月の詩情
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20180830 【月の詩情(1/12)】 より
白居易
はじめに
古来、和漢の詩歌において、自然の美を対象とする際に「雪月花」という言葉が使われる。「雪月花」の日本における初出は『万葉集』巻十八に残る大伴家持の歌。「宴席詠雪月梅花歌一首」と題して、「雪の上に 照れる月夜に 梅の花折りて贈らむ 愛しき子もがも」という歌である。すなわち月の明るい折に、雪と花をあわせたものを提示するという遊戯的な設定を和歌の題材としたものである。
一方中国においては、白居易の詩「寄殷協律」の一句「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶ふ)」による語とされている。殷協律は白居易が江南にいたときの部下であり、長安からこの詩を贈ったものである。この詩における「雪月花の時」は、それぞれの景物の美しいとき、すなわち四季折々を指す語であった。
本稿では、俳句において表現される月の詩情について考えてみたい。周知のように俳句の遠源は和歌にあり、自然の機微や人情を述べる詩形であることに変りはない。万葉集以来、和歌でとられた形態「寄物沈思」は、俳句においても変らない。俳句における月の詩情表現を論じるに当って、やはり和歌における扱いをところどころで言及することになる。 本文で対象とする俳句作者は、江戸期からは、芭蕉、蕪村、一茶の三人を、近現代からは飯田蛇笏をとり上げる。飯田蛇笏にする理由は、彼の生涯が自然豊かな故郷の山梨に土着したもので、生老病死の多様な局面が現れているからである。
俳句表現の大まかな変遷を要約すると、芭蕉では和漢の古典を踏まえる、蕪村ではそれに加えて物語絵巻の視点が加わる、一茶においては庶民感覚が濃厚に出る。近代の明治になると俳句革新を先導した子規においては、蕪村の影響を含めて画家的視点・写生が強調される。蛇笏では、古典を意識することは稀になり、身辺の素材の客観写生が主体になる。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20180831 【月の詩情(2/12)】
月の表現
日本の詩歌において月が現れるのは、万葉集からのようである。記紀歌謡には、月が女性の月経に掛けて詠われているのみで、美しさの表現は見当らない。
月が喚起する人間の感情、或は月が象徴するものとして、大きくは幻想と狂気があろう。
ただ日本の詩歌では、西欧と異なり狂気の表現は少なく、内省を促す素材になることが多いようである。特筆すべきは、月の様々な形態が歌語になって和歌や俳句に詠まれていることである。日本の詩歌の特長といえる。それは、俳句の歳時記の季語とその傍題を見ればよく分る。望月、三日月、有明月、芋明月、立待月、臥待月、後の月、おぼろ月 等々。
ところで月を見て湧き起る典型的な感情のひとつは、望郷の念であろう。次の歌はあまりに有名である。
あまの原ふりさけみれば春日なるみかさの山にいでし月かも
古今和歌集・阿倍仲麻呂[
この歌は、天平勝宝五年(西暦七五三年)遣唐使の任を終えて帰国する仲麻呂が、送別の宴席において王維ら友人の前で、日本語で詠ったとされる。良く知られているように、仲麻呂は唐で科挙に合格し唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。現在、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江にある北固山の歌碑には、この歌を漢詩の五言絶句の形で詠ったものが刻まれている。
和歌において月をこよなく愛した歌人の代表は、西行であった。一般に西行は、花と月の歌人と言われている。西行の月の歌は、芭蕉や蕪村の俳諧(俳句)に大きな影響を与えた。本歌取の例を以下にあげる。俳句の左側に本歌の西行作品を『山家集』から示す。例が多いので、それぞれ一例ずつにとどめる。
雲折々人をやすむる月見哉 芭蕉
なかなかに時々雲のかかるこそ月をもてなす飾りなりけれ 『山家集』
耳さむし其もち月の頃留(どま)り 蕪村
願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ 『山家集』
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20180901 【月の詩情(3/12)】
蕪村と俳画
古典に拠る
江戸期の俳諧と明治以降の俳句との大きな違いは、前者では和漢の古典を大いに採り入れているのに対して、後者ではほとんどそれが見られないという点である。俳諧の時代には、連衆による歌仙制作が中心であったが、俳句の時代には個人主体の客観写生が普及し、歌仙形式が見捨てられたという背景もある。
ここでは和漢の古典を踏んだ俳句の例を挙げる。特に芭蕉と蕪村に多い。
□謡曲を踏む
月やその鉢木(はちのき)の日のした面 芭蕉
芭蕉の弟子・沾圃(せんぽ)の父・古将監の能『鉢木』の舞台を回顧して詠んだもので、古将監が演じたシテ佐野源左衛門常世の面なしの顔が思い出される、という。した面は「直(ひた)面」の 江戸なまり。
座頭かと人に見られて月見かな 芭蕉
狂言「月見座頭」に掛ける。狂言の座頭は、一人の月見客から優しくされた後、突き飛ばされ杖を放り投げられる。人間の二面性を描く凄まじい演目であり、句にも月の不気味な面が反映されている。
壬生寺の猿うらみ啼けおぼろ月 蕪村
壬生狂言「靱猿(うつぼざる)」を踏む。大名が猿の皮をよこせと猿引きを脅す場面がある。句は「おぼろ月」ととり合せることで不合理な非情さを表現している。
鬼老(おい)て河原の院の月に泣ク 蕪村
河原の院とは、源融の邸宅。謡曲「夕顔」「融」を踏む。句の鬼は、鬼籍に入った源融を差し、昔住んだ邸宅の空の月を見て栄華を偲んで泣く、という意味であろう。月の醸す情緒を活かした句である。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20180902 【月の詩情(4/12)】より
□漢詩・漢籍・伝説を踏む
芭蕉、蕪村、一茶の中では、蕪村の作品に圧倒的に多い。蕪村は漢詩文を自作するほど漢学の教養を備えており、芭蕉以上であったことが、作品の多さからも分る。
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり 芭蕉
杜牧の「早行」(「鞭を垂れて馬に信(まか)せて行く。数里いまだ鶏鳴ならず。林下に残夢を帯び、葉の飛ぶとき忽ち驚く」)を踏む。芭蕉の『真蹟懐紙』には、「夜深に宿を出でて明けんと せしほどに、杜牧が馬鞍の吟をおもふ」とある。
菜の花や月は東に日は西に 蕪村
日と月の対称的大景を詠った先行作(陶淵明、李白、人麻呂など)の系譜につながる。
蕪村の時代(明和年間)に出版された『山家鳥虫歌』に丹後地方の盆踊り歌として、
「月は東にすばる は西に、いとし殿御(とのご)は真ん中に」が載っている。
また李白(古風)に「日西月復東」の一節あり。
汗くさき兜にかかる月よ哉 一茶
前書に「六月」とあるが、詩経小雅の詩篇名。これは周の宣王が酷暑の六月に北伐を命じ、
凱旋した将軍を称美する詩。句は凱旋した月夜の将軍をリアルに描いた。
□和歌(西行以外)を踏む
今宵誰よし野の月も十六里 芭蕉
『新古今集』源頼政の歌「今宵たれすずふく風を身にしめて吉野の嶽(たけ)に月を
見るらむ」を本歌とする。伊賀上野「無名庵」にて月見の宴を催した折の句で、
伊賀上野から吉野までは十六里の道のりだ、と詠んだ。
むめのかの立(たち)のぼりてや月の暈(かさ) 蕪村
藤原定家「大空は梅の匂ひに霞みつつ曇りもはてぬ春の夜の月」(新古今集)の本歌取。
水の月やよ望(もち)にふる雪歟(か)とぞ 蕪村
万葉集・高橋虫麻呂の歌「不尽のねに降り置く雪は水無月の十五日(もち)に消ぬればその夜
降りけり」を本歌とする。水面を照らす名月の光を望にふる雪と見立てた
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20180903 【月の詩情(5/12)】より
□日本の物語・随筆・伝説を踏む
影は天の下てる姫か月のかほ 芭蕉
『古事記』では、高比売命のまたの名が、下光比売命(下照姫)になっている。
大国主神の娘で天稚彦の妻。葦原中国を乗っ取ろうとして天上からの矢で射殺された夫を喪屋をつくって八日八夜歌舞してとむらったという。
見る影やまだ片なりも宵月夜 芭蕉
「片なり」は「片生り」で未成熟のこと。『源氏物語』玉鬘の巻を踏む。
月影に映る若い女の子を初々しい宵の月に譬えた。
ふたり寝の蚊屋もる月のせうと達 蕪村
『伊勢物語』五段の「人をすゑてまもらせた」兄弟の面影だが、「ふたり」とは妹と兄のことだろう。「せうと」は「兄弟」。前書に和歌大題の「逢不逢恋」あり。
庵の月主(あるじ)を問へば芋掘りに 蕪村
『徒然草』六十段(僧坊を百貫で売りすべて好物の芋に換えてしまったという盛親僧都)を
素材にした。思わず笑ってしまう。
梅さくや平(へい)親王(しんわう)の御月夜 一茶
平親王は平将門のこと。天慶二年に反乱を起こし、下総国猿島に偽宮を造り、新皇と称した。
将門を守り本尊とする西林寺を訪れた際の挨拶句。将門の幻想を月夜が象徴する。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20180904 【月の詩情(6/12)】 より
盆の月
画賛句について
俳句を賛した簡略な絵(草画)を俳画と呼ぶが、画賛句は絵を賛した俳句のことである。談林俳諧においては井原西鶴も「画賛十二ヶ月」など俳画の連作を作っている。松尾芭蕉も俳画を残しており、門人たちも多くが俳画をよくした。近世後期には、文人画の大成者である与謝蕪村が『おくのほそ道図屏風』や『若竹図』などを描き、俳画を芸術の様式として完成させた。ここでは月の出る画賛句を見ておく。
月花もなくて酒のむひとり哉 芭蕉
この画中の人物は、通俗的な月花の風流を避けて、孤独穏逸の酒を飲んでいる。
月か花かとへど四睡の鼾哉 芭蕉
天宥法印筆「四睡図」への画賛。この図の心は真如の月か風流の花かと問うたら、答えはただ豊干・寒山・拾得・虎の鼾だった。これが悟達の境地。
春もややけしきととのふ月と梅 芭蕉
空には朧月、地には梅の莟や花と、春の気配がととのってきたよ、との意。
涼しさに麦を月夜の卯兵衛哉 蕪村
「月」に「搗く」を掛ける。月の中の兎が麦を搗いているイメージと重ねている。
四五人に月落(おち)かかるおどりかな 蕪村
「英一蝶が画に賛望れて」の前書あり。英一蝶は狩野派に学び風俗画に優れた江戸の画家。句からも情景が浮かんでくる。
雪月花つゐに三世のちぎりかな 蕪村
これは「牛若・弁慶図」の自画賛句。三世のちぎりとは、過去・現在・未来にわたる主従の深いつながりのことで、謡曲「橋弁慶」を踏む。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20180905 【月の詩情(7/12)】より
おぼろ月
物語絵巻的作り
与謝蕪村は南宋画(文人画)をよくし、その力量は国宝に指定される作品があるほど高いものであった。つまり絵師としての想像力や表現力に秀でていた。それが俳句作法にも顕著に表れた。幻想的物語絵巻的作りである。古典に拠らないものでもその特徴を見ることができる。蕪村句の例をあげる。いちいちの説明は不要であろう。
女倶(ぐ)して内裏拝まんおぼろ月
賊舟(ぞくしゆう)をよせぬ御船(みふね)や夏の月
盗人の首領歌よむけふの月
水仙に狐あそぶや宵月夜
のり合(あひ)に渡唐(とたう)の僧や冬の月
蕪村俳句を高く評価し、世に広く知らしめた正岡子規にも蕪村のこの作法を模倣したと思える次のような作品がある。
大名のしのびありきや朧月
女負うて川渡りけり朧月
月千里馬上に小手をかざしけり
長き夜を月取る猿の思案かな
辻君の辻に立待月夜かな
子規も素朴な草花の水彩画を句に配した俳画を描いている。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20180906 【月の詩情(8/12)】より
富士と月
人生の諸局面に現れる月
ここでは飯田蛇笏の生涯のいくつかの局面で詠まれた月の俳句を中心に、月の詩情を鑑賞してみたい。
蛇笏は山梨県東八代郡五成村(のち境川村、現笛吹市境川町小黒坂)の大地主の農家に生まれた。ここが終生の定住地であった。住まいを山盧と名付けた。故郷の月の情景を詠んだ俳句から見てゆこう。
□故郷の月
ある夜月に富士大形(たいぎやう)の寒さかな 『山盧集』
富士吉田から仰ぎ見た富士という自註がある。蛇笏の故郷・甲府盆地から見る裏富士は近く大きく眼前に迫る。月光故に寒さも一入である。蛇笏この時二十九歳。
月影に種井(たなゐ)ひまなくながれけり 『山盧集』
種蒔用の籾を俵などに入れて数週間水につけておく池が「種井」である。夜分にその水流を
眺める蛇笏の姿勢に、農事への敬虔さが読みとれる。月影の効果である。
河鹿なきおそ月滝をてらしけり 『心像』
遅く空にのぼった月が滝のかかる渓流を照らしている。その岩の間でアオガエル科の河鹿が美しい声で鳴いている。光と音の情景。
寒の月白炎曳いて山をいづ 『家郷の霧』
故郷の山里にあって山稜を出る凄艶な月を活写した。蛇笏の身の内の昂りを反映しているようだ。「白炎曳いて」からは、雪山を想像する。
風の吹く弓張月に春祭 『椿花集』
弓張月は弦月(上弦あるいは下弦)の別称。まだ寒さが残り緊張のある夜の春祭とよく照合する。
藪喬木(やぶたかぎ)鴉がとびて山に月 『椿花集』
最晩年の作。闇をなす藪喬木の静寂を破って真っ黒な鴉がとび立った。中川宗淵老師は
「寂滅現前に動くものあり」との絶妙な評をつけた。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20180907 【月の詩情(9/12)】 より
山盧養魚池
□家庭生活の窺える句
埋(うづみ)火(び)に妻や花月の情にぶし 『山盧集』
大正四年の作。夫人・菊乃の教養を軽蔑するような険しい内容だが、蛇笏の身勝手な思い込み である。なお、夫人(四男・龍太の母)は、亡くなる前日、龍太を病床に呼んで、「私には文芸のことなどなにもわからない、おとうさんになんの手助けもできなかった、それだけが心残りだ」とおっしゃったという。なんとも哀切!
葱洗ふや月ほのぼのと深雪竹 『山盧集』
大正八年の作。子息の龍太の随筆に「南アルプスの山々にうっすらと新雪が来ると、葱は美味しくなる。山地の葱に一団と風味が出る。」とある。月の効果が絶妙!
新月に牧笛をふくわらべかな 『山盧集』
昭和三年の作。この年に蛇笏の五人の息子たちの内で「わらべ」と呼べる年頃は、五男・五夫(五歳)のことであろう。新月の見える庭先で牧笛を吹いているのだ。
嬰児だいてさきはひはずむ初月夜 『心像』
昭和十九年「嬰兒賦」六句の内。孫(長男・聡一郎の長女・公子)のこと。この時、聡一郎は遠く戦地の満蒙にいた。初月夜は陰暦八月初めごろの月夜を差す。哀しい!
養魚池の水月を吹く山おろし 『雪峡』
水面に映る月と山から吹き下ろす風を詠んだ。昭和二十三年作。山盧の裏には渓流から水を
引いた二十坪弱の池(山廬養魚池)があり、真鯉、ヤマメ、虹鱒、ハヤなどを飼っていた。
軒菖蒲うす目の月の行方あり 『家郷の霧』
軒菖蒲は、家から邪気を除いたり火災を起こさないように端午の節句に菖蒲を軒に挿す
風習である。西の方にゆく朝方の月を薄目をしたと擬人で形容した。昭和三十年作。
後山の梅雨月夜なる青葉木莬 『椿花集』
後山は山盧の裏の小さな渓流を隔てた雑木林を差す。月夜に青葉木莬が鳴いている。
「後山」は他にも出てくるが、「ゴザン」あるいは「コーザン」と読むらしい。
次に子息の死に遭った際(逆縁)の月の作品をいくつかあげる。
次男・数馬病死に際しては、悲しみで俳句などとても詠めないが、俳句に生涯を賭けた身としては詠まざるを得ないとして、『白嶽』昭和十六年に「病院と死」と題する大作七十五句を載せている。この中から月の出る句を三例あげる。月は悲しみの象徴。
楡青葉窗幽うして月も病む 『白嶽』
夏月おち欷歔のメロディー部屋の扉に 『白嶽』
夏月黄に昇天したる吾子の魂 『白嶽』
また長男・聡一郎(俳号・鵬生)の戦死に際しては、昭和二十二年・鵬生抄の内に
盆の月子は戦場のつゆときゆ 『雪峡』
がある。この句に限らず一連十四句の作品は心情に忠実ながら、平凡な表現に留まっている。悲しみの極みにあっては、慟哭の表現などとてもできないのだ。正直なのだ。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20180908 【月の詩情(10/12)】より
三日月
□旅行詠
昭和十五年に朝鮮半島経由中国大陸に旅行した。
春耕の鞭に月まひ風ふけり 『白嶽』
満州の大地を農夫の鞭に従って馬が耕している黄昏時の情景。鞭に月が舞いあがるような景色の表現が新鮮。
東風の月禱りの鐘もならざりき 『白嶽』
「はるぴんにて」有風邸。精神的に荒涼とした情景が浮かぶ。
月さして馬車の鈴の鳴りつづく 『白嶽』
「錦州にて」の内。月光と鈴の音の組合せが幻想的ながらリアルでもある。
旅舎の窗遅月さしてリラの花 『白嶽』
「古都北京」Yホテル。ライラックの花と遅月の取合せが、古都北京によく合う。
燭光に月かげかはす鴉片窟 『白嶽』
「古都北京」陰湿なる陋巷二句の内。阿片窟のともし火と月の光の取合せが、幻想的な頽廃美を醸し出している。大陸の旅では底の生活まで見てきたようだ。
河港の帆昏れつつ楡の月病めり 『白嶽』
「楡と河港」の内。座五「月病めり」は、世情に対する蛇笏の感性の表現である。
三日月は砂丘にリラの花あかり 『白嶽』
「戦跡巡拝」の内。砂丘の空に三日月がかかりライラックの花が少し明るんでいる。
次に国内旅行での作。東にも西にもよく出かけた。
月うすき東大寺みち春の夜 『旅ゆく諷詠』
昭和十年作。広々とした東大寺の境内がイメージされる。
風あらぶ臥待月の山湯かな 『山響集』
昭和十四年作・白骨温泉。臥待月は陰暦八月十九日の月。風が荒ぶと月は更に皓皓と山峡を照らす。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20180909 【月の詩情(11/12)】より
弓張月
夏月に古潭の窗は童らの燈 『雪峡』
昭和二十五年・北方覉旅の諷詠。北海道旭川市の神居古潭の夏の夜の情景か。
鳴神の去る噴煙に三日の月 『雪峡』
「信濃浅間」の前書。浅間山の噴煙が三日月のかかる夜空に起ち上る情景が鮮やか。
春の月雲洗はれしほとりとも 『家郷の霧』
袋田観光。夜になり春月が、袋田の滝辺りからのぼったのだろう。「雲洗はれし」という措辞からの理解である。
春の日は無限抱擁月をさへ 『家郷の霧』
東京駅から一路西下す。春日が遍満する空に浮かぶ月の情景を、無限抱擁と感受した。
月てらす日の没るなべに比叡の春 『家郷の霧』
京都洛北に遊ぶ。仏教の聖地比叡山にも春が来て、没日の空に月も出ている。
花の月全島死するごとくなり 『家郷の霧』
魚山と長島の内(島内一泊)。動物の気配が全くしない桜の花と月の静謐な情景。
象潟の弓張月や曇れども 『家郷の霧』
秋田より日本海沿いに新潟への車中。はるかに芭蕉の旅を偲んだか。
初月に京女をつれて眞葛原 『椿花集』
京都には晩年になってからも行った。初月は陰暦八月初めのころの月。眞葛原は、東山区北部の円山公園の一帯を差す。初月、京女、眞葛原の取合せが艶めかしい。
□病中にあって
昭和三十六年三月(七十六歳)に負傷し、以後殆んど病臥の状態になった。
ねむる間に葉月過ぎるか盆の月 『椿花集』
前書に「病中」とある晩年(昭和三十六年)の作。身体は不如意でうたたねに時間が過ぎてゆく。が頭脳はまだ明晰であり、盆の月に感じる時節の経過に、切歯扼腕する思いが表現されている。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20180910 【月の詩情(12/12)】より
□逝去(昭和三十七年十月三日)
四男の龍太は、父母の死に際して次の追悼句を詠んだ。いずれも月が入っている点、印象的である。月の持つ「はるけさ・懐かしさ・哀しさ」といった象徴性と浄化作用が現れている。リアリティに裏打ちされていて身近に感じられる秀句。
月光に泛べる骨のやさしさよ
『麓の人』(父・蛇笏の死)
母逝きしのちの肌着の月明り
『麓の人』(母・菊乃の死)
おわりに
俳句において月と取り合せることで喚起されるさまざまの詩情を見てきた。現代の読者にとっては、飯田蛇笏の諸例が一層身近に感じられるのではないか。
なお古典を踏まえた俳句は、現代俳人も作っている。国文学を専門とした川崎展宏は、古典文学からの本歌取りを得意とした。月の俳句にも次のような作品がある。
業平忌月やあらぬの月もなく
これは在原業平の歌「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして」を踏むユーモアの句。