蕪村と子規
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20111031【絶筆三句―蕪村と子規―】 より
蕪村と子規
偶然にもと言うべきか、さもありなんと言うべきか、蕪村と子規の辞世三句が作られた情況は、実によく似ている。
蕪村の臨終に際して、辞世の三句は弟子の几薫が看取った。子規の絶筆三句は弟子の碧梧東と妹・律が支えて書かれた。両者を見比べて見よう。
蕪村の絶筆三句の様子を几薫の「夜半翁終焉記」から引く。
廿四日の夜は病体いと静かに、言語も常にかはらず。やをら月渓をちかづけて、病中の吟あり。いそぎ筆とるべしと聞こゆるにぞ、やがて筆硯料紙やうのものとり出る間も心あはただしく、吟声を窺ふに、
冬鶯むかし王維が垣根哉 うぐひすや何ごそつかす藪の霜
ときこえつつ猶工案のやうすなり。しばらくありて又、
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
こは初春の題を置くべしとぞ。此三句を生涯語の限りとし、睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまひけり。
次に子規の辞世三句執筆の様子を、弟子の河東碧梧東の記録「君が絶筆」から部分的に引いてみる。
・・・病人は左手で板の左下側を持ち添へ、上は妹君に持たせて、 いきなり中央へ、
糸瓜咲てとすらすらと書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書きにくさうにあつたので、ここで墨をついで又筆を渡すと、こんど糸瓜咲てより少し下げて痰のつまりし
まで又一息に書けた。・・・・・同じ位の高さに仏かなと書かれたので、予は覚えず胸を刺されるやうに感じた。・・・・
水のと書いて 取らざりきは右側へ書き流して、例の通り筆を投げすてたが、・・・・。
こうして書かれた三句は、周知の
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水も取らざりき
であった。
子規は『俳人蕪村』を書いて、蕪村の俳句を、積極的美、客観的美、人事的美、理想的美、複雑的美、精細的美、用語、句法、句調、文法、材料、縁語及譬喩、時代、履歴性行等 の観点から分析し、蕪村を称揚した。これにより蕪村は、現代の世に広く知られることとなった。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20111027 【子規の墓】 より
東京田端大龍寺にて
四国愛媛出身の正岡家の墓所は、子規が葬られた東京田端の大龍寺にある。子規居士之墓を中に、向かって右手に正岡八重墓、左手に正岡氏累世墓と三基にまとめられている。こうして見ると正岡一族の墓所は子規を中心に据えて故郷からはるかに離れた東京田端に移したことになる。墓は第二次大戦の東京空襲により焼けて黒ずんでいる。
子規自身がしたためた墓碑の文章が立派な石碑に作り替えられている。(昭和9年版、昭和11年版、平成19年版 と三回)その真筆の文章とは、よく知られた次のものである。
正岡常規又ノ名ハ處之助又ノ名ハ升
又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人
又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東
京根岸ニ住ス父隼太松山藩御
馬廻加番タリ、卒ス母大原氏ニ養
ハル日本新聞社員タリ明治三十□年
□月□日没ス享年三十□月給四十圓
十月の「短歌人」東京歌会が池袋で開催されたついでに、田端の大龍寺を訪ねて上記のことを確かめた。根岸の子規庵には何度か行っていたのだが、子規の墓処は今回が初めてである。
母八重の墓石かたむく秋の雨
糸瓜忌や墓碑に没年月日なし
子規の墓訪れたくて交番に大龍寺までの道筋を問ふ
子規の墓碑真筆なれば没年と月日の数字空白にして
弓手に母馬手に一族いただきて子規は眠れる田端の寺に
肖像とチェロのレリーフ墓碑にあり我の知らざるチェリストの墓
ぎんなんをあまた拾へる老婆あり寺のとなりの八幡神社