潤い豊かな詩歌と絵画 与謝 蕪村
http://www.osaka-doukiren.jp/series/series02/5079 【潤い豊かな詩歌と絵画 与謝 蕪村 その1】 より
はじめに
松尾芭蕉が亡くなって67年、1716年に生まれた俳人、与謝蕪村は池大雅(いけのたいが)、円山応挙(まるやまおうきょ)と同世代、並び称される画家でもあり、生計の多くは絵を描いて立てていたかもしれない。
没して程なく忘れられていった蕪村の詩歌は、正岡子規に再発見された。
が、子規の唱えた写生主義に引きずられ、その面ばかり強調されてきたのは事実だろう。
おくのほそみち図屏風
確かに蕪村の俳句には絵のような、色彩を帯びた作品は多い。
しかし昭和に入り、自身が詩人の萩原朔太郎はそれらに情感の深さと浪漫性を見出し「郷愁の詩人」として一文を著わした。
岩波文庫から出版されているから、一読をおすすめする。
蕪村の生涯を短く紹介し、幾つかの詩歌を取り上げてその魅力を探ってみよう。
生い立ち
京からほぼ南西に流れてきた淀川が東南に、今の旧淀川(大川)に大きく湾曲する、毛馬閘門(けまこうもん)の近くに、蕪村は生まれたという。
谷村姓というから、庄屋とか村長とか富農の家と考えられるが、丹後から奉公に上がっていた母との間に蕪村が生まれたようだから、彼は肩身の狭い思いで長じたとも想像される。
将軍、吉宗の時代、大阪の都市近辺では、商業資本による農地の買収も進んでいたようで、幼くに母を亡くしていた彼は、たとえ家督を継いだにせよ、早くに土地、家屋敷を手放してしまったようだ。
生涯ほとんど触れもせず、足を踏み入れなかった故郷、蕪村には苦々しい記憶だけが残っていたのだろうか。
絵師、俳諧師への道
20歳で江戸へ出た蕪村は俳人 早野宋阿(はやのそうあ)の「夜半亭」に内弟子として住み込んだ。
宋阿は芭蕉の弟子、宝井其角(たからいきかく)、服部嵐雪(はっとりらんせつ)の門
下で、10年余りは宗匠として京に過ごしたから蕪村はなにがしかの面識を有していたと考えられる。
与謝蕪村の肖像画
彼が27歳の折に亡くなった師は、同じく芭蕉を尊敬する蕪村に「学ぶのは良いが、真似はするな、独自の境地を探れ」と諭す高潔で、優れた指導者だった。
蕪村はこの教えを終生守り通した。
その後、常陸の国、結城で同門の親友の元に逗留し、北関東から東北まで長い旅も続けたが、紀行文を書くこともなかったから、足跡の詳細は不明だ。
が、この頃から絵の注文もいくらかは入ってきていたようだ。
彼の良き理解者であり、庇護者だった俳諧を好む酒造業者、早見晋我(はやみしんが)が没して間もなく、友人にも別れを告げ、京へ向かった。蕪村36歳。
京には優れた絵師が多かったから、居を構えても、絵画の腕を磨くための旅は続き、その名は次第に定まっていった。
母の故郷、丹後にも3年ほど滞在し「与謝」を苗字としたのもこの頃か。
俳諧の弟子も次第に集まり、名古屋などから上ってくる同志もできた。
45歳ほどで妻帯し、娘を一人持つ。
俳諧の師、宋阿門の先輩、高井几圭(たかいきけい)の子、几薫(きとう)は父の没後彼を慕い、蕪村は夜半亭を将来は几薫に譲ろうと決心して2代目を襲名した。55歳になっていた。
蕪村の俳句、詩歌
① 菜の花や月は東に日は西に
ほとんど説明は不要。写生的な句で菜の花畑の情景は容易に目に浮かぶ。「お見事!」と声がかかりそう。
② さみだれや大河を前に家二軒
芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」に比し、うんと絵画的だが、降りしきる雨の中、大河のほとりに頼りなげに寄り添う2軒の小家。蕪村が描き出そうとしたものは何なのか。単なる絵一枚ではなさそうだ。
③ 月天心貧しき町を通りけり
中国の詩「月天心ニ到ル処」から採った。月が頭上に掛っているのだから、もう夜更けだ。
何の用があってかは分からない。貧しげな町に静かに眠る人々の生に思いをいたす詩歌の情がしみじみ感じられる。
④ 易水にねぶか流るゝ寒さかな
「易水(えきすい)」と聞けば、唐詩選を開いた人なら五言絶句「易水送別」が思い浮かぶ。
中国戦国末期、燕(えん)の王、丹は秦の強圧な外交に怒り、忠僕の士、荊軻(けいか)を秦王暗殺に送り込もうとする。
易水は中国北部を流れる大河、そのほとりに喪服を着けて送別の宴を開いた。
荊軻は歌った「風蕭蕭(しょうしょう)として易水寒し 壮士一たび去って 復た還らず」と。
もとより彼の生還などあり得ない。
蕪村が当季によめる句
時は過ぎて唐の時代、はからずもこの地に友を送ることとなった作者はその故事を思い起こし、絶句の紹介は省くが詩をなして、はなむけとしたのだった。
その易水にねぶか(ねぎ)が流れているほどの寒さという。
脳裏に浮かんだ想像の空間をうまくとらえて面白い。
③、④の俳句には天心とか易水という 漢語、中国の固有名詞が登場する。
http://www.osaka-doukiren.jp/series/series02/5082 【潤い豊かな詩歌と絵画 与謝 蕪村 その2】 より
芭蕉は、文章は漢語、和語をないまぜに綴ったが、俳諧、連句に決して漢語を用いなかった。
日本固有の和歌、俳諧は和語でしか成り立たせてならないとの、固い信念があった。
古く、日本には文字が無かったから、中国から漢字がやってきたとき「字」だけでなく、漢文を書き記すことも同時に受け入れた。
だから漢字の音、訓読みを交えて古事記を著わすより、日本書紀を漢文で成立させる方が、漢文を取得しきった当時の知識人にとって容易な作業だったに違いない。
松尾芭蕉と与謝蕪村にゆかりのある
俳句の聖地、金福寺(京都市左京区)
しかし、口伝されてきた和歌は、日本書紀にでも苦労を重ね、字の読みだけを借りて表記し、漢文に翻訳しようとは決してしなかった。
この作業は万葉仮名からひらがなへと発展してゆく。
が、芭蕉にどれほど心酔していても、蕪村はそれを守らず、表したい心象をより力強く人びとに伝えられるなら漢語の使用を手段のひとつと考えた。
蕪村の俳句、詩歌 前回の続き
⑤ 御手討の夫婦(みょうと)なりしを更衣(ころもがえ)
格式ある武家屋敷に仕える若い男女が恋に落ちた。
どのような事情かは分からないが、使用人同士の恋など許されない、不義、密通は重大なご法度の時代。殿様に手討ちにされても仕方ないところだが、そこは人の世、奥方のとりなしがあったか、罪一等を免じられ、所帯を持って町の片隅に暮らしている。
衣がえ、というありふれた作業にいそしむ二人の姿をほほえましく眺める蕪村がいる。
この詩情、何とも良い。
⑥ 凧(いかのぼり)きのふの空の有どころ
難解だが、蕪村のいちにを争う秀作と思う。
昨日、凧があがっていた冬空に今日も一つ。
今日の空はもちろん昨日のそれでない。
これこそ萩原朔太郎が「郷愁」と呼んだ、蕪村の詩歌の骨格だ。
昨日の空はどこへ、問いかける彼の心情は恐ろしい奥行きを持っている。
⑦ 愚に耐えよと窓を暗くす竹の雪
魂の籠らない低俗な俳句が満ち溢れた当時、芭蕉の精神を尊重する蕪村の俳諧は、必ずしも世間全般に受け入れられてなどはなかった。
その風潮に、寂しく孤独に生きる自分を強く感じることもあったろう。
「世の愚かさに耐えよ」自戒の言葉ではない、温和な蕪村の怒りの叫びだ。
彼の心の闇も又深い。
蕪村には数多い俳諧、連句の他に「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」と題する俳句、連句、漢詩の連なった詩歌もある。
字数の関係で掲載できないが、少し触れておこう。
江戸期の淀川は都島の毛馬で、長柄川(中津川とも言う)の細流と大川に分かれていた。
早春の藪入りに船場など、商家に奉公する年はの行かない男女が堤を歩み、実家に帰る姿を、蕪村は幼ないころから見かけていたのだろう。
可愛い少女が茶店の婆さんに晴着を褒められたり、堤を降りて芹の葉を摘んだりしながら、家路を辿る。
歩いていると母の優しさが思われてならぬ。
懐かしい風景の中を歩きに歩き、柳の木立の続く堤を下ると、漸く故郷の家が見えてきた。
もう夕暮れが迫る中、白髪の母が弟を抱いて戸口に寄り、私を待っていてくれる。
「皆も知っているでしょう、私、蕪村の今は亡き親友、炭太祇(たんたいぎ)にこんな句があるのを」
「藪入りの寝るやひとりの親の側」可憐な、優しさのこもった詩一篇だ。
晩年の蕪村
芭蕉のわび、さびの思想を取り戻さねばならない、蕪村は同志と蕉風復活の呼びかけに乗り出し、それはやがて広がってゆく。
折しも、京の北東、一乗寺村の「金福寺(こんぷくじ)」境内に、朽ち果てた「芭蕉庵」の再建計画が持ち上がった。
芭蕉の存命中、彼を深く敬愛する住職、鉄舟和尚はその句を口ずさみ、庵に質素に暮らしていた。
芭蕉庵
蕪村が再興した芭蕉庵
芭蕉が没した後それを「芭蕉庵」と名付け、彼を偲んだ。
住職亡き後の長い間荒れるに任せてあるのを、再建しようというのだ。
還暦を迎えた蕪村も大賛成、力を貸すとともに、名文「洛東芭蕉庵再興記」を表した。
庵を復した蕪村は芭蕉の墓碑も建て「我も死して碑にほとりせむ枯尾花」と詠んだ。
それから7年、京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの住処で、68歳の蕪村に最期の時が迫る。
持病の胸の痛みはいやますばかり。
「旅に病んで夢は枯野を駆け廻る」と詠んだ芭蕉にならって、辞世の句を作ろうとした。
金福寺にある蕪村の墓
死の前日「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」と言い残した。
亡くなったのは暮れの25日、梅が咲いているはずもない。
蕪村の心に浮かんだ初春の一刹那。
夜明けの兆しが庭先のひともと、白梅のあたりからほのぼの感じられる春への思いの中に死を迎えよう。
墓は金福寺の芭蕉庵のすぐ上、小高い山の中腹にある。
おわりに
芭蕉の俳諧について古来研究者は多く、その評価がほぼ定まっているのに、蕪村のそれらはまだ見過ごしにされている部分が多いようだ。
指摘されるよう優れた絵師でもあったから、鑑賞する側に先入観が抜けきらないのかもしれない。
わずかでも、詠み口の異なる俳句を紹介したが、こうしてみても蕪村の詩歌は幅広い、多面的な世界に属していて、芭蕉との相違点の一つと思われる。
蕪村の句には平明な作と、何とも難しいそれが交じり合うが、芭蕉の句にその落差はほとんどないように思われる。
芭蕉は厳しく自らを戒め、俳諧の道を究めようとしたが、蕪村は同じ市井にあっても、肩肘張らず、日常をひたむきに生きる人びとへの眼差しを、いつも忘れなかった。
先ほど紹介した藪入りの少女への思いが、単なる優しさからきたものでないのは明らかだ。
与謝蕪村宅跡
与謝蕪村宅跡(終焉の地)
蕪村に「葱買って枯木の中を帰りけり」の句がある。
寒々とした孤独を感じながらも、彼には帰った家で鍋に煮られる温かなねぎが見える。
そんなありふれた家庭で、貧しいながらも団らんのひと時の持てる幸せ。
何も書き残していないが、筆者にも蕪村の情念には、郷愁ともいうべき亡き母への強い思慕が、常に横たわっていたと思われてならない。