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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 43 (10/10/20) 旧東風平 (6) Tome Hamlets 当銘集落

2020.10.11 09:20

当銘集落 (とうめ)

当銘蔵城 (テミグラグスク、別称ヤグチグスク) 

当銘集落 (とうめ) 内

9月20日に小城を訪れた後、東京行きの準備をし、9月24日から10月1日まで東京滞在、那覇に帰ってきてからは東京での江戸城外曲輪巡りの旅の寄稿録の編集で時間を使ってしまい。やっと昨日編集完了で、今日から沖縄の集落巡りを再開する。今日は最後に訪れた小城集落の残りの文化財と、その隣の集落の当銘を訪れる。


当銘集落 (とうめ)

当銘集落は小城集落から当銘蔵城 (テミグラグスク) を挟んでその丘陵の裾の南側に広がっている。

当銘集落の始まりについては祖先宝鑑 千草之巻に幾つかの伝承が掲載されている。他の集落のの比較すると、したの系譜の二番目と三番目の東風平大君から分家して行ったのではと思う。今まで訪問した旧東風平村の集落の祖が沢岻世主の東風平按司からきていると記されたものがある。隣の小城は東風平按司の七男とある。当銘集落の祖先系図で出ている東風平大君が東風平按司と同一人物であれば、当銘と小城は兄弟集落にあたる。

字当銘の人口は沖縄戦が集結した直後の1948年と比較して、あまり変わっていない。近年は人口が微減を続けている。以前は中堅の字であったのが今では下から三番目に人口の少ない字になっている。これは隣の字小城とよく似た状況だ。

東風平村史に掲載されている拝所は (太字は訪問した拝所)

だが、このいくつかが大まかな地図に載っているぐらいなので、探すのは大変だろう。隣の集落の小城とは当銘蔵城 (テミグラグスク) でつながっており、三つの集落で拝所が共有されているものもある様だ。


当銘蔵城 (テミグラグスク、別称ヤグチグスク) 

小城集落の残っていた文化財を見終わった後、当銘集落の文化財巡りに入る。まずは当銘蔵城 (テミグラグスク) から見ていく。当銘蔵城 (テミグラグスク) を見るのはこれで2回目。1回目はまだ知識不足のまま見学したので、一部分だけしか見れていなかった。今日はできるだけ多く見てみたい。


航空写真で見ると当銘蔵城 (テミグラグスク) は当銘、小城、志多伯にまたがっており、標高約80mの丘陵の上ある。それぞれの集落がグスクの麓に形成されている。伝承によれば当銘蔵城 (テミグラグスク) を居城としていた当銘蔵按司は小城、志多伯、当銘を治めていたという。当銘にあるのが腰当森 (クサティムイ、村の鎮守の神が鎮座する御嶽の意味) で、多くの拝所が集まっているおり、アタンジャー[当門=あたいじょう]、現在は大門 [うふじょう])山に城門が北の入り口がある。当銘には当銘蔵城 (テミグラグスク) の主郭。志多伯には現在赤石の杜と呼ばれている墓が集まっている場所がある。この三つでグスクを構成していたと思われる。

今日はこのうち下の地図の黄色で塗りつぶした当銘蔵城 (テミグラグスク) の文化財と赤で塗りつぶした当銘集落の文化財を巡る。

当銘蔵按司に関わる伝承が紹介されていた。「当銘蔵按司は近隣で勢力を増してきた八重瀬グスクの按司に対抗していた。八重瀬按司の軍がグスクまで攻め寄せて来た際に、当銘蔵軍の兵はグスクから逃れ、その後敗走したと見せてナバ嶺に隠れ、時期をまった。八重瀬軍が休息を取り始めると、当銘蔵按司が反撃に出て、八重瀬軍を八重瀬グスクまで敗走させた。その後、勢いに乗った当銘蔵按司は南山グスクを攻めようとするが、南山王に敵し難く南山王に仕える事になったと云っている。」「この後に、当銘蔵按司が和睦のために中山へ向かったが、帰らぬ人になったとする伝承もある。」

この伝承からおおよその時代が見えてくる。八重瀬按司とは汪英紫 (1388年 - 1402年) のことと思われる。八重瀬城を拠点にして周りの有力按司を次々に攻略して行った。その初期の段階の頃の話だろう。この時はなんとか八重瀬按司と対抗できていたものの、汪英紫は次第に勢力を固め、現在の南城市にある大城や島添大里まで勢力を伸ばし、一説では南山王となったとされている。当銘蔵按司が南山国の中心の南山グスクを攻めようとしたのは汪英紫全盛の時期のことだろう。もう一つの伝承の中山に行き帰ってこなかったとあるが、これは佐敷の尚巴志が1406年に中山の武寧を滅ぼし中山王となり、南山王との駆け引きを行っていた直後の頃だろう。


まず初めに訪れたのは腰当森 (クサティムイ) のグスクに関わる場所。


大門 (ウフジョウ)

この場所は当門山 (アタンジャー、あたいじょう) と呼ばれ、ここに北の門があり、ここから首里への往復が行われた。現在は城門が再現されており、大門 (ウフジョウ) と呼ばれている。ここからウマチーロードが始まる。


当銘蔵 (テミグラ)

大門 (ウフジョウ) からの階段を上り切ると、そこには集落の重要物資を収蔵する倉庫があった場所に出る。この場所はちょうど、腰当森 (クサティムイ) にあった古和喜福嶽 (クワゲフクヌタキ、西リ之御嶽) と白金嶽 (シロカネヌタキ、東リ之御嶽) の境目になる。


小城馬場広場

古和喜福嶽 (クワゲフクヌタキ、西リ之御嶽) の北側にはかつては馬場があり、ここを小城馬場広場と呼んでいる。これがグスク時代にあったものか、集落住民の馬場だったのかはわからないが、他に馬場らしき案内も場所もないので、グスク時代の安里馬場がここではないかと思われる。案内板には「龕の年期祭の奉祝行事として旧八月十日 タカマチ棒やシダイグヮー踊りの村芝居がある」と書かれていた。


馬ンザ広場

白金嶽 (シロカネヌタキ、東リ之御嶽) がある森の横のウマチーロードを進むと、視界が開け、大きな公園に出る。

出たところに馬ンザ広場と呼んでいる場所がある。「五月・六月のウマチー (稲と麦の豊作祈願と収穫祭にあたる) はノロは乗馬で殿 (トゥン) 回りをした」と書かれている。白金嶽 (シロカネヌタキ、東リ之御嶽) と古和喜福嶽 (クワゲフクヌタキ、西リ之御嶽) には多くの拝所があるが、森の中なので、流石に馬で中に入って行ったのではなく、ここで馬を降りて殿のお参りをしたということではないだろうか?


プラザ橋

馬ンザ広場から石畳のウマチーロードを降ると、小城と当銘を繋ぐ橋に出る。プラザ橋という。グスク時代にこの橋があったのかどうかはわからない。橋の向こうに当銘蔵城 (テミグラグスク) の森が見える。


殿内門広場

プラザ橋の下にある広場。殿内門と書かれているので、かつてはここに城門があったのだろう。案内板では「龕甲の年忌祭には道ジュネーを行う」とある。龕は死者を運ぶだけではなく、御願の対象にもなっており、毎年、龕甲の年忌祭を行っており、その際は道ジュネーと呼ばれる行列を組んで集落内を回る。


武術広場

橋を渡ったところに広場がある。案内板ではここが武術所と書かれている。


ニンセー石 

ニンセー士広場となっており、案内板には「五穀豊穣と学業向上の祈願をした所」とある。広場にはニンセー石があり、香炉がおかれているので、この石を拝むのだろう。小城集落にあったニーセ石は青年の成長を祈る場だった。ニンセーは二才と書く。青年の意味で、ニーセと同じ。ニンセー石は大きく、ひょっとしてこれも元は石獅子だったのだろうか? 


グスク広場

ニンセー士広場を登ると頂上につき、そこは広場になっている。ここが政治と祭祀の場所だった。


大殿御嶽 (ウフトゥンヌウタキ)

広場北側には「北・子方位・大殿御嶽」と記された石柱がある。大殿御嶽 (ウフトゥンヌウタキ) なのだが、東風平村史には大御嶽 (安里 = 根人御墓) というのがるが、これにあたるのだろうか?

西側には祠があり「火之神」が祀られている。

大きなガジュマルの木の下に按司ガーがある。

このグスク広場への道は3つある。一つは登ってきたウマチーロードで小城集落からのもの (写真中)、志多伯集落に繋がる道 (写真右)、そして当銘集落への道 (写真左)。このグスクの按司は三つの集落を統治していたので、グスク時代にもあった道ではないかと思う。

志多伯集落への道に行ってみる。道は階段になっている。ここにはちょうど一年前にもきたのだがその時は草が綺麗に刈られていたが (写真右上)、今日は草が腰あたりまで伸び放題だった (写真右下)。向こうに志多伯集落が見える。


金満 (カニマン)・大殿内 (ウフドゥンチ)、上殿内 (ウィードゥンチ)

殿内には二通りの読み方がある。一つはドゥンチで屋敷のことをさし、もう一つはトゥンチで、琉球士族の総地頭職にある親方家を指す尊称。ここに屋敷があったのか、親方家を祀っているのか? 写真左上が金満 (カニマン)・大殿内 (ウフドゥンチ)で、東風平村史にあった金満御嶽のことだろう。左下が上殿内 (ウィードゥンチ)だ。これらはグスク時代ではなく、第二尚氏琉球王朝時代のものだろう。

名称がわからない拝所も幾つかある。


テノ蔵之殿 (テミグラヌトゥン) / サンクチュアリゾーン(聖域)

一度グスク広場に戻り、今度は当銘集落方面に向かう道を進む。グスク広場への入り口付近にフェンスで囲まれ、入口には立ち入り禁止の看板がある。サンクチュアリゾーン(聖域) という場所だ。ハブやハチの危険がある聖域で立ち入り禁止看板が出ていたが、注意しながら、奥に入って行くと拝所や古墓がある。どれがテノ蔵之殿かは書かれていないが、この場所全体がそうなのであろう。(多分、ちゃんとした祠がある写真右上がテノ蔵之殿だろう。)


幸地毛 (コーチモー)

この道を当銘集落を目指し降りていく。前方に小さな森が見えてきた。あれが幸地毛 (コーチモー) だ。毛 (モー) は森という意味。


幸地之御嶽 (コーチヌウタキ)

幸地毛 (コーチモー) の入り口付近に祠があり、その中に火の神は祀られている。おそらくここが、幸地之御嶽 (コーチヌウタキ) だろう。


縁者お墓

幸地毛 (コーチモー) の中には道があり、そこを辿っていくとちょっとした空間が広がりそこに幾つかの墓がある。東風平村史では縁者お墓とあるが、縁者とはどの様な人であったのだろう?

これで、当銘蔵城 (テミグラグスク) の小城と当銘地区を廻り終えた。もう一つの地区の赤石の森も訪れたのだが、これは志多伯集落訪問記に含めることにする。


次は当銘集落にある文化財を訪れる。


当銘公民館・農村公園

公民館の横には農村公園がある。その片隅に酸素ボンベの鐘がぶら下げられている。戦後に使われたものだ。やはりここがかつての村屋 (ムラヤー) であった名残だ。

集落内には数軒、沖縄伝統の家屋が残っている。窓などは冊子に変わってはいるが、沖縄の情緒ある赤瓦の屋根はそのままだ。


当銘之嶽

大きな古いガジュマルの根本にこの御嶽があった。ガジュマルは三百年の樹齢を持っているそうだ。今まで見たガジュマルの中では一番古い。

この御嶽に祀られているのは孫殿威部 (ソントンヌイベ) で孫殿 (ソントン) とは尊敦 (ソントン) と同じと考えられ、これは源為朝の子と伝わる舜天王 (1166年-1237年) の神号と同じだ。それで、この御嶽を舜天王の墓ではないかという説もある。舜天王の墓は北中村村にあるし、なぜここにあるのかは信じられないのだが、それに関連したことがあったのではとも思う。東風平村史にはこの当銘之嶽についてかなり詳しく記載がある。これを読むと集落間、門中間の関係や時代の変化がよくわかる。実際にこの御嶽を見て、その構造から村史の記述を解きほぐしていく。

舜天王統は三代目の義本まで続くが、1259年に、王位を英祖に譲り、ここから英祖応答が始まる。王位を譲ったとあるが、この時代の文献はほとんどなく、信憑性については低いと思う。舜天王も実在の人物かは議論されているのだが、この一族は英祖王統からのがれ、この地に移動してきたとも考えられる。その子孫が当銘蔵按司かもしれない。当銘蔵按司の全盛時代は14世紀半ばから末なので、英祖応答初期にここに移ってきたとすると、三世代目ぐらいのの時代だろう。


御嶽は上段と下段に分かれている。


兼東尋常小学校跡

尋常井を探すが見当たらない。134号道路沿いにある様に地図にはなっていたが、なんせ大まかな地図なので正確な場所は特定できない。しばらく行ったり来たりしていると、小学校後の石碑を見つけた。兼東尋常小学校があった場所。現在は保育所になっている。


中之井 (ナカヌカー)

尋常井はここからきているのだ。この近くにきっとあるはずと、少しは範囲を広げて探すと、道路から奥まったところにあった。香炉がないのだがここは井戸のところまで工事中なので、一時的に撤去されているのかもしれない。後から調べるとここは尋常井ではなく中之井 (ナカヌカー)であった。


尋常井 (10月13日 訪問)

10月13日に志多伯集落を訪問した帰りに再度探すと、尋常小学校跡に建っている保育所の裏側に尋常井が見つかった。コンクリートで囲まれて作画されているが中は石積みの円形の井戸が残っている。ここにも香炉が置かれているので、部落の人たちの御願の対象となっている井戸だ。


西之井 (イリヌカー)

文字通り当銘集落の西側にある。ちょうどバス停のところだが、この停留所は西河となっていた。


仲間ガー

134号道路の歩道に井戸がある。蓋が閉められているので、形式保存ではなく、ここに井戸がまだあるのだ。香炉が置かれてあるので、拝所としての井戸だが、多分、仲間ガーと思われる。


新井 (ミーガー)

集落内にも井戸がある。柵で囲まれている。中を見ると大きな井戸だ。井戸の前にはブロックが置かれている。香炉として使っているのだろうか? 

今日はこれでおしまいにするが、見つからなかった文化財がいくつかある。次回は隣の集落の志多伯にくるので、それまでに調べれば、ここも残りの文化財探しに訪れる予定だ。


見落としていた文化財を10月13日に志多伯集落訪問の帰りに立ち寄った。


樋川井 (ヒザーガー)  (10月13日 訪問)

当銘蔵城 (テミグラグスク) の小城にあるクサティムイの丘陵の斜面下に大きな井戸跡がある。よほど大切な井戸なのだろう。立派な建物で囲われている。グスク時代から現在まで集落の人にとっての重要な生活用水や祭祀の聖水として使われてきたのだろう。沖縄の人の水に対しての想いがよくわかる。


我謝之井 (ガジャヌガー)  (10月13日 訪問)

当銘集落の北側の丘陵の下側に位置している。この井戸もしっかりと囲われているが、中を見るとやはり石積みの丸い井戸が残っている。


安里井 (アサトゥカー)  (10月13日 訪問)

当銘蔵城 (テミグラグスク) の西、幸地毛 (コーチモー)との間にある井戸跡で、現在は井戸はなくなってしまい、形式保存されている。



参考文献