬼籍)なるものがある。寺で、檀徒の死者の戒名(法名)、実名、死亡した年月日などを記入しておく帳簿だ。我が家では父が分家初代なので存在しないが、義父が亡くなったときに見たことがある。三百年ほど前からの記録だったと記憶しているが、眺めていると、他人の家のことでもじわりと感慨が湧いてくる。はるか昔から生き代わり死に代わりして、現在まで血がつづいてきたのか。会ったこともないご先祖様のあれこれも想像されて、そこには単なる記録を越えた何かがあった。作者の家には仏壇の抽き出しに、同様の書類が残されてきたという。なかに、後妻○○と記された何人かの女性名がある。むろん最初の妻との死別による再婚もありうるが、なかには「家風に合わぬ」「子なきは去れ」と追い出された先妻のあとの座にすわった女性もいるかもしれない。いずれにしても、家中心の社会、男中心の社会のなかで、犠牲になる女性は多かった。「妻の名二人」のどちらかは、そのような犠牲者だったことはあり得るわけだ。そこには、どんなドラマがあったのだろうか。作者はそんな女たちの怨念を思いながら、次のように書く。「高い梢には夕日のしずくのような赤い実が残されていた。その『木守柿』が私には未練を残しつつ去った女たちの魂のように思えてならなかった」。『秦夕美・自解150句選』(2002)所収。(清水哲男)
渋柿やボクよりオレで押し通す
大塚千光史
季語は「渋柿・柿」で秋。渋柿の生き方というのも変だけれど、擬人化すれば確かに「ボク」よりも「オレ」のほうがふさわしい。「ボク」には、どこかに甘ったるいニュアンスが含まれている。「押し通す」の渋柿の意地は、作者の生き方とも重なり合っているのだろう。書き言葉にせよ話し言葉にせよ、日本語の人称は種類が多いので、何を使うかによって相手に与える印象も違ってくる。女性の「わたし」と「あたし」との一字違いでも、ずいぶん違う。また、ひところ若い女性に「ボク」が流行ったことがあるけれど、「私」としてはあまり良い印象を受けなかった。男との対等性を主張したい気持ちは理解できたが、張り合う気持ちが前面に出すぎているようで鼻白まされた。書き言葉では「私」しか使わない私も、話し言葉になるとほとんど無意識的に使い分けている。親しい友人知己には「オレ」、目上や初対面の人には「ワタシ」、両親には「ボク」といった具合だ。二人称では「オマエ」「キミ」「アナタ」、あるいは苗字を呼ぶなどして、拾い出してみればけっこう複雑なことをやっているのに気がつく。よく言われるように、単一か二種類くらいの人称しか持たない言語圏の人にとっては、ここにも日本語の難しさがある。人称が多いということは、おのずから自己と他者との関係の多層化をうながし、同時に曖昧化することにもつながっていく。言うなれば、日本語を使う人は、常に他者との距離の取り方を意識している。私はこれを人見知りの言語と呼ぶが、句のように「オレ」一本で押し通すとは、この距離を取っ払うことだ。おのれを粉飾しないということである。といっても、むろん人称の統一化だけで自分を全てさらすわけにもいかないが、その第一歩としては必要な心構えだろう。この問題は、無人称も含めて、考えれば考えるほど面白い。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)
柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな
正岡子規
松山に行くので、子規が読みたくなって読んでいる。松山どころか、四国に渡るのは生まれてはじめて。仕事があるとはいえ、楽しみだ。例によって飛行機ではなく、地べたを這ってゆくので、三鷹からおよそ七時間ほどかかる。先の萩行きの深夜バスに比べれば、ラクなものである。揚句は、しかし松山ならぬ奈良での即吟だ。明治半ばころの奈良の横町はこんなだったよと、セピア色に変色した写真を見せられているようだ。名句なんて言えないけれど、いまの私にはこんな何でもないような句のほうが心地よい。張り切った句には疲れるし、技巧に優れた句にもすぐに飽きてしまう。非凡なる凡人ではないが、凡なる凡句にこそ非凡を感じて癒される。まったく、俳句ってやつは厄介だ。我が故郷の「むつみ村」がいまだにそうであるように、昔の奈良の横町あたりでも、柿などはなるにまかせ、落ちるにまかせていたのだろう。熟したヤツがぼたっと落ちると、びっくりした犬が一声か二声吠えるくらいだ。いまどきの犬は、柿が落ちたくらいでは吠えなくなったような気がする。実に、犬は犬らしくなくなった。あるいはそんな直接的な因果関係き何ももなくて、柿は柿として勝手に落ち、犬は犬として勝手に吠えているのかもしれない。どっちだっていいのだが、往時ののんびりした古都・奈良の雰囲気が、かくやとばかりによく伝わってくる。柿が大好きだった子規には、「もったいない」と少々こたえる場面ではあったろうが、その後でちゃんと「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」と詠んでいるから、心配はいらない。子規の柿の句のなかに「温泉の町を取り巻く柿の小山哉」もある。「温泉(ゆ)の町」は道後だ。ちょっくら小山の柿の様子も見てきますね。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)
海苔巻を添へし見舞の山の柿
児仁井しどみ
遺句集より。作者は三年前に癌で亡くなっている。季語は「柿」で秋。「海苔巻『に』」ではなく「海苔巻『を』」であることに注目した。つまり、見舞の品のメインは「山の柿」であって「海苔巻」ではないのである。長期病床にある作者に、贈り手は新鮮な外気の感じられる山の幸を届けてきた。たぶん、枝葉のついたままの柿だろう。食べてもらうためというよりは、見て楽しんでもらうためだ。しかしこれからが嬉しいところで、贈り手は何の手もかけていない柿だけではぶっきらぼうに過ぎると考え、せめてもと手作りの海苔巻をいくらか添えたのだった。このときに柿は贈り手の病者に対するいたわりの表現であり、海苔巻は「これでも食べて元気を出せ」という励ましの表現とも言える。作者にはその暖かい心遣いがよくわかったので、「に」ではなく「を」と、嬉しくも素直に表現したのである。またぞろ昔話で恐縮だが、昔の見舞の品や贈答品には、しばしばこうした配慮がなされていたことを思い出す。単なる貰い物のお裾分けにしても、何か自分が手をかけたものを添えたりしたものだ。添えるものが何もないときには、口上などの言葉を添えた。なかには釣れすぎた魚を黙って突き出すように置いていく人もいたけれど、あれはあれで、その照れたような表情が立派な口上になっていたのだと思う。このぎすぎすした世の中に、まだそんな奥床しさが残っていたとは。句を読んで、しんみりと嬉しくなってしまった。『十一番川』(2004・私家版)所収。(清水哲男)
柿もぐや殊にもろ手の山落暉
芝不器男
季語は「柿」で秋。「もろ手(双手)」で柿を取っている。つまり、片方の手で柿の木の枝を押さえ、もう一方で「もいで」いる図である。そうすると自然に双手は輪の形になり、双手の輪の中には遠くの山が囲まれて見えるわけだ。その山にはいましも秋の日が落ちていく(落暉)ところで、「殊(こと)」に鮮やかで美しい感じを覚えたというのである。間近な柿と遠くの夕陽との取り合わせ。色彩はほぼ同系統なので、お互いがお互いに溶け込むような印象も受ける。そして作者は、ひんやりとした秋の大気のなかにいる。が、もぐために上げた両手が耳のあたりに触れているために、頬のあたりだけがかすかに暖かい。そのかすかな暖かさが、束の間とはいえ、落暉の輝きをより鮮明にしていると言ってもよいだろう。不器男の生まれ育った土地は、四国は四万十川上流の広見川のつくる狭い流域の村落であった。そこで彼は、二十八年という短い生涯の大半を過ごしている。いわば峡谷の子だった。そのことを意識して不器男句を読んでみると、天と地、高所と低所の事象や事物の取り合わせがかなり多いことが知れる。「山のあなたの空とおく……」。峡谷に暮らす人たちの、ごく自然な意識の持ちようだと思う。『芝不器男句集』(1992・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)
柿博打あつけらかんと空の色
岩城久治
季語は「柿博打(かきばくち)」で秋。忘れられた季語の一つ。私も、宇多喜代子が「俳句」に連載している「古季語と遊ぶ」ではじめて知った。要するに、柿の種の数の丁半(偶数か奇数か)で勝負を決めた賭博のことだ。種の数は割ってみなければわからないから、なるほど博打のツールにはなる。しかし、柿まで博打のタネにするとはよほど昔の人は博打好きだったのだろうか。とにもかくにも季語として認知されていたわけだから、多くの人が日常的にやっていたに違いない。たしかマーク・トゥエインだったと覚えているが、メキシコ人の博打好きをめぐって、こんなことを書いていた。彼らの博打好きは常規を逸していて、たとえば窓ガラスを流れ落ちてゆく雨粒でさえ対象にする。どちらの粒が早く落ちるかに賭けるのだ……。これを読んだときに思わず笑ってしまったけれど、どっこい灯台下暗しとはこのことで、我ら日本人も柿の種に賭けていたとはねえ。メキシコ人を笑えない。句の博打は、宇多さんが書いているように、退屈しのぎみたいなものなのだろう。勝っても負けても、ほとんど懐にはひびかない程度の賭けだ。だから「あつけらかん」。快晴の秋空の下、暇を持て余した人同士が、つまらなそうに柿を割っている様子が見えるようで、微笑を誘われる。「俳句」(2004年11月号)所載。(清水哲男)
雨降つて八犬伝の里に柿
大串 章
ご存知『南総里見八犬伝』。曲亭馬琴が28年もの歳月をかけて書いた一大長編小説だ。ただ、どなたも題名はご存知なのだが、原文で読んだ人となるともはや寥々たるものだろう。かくいう私も、かつて子供向きの本で読んだにすぎない。「八犬伝の里」といえば、南房総は富山付近だろうか。普段は明るいイメージのある里に、今日は冷たい雨が降っている。雨に濡れた柿は淋しい感じのするもので、ここが八人の剣士の大活躍したところだと思うと、往時茫々の感を禁じ得ないのだ。このときに作者は、雨中に鈍く光っている柿の玉から、八剣士たちを結びつけた「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の霊玉を連想したかもしれない。強者どもが夢のあと、昔の光いま何処と、作者の感傷は少しく深まった。この小説はいわゆる勧善懲悪ものだが、江戸の人に人気があったのは、たぶんこれらの玉の出所に、まず謎めいたところがあったからだと思う。玉を持っていたのは里見氏城主の娘・伏姫で、彼女はわけあって八房という城主の愛犬と洞窟に籠った。その犬を許婚者が鉄砲で撃ち殺すのだが、既に姫は八房の気を感じて身ごもっており、彼女は許婚者に身の純潔を証明するため自害してしまう。このとき飛び散ったのが八つの玉という設定だ。すなわち、これらの玉には猟奇的な感じがつきまとう。説教小説にしては、初期設定が妖しすぎる。これなら今後どんな妖しいことが起きても不思議ではないと、当時の人々は成り行きに固唾を飲んだにちがいない。「俳句」(2004年12月号)所載。(清水哲男)
母よりの用なき便り柿の秋
西山春文
季語は「柿」で秋。「柿の秋」とあるが、この「秋」は季節を表すのではなく、旬の時期(収穫期)という意味だ。故郷の母親から封書が届いた。一瞬ぎくりとして、何事ならんと読んでみると、特別な用事もない便りだったので、ほっとしている。母の伝える近況や田舎の様子を読んでいるうちに、自然に懐かしくよみがえってきたのは、たわわに実をつけた柿の木のある風景だった。作者は、いわばその原風景からそこで暮らした日々のことなどを思いだして、しばし懐旧の念にふけったのだろう。これが「用ある便り」だったとしたら、そうはいくまい。「用なき便り」の効用である。最近は電話もあるので「用なき便り」も減ってきたとは思うけれど、しかし電話でよしなしごとを長時間しゃべれるのは母娘の間に限られるようで、母と息子が「用なき」長電話をする図はちょっと考えられない。何故なのかはよくわからないが、とにかく昔から男は肉親に対してあまり口をきかないものと相場が決まっているのだ。だから、句の母も「用なき便り」にしたわけである。かくいう私も例外ではなく、母から電話をもらっても三分ともたない。手紙が来てもなかなか返事を出さず、内心で「便りのないのは良い便りと言うじゃないか」とうそぶいたりしている。実にけしからん不肖の息子である。『創世記』(2003)所収。(清水哲男)
渋柿の滅法生りし愚さよ
松本たかし
たかしについての予備知識もなく彼の俳句を読んだおり、何といっても「チゝポゝと鼓打たうよ花月夜」に脱帽してしまった。以来、鼓を聴く機会があるたびにこの句を思い出してしまう。困った。チゝポゝ‥‥の句は第二句集『鷹』(1938)に収められたが、第三句集『野守』にも再録されている。果物は一般に熟成するにしたがって甘くなるはずなのに、渋柿は渋柿のままで意地を通す。お愛想なんぞ振りまかない。いいじゃないか。私はそこが気に入っている。甘柿と同じように秋の陽を浴びても、頑としてあくまでも渋いのである。もちろん渋柿も時間をかけて熟柿になったときの、あのトロリとした食感といい、コクのある甘さといい、あれは絶品。干柿や樽抜きにしても、一転してのあの甘さ! しかし、甘柿ならともかく、渋柿が豊作になったところで、どうしてくれる?――というのがわれわれの気持ち。渋柿がどんなにたわわに生ったところで、子供ならずとも「なあんだ」とがっかり。拍子抜けというよりも、鈴生りになるほど愚しくさえ感じられる。渋柿には何の罪もないけれど、滅法生ったことによる肩身の狭さ。得意げに鈴生りを誇っていないで、「憎まれっ子、世に憚る」くらいのことは見習ったら(?)。「愚さよ」は、ここでは渋柿に対してだけでなく、渋柿の持主に対しても向けられていることを見逃してはならないだろう。持主あわれ。でも、どことなくユーモラスな響きも感じられるではないか。『野守』(1941)所収。
柿を見て柿の話を父と祖父
塩見恵介
角の家にいっぱい実った柿がカラスの餌食になってゆく。柔らかく甘い果物が簡単に買える昨今、庭の柿の実をもいで食べる人は少ないのだろうか、よその家の柿を失敬しようとしてコラッと怒られるサザエさんちのカツオのような少年もいなくなってしまった。地方では嫁入りのときに柿の苗木を持参して嫁ぎ先の庭に植え、老いて死んではその枝で作った箸で骨を拾われるという。あの世へ行った魂が家の柿の木に帰ってくるという伝承もあるそうだ。地味で目立たないけど庭の柿はいつも家族の生活を見守っている。春先にはつやつや光る柿若葉が美しく、白く小さな花をつけたあとには赤ちゃんの握りこぶしほどの青柿が出来る。柿の実が赤く色づく頃、普段はあまり言葉のやりとりがない父と祖父が珍しく肩を並べて柿の木を見上げながら何やら嬉しそうに話している。「今年は実がようなったね」「夏が暑いと、実も甘くなるのかねぇ」というように。夫婦や親子の会話はそんな風にさりげなくとりとめのないものだろう。掲句には柿を見て柿の話をしている父と祖父、その様子を少し距離を置いて見ている作者と、柿を中心にしっとりつながる家族の情景を明るく澄み切った秋の空気とともに描きだしている。『泉こぽ』(2007)所収。(三宅やよい)
柿ひとつ空の遠きに堪へむとす
石坂洋次郎
ご多分にもれず、私も高校時代に「青い山脈」を読んだ。あまりにも健康感あふれる世界だったことに、むしろくすぐったいような戸惑いを覚えた記憶がある。今の若者は「青い山脈」も石坂洋次郎の名前も知らないだろう。秋も終わりの頃だろうか、柿がひとつ枝にぽつりととり残されている。秋の空はどこまでも高く澄みきっている。それを高さではなく「空の遠き」と距離でとらえてみせた。柿がひとつだけがんばって、遠い空に堪えるがごとくとり残されているという風景である。とり残された柿の実にしてみれば、悠々として高見からあたりを睥睨しているわけではなく、むしろ孤独感に襲われているような心細さのほうが強いのだろう。しかも暮れてゆく秋は寒さが一段と厳しくなっている。その柿はまた、売れっ子だった洋次郎にとってみれば、文壇にあって、ときに何やら孤独感に襲われるわが身を、空中の柿の実に重ねていたようにも考えられる。よく聞く話だが、柿をひとつ残らず収穫してしまうのではなく、二、三個枝に残したままにする。残したそれらは鳥たちが食べる分としてつつかせてやる――そんなやさしい心遣いをする人もあるという。近年は鈴なりの柿も、ハシハシと食べる者がいなくなって、熟柿となって一つ二つと落ちてしまう。田舎でも、そんなことになっているようだ。ところで、寺田寅彦にかかると「柿渋しあはうと鳴いて鴉去る」ということになる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
木守柿万古へ有機明かりなれ
志賀 康
柿の実をすべて採らずに一つだけ残しておく。来年もよく実がなりますようにという願いからか、あるいは全部採ってしまったら鳥たちが可哀相だからか。これが「木守柿」。木のてっぺんに一つぽつんと残された柿は、なかなかに風情があるものだ。作者はこれを一つの灯のようにみなし、蛍光のような有機の明かりとしてではなく、ほの暗い自然のそれとして、「万古(ばんこ)」すなわち遠い昔をいつまでも照らしてくれよと祈っている。私はこの句から、シュペルヴィエルの「動作」という詩を思い出した。草を食んでいる馬がひょいと後ろを向いたときに見たもの。それは二万世紀も前の同じ時刻に、一頭の馬がひょいと後ろを向いて見たものと同じだったというのである。この発想を生んだものこそが、木守柿の明かりであるなと反応したからである。つまり、揚句における木守柿は、シュペルヴィエルにおける詩人の魂だと言えるだろう。魂であるからには、有機でなければならない。作者もまた、かくのごとき詩人の魂を持ちたいと願い、その祈りが木守柿に籠められている。近ごろの俳句には、なかなか見られない真摯な祈りを詠んだ句だ。他の詩人のことはいざ知らず、最近の私は無機の明かりにに毒され過ぎたせいか、この句を読んで、初発の詩心を忘れかけているような気がした。詩を書かねば。『返照詩韻』(2008)所収。(清水哲男)
家遠く雲近くして野老掘る
佐藤春夫
野老(ところ)は薯蕷(とろろ)芋や山芋と属は同じヤマイモ科だが、別のものである。苦いので食用には適さず、薬用とされる。ヒゲ根が多いところから長寿の老人になぞらえて、「海老(えび)」に対して「野老」と記すといういわれがおもしろい。高い山で野老を探して掘りつづけているのである。だから晴れわたった秋空に浮く雲は、すぐ近くに感じられる。もちろん奥山だから、わが家(あるいはその集落)からは、遠いところに来てしまっている。野老を掘っているうちに、いつのまにか山の高いあたりまで到りついたのであろう。広大な風景のなかの澄みわたった空気、その静けさのなかで黙々と掘る人の映像が見えてくる。この場合の「遠」と「近」との対照的な距離が、句姿を大きく見せている。いかにも秋ではないか。春夫の句について、村山古郷は「形や内容にとらわれないで、のびのび嘱目感想を詠んだ」と評している。秋を詠んだ他の句に「柿干して一部落ある夕日ざし」「思ひ見る湖底の村の秋の燈を」などがある。いずれも嘱目吟と思われる。『能火野人(のうかやじん)十七音詩抄』(1964)所収。(八木忠栄)
棒切れで打つ三塁打柿熟るる
ふけとしこ
小さい頃は近所の友だちとよく野球のまねごとをした。まずは男の子に混じって、庭先や路地の奥でささくれのないすべすべの木切れを探す。なかなか好条件の棒切れに出合えず折れ釘で手を引っ掻いたり、指に棘が立つのはしょっちゅうだった。小遣いで買ったゴムボールはあたればあっというまに塀を越してホームラン。そのたびごとにチャイムをならしてボールを探させてもらった。打つ順番はなかなかこなくって外野でぼんやり眺めているとたちまちにボールは後ろに飛び去っていく。走者にボールを当てればアウトとか、あの木まで飛べば三塁打とか、そのときの人数や場所のサイズに合わせてルールを決めていたっけ。たわわに熟れる柿と三角ベース、そんな光景もセピア色の思い出になってしまったが、さて今の子供たちはこの気持ちのよい季節にどんな遊びを記憶に残すのだろう。『インコに肩を』(2009)所収。(三宅やよい)
時計屋の主人死にしや木の実雨
高橋順子
秋の季語「木の実」には、「木の実時雨」「木の実独楽」「万(よろづ)木の実」など、いかにも情緒を感じさせる傍題がいくつかある。掲句の「木の実雨」も傍題の一つ。まあ、木の実と言っても、一般にはどんぐりのたぐいのことを言うわけだろうけれど、どこか懐かしい響きをもつ季語である。たまたま知り合いか、または近所に住む時計屋の主人なのか、彼が亡くなったらしいのだけれど、コツコツコツコツとマメに時を刻む時計、それらを扱う店の主人の死は、あたかも時計がピタリと止まったかのような感じに重なって、妙に符合する。木の実が落ちる寂しい日に、時計屋のおやじは死んだのかもしれない、と作者は推察している。そこにはシイーンとした静けさだけが広がっているように思われる。「死にしや」という素っ気ない表現が、黙々と働いていたであろう時計屋の主人の死には、むしろふさわしいように思われる。俳句を長いことたしなんでいる順子の俳号は泣魚。「連れ合い」の車谷長吉と二人だけでやる「駄木句会」で長吉から○をもらった七十余句が、「泣魚集」として順子のエッセイ集『博奕好き』(1998)巻末に収められている。そこからの一句をここに選んだ。他の句には「柿の実のごとき夕日を胸に持つ」や「春の川わたれば春の人となる」などがある。(八木忠栄)
寺の前で逢はうよ柿をふところに
佐藤惣之助
どこの寺の前で、何の用があって、いったい誰と「逢はう」というのか――。「逢はうよ」というのだから、相手は単なる遊び仲間とか子どもでないことは明解。田舎の若い男女のしのび逢いであろう(「デート」などというつまらない言葉はまだ発明されていなかった)。しかも柿という身近なものを、お宝のように大事にふところにしのばせて逢おうというのだ。その純朴さがなんともほほえましい。同時にそんなよき時代があったということでもある。これから、あまり人目のつかない寺の境内のどこかに二人は腰を下ろして、さて、柿をかじりながら淡い恋でも語り合おうというのだろうか。しゃれた喫茶店の片隅で、コーヒーかジュースでも飲みながら……という設定とはだいぶ時代がちがう。大正か昭和の10年代くらいの光景であろう。ふところは匕首のようなけしからんものも、柿やお菓子のような穏やかなものもひそむ、ぬくもった不思議な闇だった。掲句の場合の柿は小道具であり、その品種まで問うのは野暮。甘い柿ということだけでいい。柿の品種は現在、甘柿渋柿で1000種以上あるという。惣之助は佐藤紅緑の門下で、酔花と号したことがあり、俳誌「とくさ」に所属した。句集に『螢蠅盧句集』と『春羽織』があり、二人句集、三人句集などもある。他に「きりぎりす青き舌打ちしたりけり」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
病み臥すや梅雨の満月胸の上
結城昌治
梅雨の晴れ間にのぼった満月を、病床から窓越しに発見した驚きだろうか、あるいは、梅雨明けが近い時季にのぼった満月に驚いたのだろうか。いずれにせよ梅雨のせいでしばらく塞いでいた気持ちが、満月によってパッと息を吹き返したように感じられる。しかも病床にあって、仰向けで見ている窓の彼方に出た満月を眺めている。しばし病いを忘れている。病人は胸をはだけているわけではあるまいが、痩せた胸の上に満月が位置しているように遠く眺められる。満月を気分よくとらえ、今夜は心も癒されているのだろう。清瀬の病院で療養していた昌治は石田波郷によって俳句に目覚め、のめりこんで行った。肺を病み、心臓を病んだ昌治には病中吟が多い。句集は二冊刊行しているし、俳句への造詣も深かったことは知られている。仲間と「口なし句会」を結成もした。「俳句は難解な小理屈をひねくりまわすよりも、下手でかまわない。楽しむことのほうが大事だ」と語っていた。掲句と同じ年の作に「柿食ふやすでに至福の余生かも」がある。波郷の梅雨の句に「梅雨の蝶妻来つつあるやもしれず」がある。第一句集『歳月』(1979)所収。(八木忠栄)
ほがらかな柿の木一本真昼かな
火箱ひろ
柿の木を見るのが好きだ。子供の頃から、周辺に柿の木が多かったからかもしれない。若葉の頃の柿の木は子供心にも美しいと感じたし、実をたわわにつけた秋の木にはとても豊饒感があって、見ているだけで幸せな気分になる。その柿の木に性格を読むとすれば、なるほど「ほがらか」がふさわしい。秋の青空を背景に立つ姿は、陽気そのものだ。いま暮らしている東京都下にも柿の木が点在していて、とくに中央線で立川を過ぎて八王子の辺りを通りかかると、古い家の庭に植えられている木が目立ってくる。自然と、心が弾んでくる。作者と同じように、しばらく学生時代に私も京都市北区で暮らしていたが、はてあのあたりに目立つ柿の木はあっただろうか。覚えていないが、もちろんこの木は京都のものでなくてもよいわけだ。「ほがらかな柿の木」が、快晴の空の下にしいんと立っている「真昼」である。句の奥のほうに、逆に人間の哀しみのようなものも滲んで見えてくる。『えんまさん』(2011)所収。(清水哲男)
通称はちんぽこ柿といふさうな
西野文代
この年になると「ちんぽこ」なんて言葉を聞いても笑って通りすぎることができるけど若くて気取ってた頃は聞くだけで恥ずかしかった。坪内稔典著『柿日和』によると、柿の名前は同じ品種でも地方によって異なるらしい。調べてみると「ちんぽこ柿」は「珍宝柿」先がとがった筆柿の呼び名のようだ。なんともユニークな名前。少しこぶりのこの柿が籠に5つ、6つ盛られている様子を思うと可愛らしく感じられる。初めてこの名前を知って「そうなん!」と合点した作者の嬉しがりようも伝わってくるようだ。次郎柿、富有柿など数ある柿の名前の一つとして、歳時記の「柿」の項にこの句を置いてみたい。気取りなく、秋を彩る柿の心やすさにぴったりに思える。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)
日本海時化をる柿の甘さかな
しなだしん
私は瀬戸内の端っこにある神戸で育った。瀬戸内の島へ渡るフェリーや海釣りの小型船に乗ったことしかないが、荒れ狂う海を見た覚えがない。大人になって日本海や太平洋の島々へ船で渡る機会も増えたが、驚いたのは少し天候が悪くなると海がその様相を一変させることだった。定期船が欠航になったその日に小さな漁船が木の葉のごとく高波に上下する様を島の浜から眺めているだけで船酔いしそうになった。特に日本海は北西の季節風が吹く冬場なると波高く荒々しい海へ変貌するようだ。「時化をる」とあるから数日同じような海の状態が続いているのだろう。日本海に取り囲まれた佐渡島には「おけさ柿」という高品質の柿がある。柿が甘くなるのと海の時化とは関係がないだろうが掲句を読むと荒波に揉まれることで柿の甘味が増すように感じられる。『隼の胸』(2011)所収。(三宅やよい)
かきくわりんくりからすうりさがひとり
瀬戸内寂聴
漢字を当てれば「柿榠樝栗烏瓜嵯峨一人」となろう。一読して誰もが気づくように、四つの果実の「K」音がこころよい響きで連続する。しかもすべて平仮名表記されたやわらかさ。京都・嵯峨野の寂庵に住まいする寂聴の偽りない静かな心境であろう。秋の果実が豊富にみのっている嵯峨にあって、ひとり庵をむすんでいることの寂寥感などではなく、みのりの秋のむしろ心のやすらかさ・感謝の気持ちがにじんでいる、と解釈すべきだろう。「さがひとり」の一言がそのことを過不足なく表現している。この句を引用している黒田杏子によれば、この俳句は「二十数年も前にNHKハイビジョンの番組で画面に大きく出た」もので、愛唱している女性が何人もいるという。寂聴は高齢にもかかわらず、今も幅広く精力的に活躍している人だが、杏子は昭和六十年以来、寂庵での「あんず句会」の第一回から選者・講師をつとめて親交を結んでいる。寂聴句のことを「その俳句も私俳句であり、世にいう文人俳句という分類にははまらない」と指摘している。寂聴句には他に「御山(おんやま)のひとりに深き花の闇」がある。黒田杏子『手紙歳時記』(2012)所載。(八木忠栄)
頬ぺたに當てなどすなり赤い柿
小林一茶
子規忌日ということで歳時記を見ていたら、子規の好物であった柿の項に掲出句があった。赤く熟した柿を手にとって頬に当てる、という仕草は一茶と似合っているようないないような、と思ったら前書きに「夢にさと女を見て」とある。さとは一茶と最初の妻との間に生まれた長女だが生後四百日で亡くなっている。夢の中でさとがその頬ぺたに赤い柿を当てたりしている、と読むのもかわいらしいが、この、頬ぺた、は作者自身の、頬の辺り、という気がする。たった一歳で別れた我が娘、思い出すのはいつもただ泣きただ笑うその顔の特に丸くて赤い頬であり、夢に出てきた我が娘の頬の赤が目覚めてからも眼裏にはっきり浮かんでいたのだ。ちょうど熟した柿が生っていたのか置かれていたのか、赤い柿を手に取って思わずそっと頬に当ててみるが、柿はその色とは裏腹にひんやりと固かったに違いない。それでも愛おしむ様にしばらく柿を手に夢の余韻の中にいた作者だったのではないだろうか。『新歳時記 虚子編』(1951・三省堂)所載。(今井肖子)
電球や柿むくときに声が出て
佐藤文香
小学校のとき高いところにある電球を取り換えるのに失敗して床に取り落としたことがある。「あっ」と手元が滑ったとき落下してゆく電球と粉々に割れる様までスローモーションのようにはっきり見えた。それ以来電球の剥き出しの無防備さが気になって仕方なかった。背中がむずがゆくなってくるほどだ。掲載句は「電球や」ではっきり切れているのだけど、柿をむく行為と、電球のつるりと剥き出し加減が通底している。そして「声が出て」は読み手に意味付けなく手渡されているのだけど、何かしらエロチックなものを想像してしまう。俳句に色気は大事である。柿の句でこんな句は見たことがないし、この句を読むたび身体の奥が痛くなる。言葉の配列の不思議が強く印象に残る句である。『君に目があり見開かれ』(2015)所収。(三宅やよい)