「平戸・長崎三泊四日」3 10月5日平戸(1)キリシタン①関連遺産
①「平戸ザビエル記念教会」昭和6年(1931)建設
ザビエルが平戸に滞在した期間はごく短い。1550年8月と9月、1551年3月のみ。しかし、影響は大きい。例えば、日本初の司祭になったセバスティアン・キムラ(1565-1622年)。木村家は、ザビエルが1550年に平戸に上陸したとき、領主松浦隆信の命令により自宅でザビエルの面倒をみる。ザビエルは、木村家の当主に強い影響を与えた。ザビエルが平戸で洗礼したキリシタン100人の中でも最も早く洗礼を受けたのが木村であり、アントニオという洗礼名を授かった。
アントニオの孫のセバスティアンは1565年生まれで早くして洗礼を受け、1585年、19歳でイエズス会に入会。しかし、秀吉が1587年7月24日に『伴天連追放令』を発令し、日本におけるキリスト教普及活動は困難に直面する。そうした環境の中、セバスティアン・キムラは宣教師たちが避難した島原、天草などで勉学を続け、1595年に日本人として初めてマカオにあるイエズス会修道所で哲学、神学を学ぶことになった。1600年、関ケ原の戦いで徳川家康が勝利すると、セバスティアン・キムラは平和が戻ったとしてマカオから長崎に戻り、1601年9月、36歳の時に司祭に任命される。最初の任地は平戸の河内浦だった。しかし、1614年にはキリスト教の迫害が激しくなり多くの宣教師が国外に追放された。日本人信者により秘密裏に布教活動は続けられたが、1621年6月29日、セバスティアンは朝鮮から奴隷として連れて来られた女中に裏切られ、密告された。セバスチャン・キムラは他の信者とともに捕えられ、彼らは1622年9月西坂の丘で打ち首や生きたまま焼かれて殉死した。
ちなみに、日本最初の殉教者となったのは「マリアおせん」。平戸の女性で、主君から禁じられていた十字架の丘への参拝を辞めないという理由で、1559年、武士の主人に首をはねられた。
②「フランシスコ・ザビエル記念碑」 日本渡来400年を記念して建造
崎方公園のなかほどの「フランシスコ・ザビエル記念碑広場」
③「殉教の碑」 焼罪(やいざ)史跡公園
ナポリ出身のイタリア人宣教師カミロ・コンスタンツォ神父は、1614年の禁教令でマカオへ追放されたが、1621年に日本に再潜入。佐賀の不動山や唐津で活動し、翌年、平戸領内で捕えられ、田平のこの地で火刑となった。碑文にはこうある。
「カミロ神父は、神の助けによって恐れることなく、自分の命を神に捧げる喜びにひとみを輝かせ、「すべての民よ、神をほめたたえよ」と歌い「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな・・・・」と5回祈って、すべての人の父のふところへ帰天した。
カミロ神父は、誰をも恨まず、すべての人が幸せに、また永遠の命に生きることを願って命を捧げた。それは人間として、美しく、尊い、生と死のありようであった。」
④「田平天主堂」
1915年から3年の歳月をかけて、信者達の手によって建設されたロマネスク様式の荘厳な赤レンガづくりの教会。「瀬戸山天主堂」とも呼ばれており、教会堂棟梁・鉄川与助の代表作。国指定重要文化財。
「平戸殉教者顕彰慰霊之碑」1981年、献堂50周年を記念して建造
平戸ザビエル記念教会
平戸ザビエル記念教会
「フランシスコ・ザビエル像」1971年、献堂40周年を記念して建造
「ルルド」2006年、献堂75周年とザビエル生誕500周年を記念して建設
「ザビエル記念碑」
「殉教の碑」焼罪史跡公園
「田平天主堂」
「田平天主堂」
「田平天主堂」