宝井其角
其角俳譜の特色としての即興性(Adobe PDF)
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例えば『其角研究』(『五元集』輪講)に. は、楽堂が「この句はうまいな。このくらいの思い切った句が作れればいい」と発言し、また鳴雪は「私がよく方々の見も. 知らぬ人から慶弔の句を乞われたとき、…其角もこういう句を作っている、 と ...
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朝日日本歴史人物事典の解説
没年:宝永4.2.29(1707.4.1)
生年:寛文1(1661)
江戸前期の俳人。江戸の人。父・東順は近江堅田の農家の出身で,江戸へ出たのち,医をもって膳所藩本多家(膳所藩主か)に仕えた。元の姓は榎下、別号は晋子,宝晋斎,渉川など。15歳ごろから松尾芭蕉に俳諧を学び始め,ほとんど同時期に大顛和尚に詩学と漢籍を,草刈三越に医学を,佐々木玄竜に書を,英 一 蝶に絵を学んでいる。早熟の才子であり,早くから蕉門の中心人物であったが,単に蕉門の雄というにとどまらず元禄俳壇の大立者として活躍した。後年芭蕉は「草庵に梅桜あり,門人に其角嵐雪有り」と記し,其角,服部嵐雪を桃,桜になぞらえて「両の手に桃とさくらや草の餅」と詠んでいる。他門からも蕉門の筆頭と目されており,俳人評判記の『花見車』には「松尾屋の内にて第一の太夫也」と記されている。ただし彼の作風は,「わび」「さび」を特色とする芭蕉の俳諧とはかなり趣を異にしている。これを疑問とする森川許六の質問に芭蕉は,自分の俳諧は閑寂を好んで細く,其角の俳諧は伊達を好んで細い,この細いところが共通すると答えたという。 「十五より酒を飲み出て今日の月」という句があるように,其角は若年から酒を好み,かなりの酒豪であったらしく「大酒に起てものうき袷かな」という二日酔いの句もある。『花見車』に「酒が過ると気ずいにならんして,団十郎が出る,裸でかけ廻らんした事もあり。それゆへなじみのよい客もみなのがれたり」とあるところをみると,酒の上の失敗もかなりあったようだ。芭蕉が「朝顔に我は飯食う男なり」という句を作って,其角の大酒を戒めた話は有名である。こうした豪放洒脱な人柄であっただけに,其角には多くの逸話が残されている。煤竹売りに身をやつした赤穂浪士の大高源吾に対して,「年の瀬や水のながれも人の身も」と詠んだ逸話は有名だが,こうした逸話が重なって,彼は江戸っ子の理想像に祭り上げられていったのである。<参考文献>今泉準一『元禄俳人宝井其角』,石川真弘『蕉門俳人年譜集』,田中善信『元禄の奇才 宝井其角』
(田中善信)
世界大百科事典内の宝井其角の言及
【其角】より
…江戸前期の俳人。別号は晋子,宝晋斎など。姓は母方の榎本を称し,のち宝井と改めた。父は医師竹下東順。江戸に生まれた。草刈三越に医を,大顚和尚に詩,易を学んだという。10代の半ば芭蕉に入門,20歳のころ,おりからの〈天和調(てんなちよう)〉の中で,芭蕉の指導の下に,《田舎之句合(いなかのくあわせ)》《虚栗(みなしぐり)》などを編んだ。その後もよく芭蕉の変風を理解し,《続虚栗》《いつを昔》などに蕉風俳諧の実を示し,《猿蓑(さるみの)》序や《雑談(ぞうたん)集》に俳諧を〈幻術〉として説くなど,彼らしい俳諧,俳人に対する見解を見せている。…
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出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E4%BA%95%E5%85%B6%E8%A7%92 【宝井其角】 より
宝井 其角(たからい きかく、寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日(1707年4月2日。一説には2月29日(4月1日))は、江戸時代前期の俳諧師。本名は竹下侃憲(たけした ただのり)。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)など。
略歴
江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれた[注釈 1]。はじめ、母方の榎下姓を名乗っていたが、のち自ら宝井と改める[2]。なお、姓を榎本とする表記が見られるが誤りとされる[3]。
延宝初年(1673年)、芭蕉に入門。延宝7年(1679年)刊行の『坂東太郎』に発句3句が見え、延宝8年(1680年)以後、『桃青門弟独吟廿歌仙』『田舎之句合』『次韻』『武蔵曲』に入集。天和3年(1683年)『虚栗』を刊行して、漢詩文調流行の一端を担った。貞享3年(1686年)宗匠となり、貞享4年(1687年)『続虚栗』を刊行。その後も『いつを昔』『花摘』『誰が家』『雑談集』を刊行し、『猿蓑』に序文を寄せる。元禄7年(1694年)、芭蕉の死に逢い、追善集『枯尾花』を刊行したほか、点者として『句兄弟』『末若葉』を刊行。後に、洒落風と呼ばれる作風を生み出す。この頃の選集に『三上吟』『焦尾琴』『類柑子』がある。死後、延享4年(1747年)には、発句集『五元集』が刊行された。宝永4年(1707年)、47歳で死去[4]。
酒を好み、作風は派手で、平明かつ口語調の洒落風を起こした。其角没後、其角の作風や地盤は水間沾徳に受け継がれ、其角と沾徳の流れを汲む門人達が、江戸俳諧宗匠の組合・江戸座を結成している。また、其角が点者として用いた点印は、其角から貞佐へ受け継がれたものと、其角から秋色、秋色から湖十へと受け継がれたものが存在する[5]。
1963年(昭和38年)、東京都港区芝二本榎にあった其角の墓は、菩提寺の上行寺の移転に伴い神奈川県伊勢原市に改葬。2015年(平成27年)より、同地で宝井其角俳句大会が催されている[6]。
人物評
「名月や畳の上に松の影」(月岡芳年『月百姿』より)
其角の句を画題とした明治時代の浮世絵。
蕉門十哲の一人に数えられる。『去来抄』に収められた逸話は、芭蕉の其角に対する評価をよく物語っている。
切られたるゆめはまことかのみのあと 其角
去來曰く「其角は誠に作者にて侍る。わずかに、のみの喰ひつきたる事、たれかかくは謂ひつくさん」。先師曰く「しかり。かれは定家の卿也。さしてもなき事を、ことごとしくいひつらね侍る、ときこへし評に似たり」。
(現代語訳)「其角は本当に巧みですね。ちょっと、ノミが喰いついただけの事を、誰がここまで言い尽くせるでしょう」と向井去来がいうと、芭蕉が応えて、「確かに。彼は藤原定家卿だよ。ちょっとしたことを、大げさに表現する(=修辞が巧みである)と評されたのに似ているね」と言った。
堀切実は、其角が閑寂と伊達を特徴とする俳風から、奇警な見立てや謎めいた句作りを喜ぶ洒落風へと変遷したと指摘し、「はじめ師の「閑寂」にも大いに共鳴していた其角であったが、師の没後は、迷うことなく「伊達」にして「寛闊」な境地に遊んだのであった」と評している[7]。
逸話
赤穂浪士討ち入り前夜、四十七士の一人・大高忠雄(源吾)と会い、煤竹売りに身をやつした姿を憐れんで「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対して源吾は、「あした待たるるその宝船」と返して、討ち入り決行をほのめかしたとされる(歌舞伎『松浦の太鼓』)。これについて作家の丸谷才一は、渋好みの蕉門でも、酒に弱くて感激家の其角が、芝居仕立ての人物として江戸っ子にあたったのだろうと解している。
其角同席の場で郭の主人が揮毫を所望したところ、書家・佐々木文山は「此所小便無用」と書き付けて、座をしらけさせてしまった。ところが、其角が「花の山」と書き足したので、周囲の人間は其角の機転に感心したという(『名家談叢』)。
私生活では画家英一蝶、二代目市川團十郎、赤穂浪士大高源吾、富森助右衛門、紀伊国屋文左衛門といった人物と交遊した。また、芭蕉がライバル視していた井原西鶴とも交際し、生涯に2度、西鶴を訪ねて上方を訪れている。
日本橋茅場町に居を構えたが、隣接して荻生徂徠の私塾・蘐園塾が開かれ、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句をなしたとされる(江戸名所図会)。 但し、蘐園塾の開塾は宝永6年(1709年)であり、その前前年に其角は亡くなっている。