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与謝蕪村

2020.10.10 07:45

https://tangonotimei.com/doc/yosabuson.html  【与謝蕪村】 より

蕪村の句のながても特に有名な、菜の花や月は東に日は西に

与謝の海を詠んだともいわれているが、春の海ひねもすのたりのたりかな

彼のこの句なら私でも子供の頃から知ってはいるのだが、蕪村は39歳から3年ばかりを丹後で過ごした。母親が丹後の人なので、蕪村は与謝を名乗り、半分は丹後人である、そうしたこともあって丹後での蕪村研究も多く残されている、一杯あるので適当にしか読みもしなかったのだが、「蕪村」の「蕪」は、荒蕪の地などいうが、荒れて雑草が生い茂った荒れ野のことという。私はカブラ(カブ)とばかりに考えていた、そんな想像をする人は私だけでもないようで、カブで有名な天王寺生誕説や、いや宮津の波路の蕪だという説もあるという。

しかし本当は彼が心酔していた陶淵明の「帰去来辞」にある「田園将蕪(でんえんまさにあらなんとす)」から取ったもので、「蕪村」とは、雑草生い茂る荒れ果てた荒れ野の村、日本ならそうだろうが、漢字の意味なら草すらも無い砂漠のような地の村のことだろうか。

帰りなんいざ、田園将まさに蕪あれなんとす、なんぞ帰らざる

あれだったのか、私はこれでいっぺんに蕪村に興味がわいたようなことである。

荒廃と人の流失が続き小学校などは次々と廃校になり病院などのインフラも消えて、どうにもならない「限界」まできている、滅亡は時間だけの状況の村も多い、一生懸命にはねのけたいとしている自治体もあれば、知ったことかとほったらかしのニセ自治体も-。

そしてさらに追い打ちかけてTPP、さらに年金は下がり、さらに年貢は倍に引き上げられようとしている。

村や農林水産業ばかりでなく、日本人は村を荒らせば都市も国家も終わるといった文明観をベースに持っていそうに思われるが、別に日本ばかりではないようだが、それは正しい歴史観と思われる。

東北被災地を指摘するまでもなく、そもそもの国の土台、成り立ちを忘れ、己が力を神の力とでも信じほうけて思い上がると、弱い農村だけが滅ぶのではなく、当然にも強そうな都市も国も巻き込んで滅ぶ。

原発立地する貧村の本当の発展などはまったく考えもせず、ゼニをばらまいておけば豊になる式で進めていけば、その村だけでなく原発も東電も国もまさに滅ぶ。国全体もまさに蕪なんの深刻な状況になっている。与謝蕪村でなく、日本蕪村、地球蕪村の状況である。

ワシは原子力技術者だ、ワシは電力事業者だ、ワシは政治家だと胸張って言えるような仕事をしてみろや、何をこれまでやってきたのだ、ごまかしとウソと隠しとやらせばかり、誇れるほどは無理だろうが、せめて人間として恥ずかしくない程度には努力しろよ、クソどもよ日本を担っているつもりなら-

電力が足りないとかで、原発再稼働という経済界とやら、本当にそうなのかは知らないが、そうならそうとはっきり言えばよかろう、自分の企業名と製品名を出して、原発再稼働願いますと言え、それは自由だ、それでも消費者が製品を買ってくれるかどうかはわからないぞ、自分の都合のいいことばかりを言っていると企業もつぶすぞ。コソコソと隠れて何か誰が言っているのか本当の話なのかもわからないようなクソなキタネーまねをするな。さあはっきり言え。本当にそう願うなら街頭でデモしろ。ド恥ずかしいクソどもばかりで何をおっぱじめるか知れたものではない。

村から、里から、ふるさとから誠の立て直しをすすめなければ地球にも日本にも未来はない。人々の原点であり、政治経済文化も最も力を注がねばならない所であろう、今は荒れ野をゆくとも、あらし吹くとも、荒れ野を平和の沃野に変えよう、私も「加佐蕪里」とでもして俳句でも詠もうか、などと思うたが、気がつけばそうした才は皆無。情けない…

(写真はネットにあったものを勝手に使わせてもらいました。荒野のイエスを見るような写真、立派なお坊さんになられることであろう。)

          

 蕪村の母親は今の与謝野町与謝の「二ツ岩」集落の人という口碑(言い伝え)がのこされている。江戸中期のこのあたり、山あいの貧村では、京や大坂に出稼ぎするものが多かったという。蕪村の母「げん」もそのような一人として、摂津国東成郡毛馬村の村長宅に下働きに行っていたという。今の大阪市都島区毛馬町で、その生誕地は今は淀川本流の川底になっているという。

絶世の美女だったとも言われるが、そこで主人の目にとまり、享保元年(1716)、蕪村を生んだ。

もっとも、蕪村の出生地については、ここ丹後与謝としたり、摂津の天王寺村とする説もある、いずれも確証はない。

↓「二ツ岩」集落にある二ツ岩神社。

二ツ岩集落の「二ツ岩」神社

与謝峠から加悦谷に入ったところにある集落で、農村というよりも街道の宿場なのかマチ的雰囲気を残している。 何とも「蕪村的な岩」が二つある。蕪村はこの岩も見たことだろうが、何も句も画も残されていない。『郷土と美術』(1982.5)の「蕪村と丹後」(鞭不木)に、

口碑のことでは、私も子供の頃、祖母から聴いた話では、蕪村は与謝の生れで、与謝のお寺へ小僧に出され、そこでよく勉強したという風な話をきいた記憶があります。祖母はいつもお歯黒を染めて、なかなか社交家だったので、この祖母のはなしや唄が大変好きでした。しかしこのような昔噺の出来る人もだんだん少なくなっていることです。口碑を探して歩くこともだんだん困難になって来ることでしょう。母親の「げん」は19才の時、彼を生んでのちに上宮津に嫁いだとも言われるが、そうした口碑がのこされている。その母の墓が生家谷口家のすぐ斜裏の山際に、大江山を前にして建っているという。

施薬寺はこの近くである。

近くにはさらに野田川親水公園があって、そこに蕪村の歌碑が立てられている。

與謝蕪村の歌碑(与謝野町滝)

與謝蕪村の歌碑(与謝野町滝)

夏河を越すうれしさよ手に草履

母の里に近づいてきてうれしい、の気持ちが伝わってくる。

 享保末年、20歳ごろ、蕪村は江戸で、早野巴人の門弟となった。蕪村はここで俳諧を学び、かたわら、画技の習得にもつとめていたという。その師がなくなると、江戸を離れて、以後10年に及ぶ関東・奥羽巡遊の「荒れ野の10年」の生活に入る。この旅の途中、浄土宗に帰依して剃髪し僧形になったという。

東北歴遊は大変きびしく、苦難の時代であったといわれる。

「つらつら来しかたをおもふに、野総奥羽の辺鄙にありては途に煩ひ、ある時は飢もし、寒暑になやみ、うき旅の数々命つれなくからきめ見しもあまたゝびなりしが…」(夜半翁終焉記)

イエスは40日、ヴィツゼッカーは40年、荒れ野をさまよう。かわいい子には旅をさせよ、甘えていればいいというものではない。荒れ野は人間を人間に戻してくれる場所、そう言っていいのか、人間でないことを気づかせてくれる場所、そうも言えないか、戦場などは荒れ野どころではないが、そこで兵士は人間になったかと言えばむしろますます鬼に堕ちていく痛ましいケースがほとんど、荒れ野そのものは単に荒れ野でしかない、しかし荒れ野でも一輪の花は咲いている、それががわれらを人間につれ戻すのか。

木枯や何に世渡る家五軒

まあしかし、40年も甘えていたらどんな人間になるものか、周囲を見ればその好例がいくつも見つかろう。一定の厳しい時代が誰にも必要にようである。

          

 寛延4年(1751)秋、36歳ころ、関東をあとにし上京した。

宝暦4年(1754)の晩春か初夏のころから、丹後の宮津に滞在した。宮津では見性寺に止宿したが、その住職竹渓和尚とは、京都東山の僧坊で知り合ったといわれ、彼とは同年とか一つくらいの違いであったとかいう。

↓見性寺(浄土宗・一心山見性寺。「蕪村寺」と呼ばれている)

見性寺山門(宮津市小川)

与謝蕪村の寺見性寺の案内板

  宮津市字小川 見性寺

 与謝蕪村が、ここ一心山見性寺へ来たのは宝麿四年(一七五四)初夏のことで、彼の三九才のときであった。

 それから三年余り、蕪村はここ見性寺を足だまりとして、天橋立の周辺から加悦谷、そして北丹地方へと気の向くままに出歩いたが、宝暦七年(一七五七)秋には、ふたたび京都の人となった。彼の四二才のときであった。

 蕪村の宮津時代三年余は、実に彼の人生に一大転機をもたらした。すなわち、画家蕪村として大成したのは、この宮津時代があったからである。もちろん俳諧の道にもはげみ、真照寺の鷺十、無縁寺の陵巴、そしてここ見性寺の竹渓などを中心に、時には遠来の友をも交えて遊ばれた。けれども、その画業への執心熱意にはとうてい比ぶべくもない。それは彼の宮津時代における遺産が、これを雄弁に物語っている。

 当時から二百年を過ぎた今日の見性寺には、もはや宮津時代の蕪村をしのぶ何ものも残されてはいないが、ただ一つこの山門こそは、蕪村の常時出入を静かに見守っていた山門であった。境内にも句碑一基があり、碧悟桐の筆である。

短夜や 六里の松に 更けたらず  蕪村

宮津市教育委員会

見性寺の蕪村句碑

与謝蕪村と見性寺句碑の案内板(見性寺)

 見性寺は宮津市小川にあり、山号を一心山という浄土宗(知恩院)の末寺です。寛永2年(1625)9月傳誉上人の開基、本尊は阿弥陀立像三尊仏。

 文久2年(1819)旧暦11月9日本堂積雪の為倒壊し、明治2年(1869)5月15日に仮堂建立し、現在にいたる。

 蕪村は宝暦4年(1754)の春、39歳の時宮津へ来て俳友、竹渓の住む見性寺に草鞋をぬいだ。

 竹渓とは見性寺寺九世住職(芳雲上人)で俳句、絵画をよくした。蕪村が宮津へ来るきっかけは、宝暦3年(1753)に竹渓が京都の智恩院で催された音韻興業に参加して蕪村と知り合い、宮津への来遊を誘ったとされる。

 見社寺に滞在して、近くの真照寺の和尚や無縁路寺の和尚らと交流し、また丹後の俳人らとも交わって俳諧の奥義を深めるかたわら画道にも精進し、丹後の各地を回遊して「潮滄(ちょうそう)書き」と称する独自の画風を形成して、多くの作品を残した。

 現在、見性寺に残る物は、当時の山門のみで、庭に昭和3年12月宮津蕪村会が建立した「短か夜や六里の松に更けたらず」の蕪村の句碑が建っている。この句は俳友雲裡坊が帰郷に際して、別れを惜しんで、一晩天橋立で語り過ごした時の句で、筆は蕪村の研究家として知られる、正岡子規の弟子、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)である。

見性寺裏を走る鉄道(宮津市小川)

見性寺の裏山側へ向けて歩いてすぐの鉄道、この下をくぐった突き当たり、そこの山門が見えるが、これが無縁寺(浄土宗・大悲山)↓。

無縁寺(宮津市小川)

その左隣りに真照寺(浄土真宗本願寺派・閑霊山)↓

真照寺(宮津市小川)

お寺の後に見える建物は宮津中学。中学生が三々五々下校してきたりする、今もいいところで、俳句でもひねろうか、の気分になったりもするが、蕪村の宮津時代の根拠地であった。鉄道で分断されたり、民家が間にあったりもしているが三つ、あるいは五つばかりの寺々は隣同士である。今は見えないが当時はここから与謝の海や天橋立が見えたと思われる。

このあたりは人間よりも狐狸どもの棲家であった、ボーとしたり「丹後熱」でフラフラしてるとつままれた、蕪村も金縛りにされたと書き残している。蕪村は妖怪好き、話を聞けばどちらがタヌキだかわからないようなことだが、坊さんのかっこうはしているが、はたして僧籍ある坊さんだったかどうかははっきりしない-

母のふるさとということもあって、丹後へ来てみたが、蕪村から見れば、この地は風光はすばらしいが、俳諧にしても絵画にしてもたいしたものはなかったようで、丹後弁の言葉ひとつにしてもどうも気に入らず、おもしろくない。俳句はどうやら美濃か尾張派を田舎にした俗流で、うんざりしたという。丹後の俳壇について私は知らないのだが、ほかの分野もこうしたことが多い、何度もその道の専門家からは「これは違うよ」と言われているのだが、何度言われても改まらない、私らはすばらしいのだと密かに勝手に信じ込んでいるヘンな天狗同士なので、田舎は外部者がない、よそはそうかも知れないがここはこれでいいのだ、どうにもならないし、してやろうかという気も失われる。内からの向上心に欠けるようである。

たった3年しか丹後に滞在しなかったのは、こんな田舎に長くいたらダメになってしまうという気がしたからであろうか。俳諧に限らず、全国区のリーダーレベルの才能ある者から見れば、当時も今も事情は同じかも知れないが、しかし自ら「荒れ野の村」と名乗るくらいだから、その「荒れ野の村」とまるっきり切れてしまって、豊かな町の暮らしに徹しても自らが目指したものから外れてしまうだろう、豊かそうに見えても本当意味の豊かさは多くはなかろう。都市の腐敗をきらった人たちが、荒れ野に出る、ということはよくある。「快適な生活」の中の腐敗の中にいるよりも、厳しい生活を余儀なくされる荒れ野のほうがよほどにまし、と考える人はあるし、蕪村もかつてそうであったのではなかったか。もっともその村も理想郷ではなく腐敗も粗野停滞もまた多い、丹後滞在中の作とされる蕪村の俳諧作品はあまりない、丹後文化の責任か-

 丹後ではだれも彼が絵師だとは知らないで、俳諧師だとばかり思っていたが、しかし、蕪村はここで絵を再修業するのが主なネライであった。彼には絵画の師はなく、独学で学んでいる。蕪村は両刀の使い手だが、丹後滞在中に彼の画風は磨き上げられ固まったといわれる。片方はここでなった。

『丹哥府志』は「図画に於ては大雅と並び称せらる」と書いているが、今もその評価がある。同書は続けて「画を求むるものあれば則画きて之に与ふ。元より潤筆の有無に拘わらず相添の家に至て自から紙を求めて書画を試み、十枚、廿枚に至る。是以蕪村の画く所宮津に尤多し。一日見性寺といふ寺に遊ぶ、其寺に白張の襖あり、和尚の不在に乗じて其襖に墨を以て鴉を画く、既にして和尚他より帰り来り其画を見て大に怒り、再び蕪村の来るを許さず。今其襖宮津の重器となりぬ。斯の如き活説往々少からず。其弟子に甫尺というものあり宮津の人なり、よく蕪村の筆意を伝ふ。」としている。

見性寺のことであったかはわからないが、ピカソにしてシェークスピアの超大物文人、小物は理解できない、せっかくのピカソの名画も「こんなところに落書きしくさって」としか評価できない部分もあるの逸話か。この襖絵はのちに六曲屏風となったそうで、今はどこにあるのだろうか、宮津のどこかのあるようでもある。それを見せてもらいウロ覚え描いたある画家の模写ですら破格値で引き取られたという。

その「見性寺鴉」を探すがない。↓これはそれではないようだが-

↑蕪村筆「柳鴉図」(『郷土と美術』(82.5)の表紙)

 翌宝の暦5年(1755)の新春に墨絵の「菊花之図」を描き、次いで「静舞図」屏風にかかる。作風は従来通りだが、静御前という歴史に挑む新しい構想に取り組んだようである。見性寺の檀家総代のお婆ちゃんの枕屏風のために書いた極彩色ものだが、ここもピカソの何たるかを知らず、ある日庭に投げられ壊れたという。

このころになると、ぽつぽつと絵の注文が近在の金持ちなどから舞い込んだという。三両ぐらい礼にもらった。二十五万円ばかりだという。こうした絵画は四散して失われたものも多いし贋作も混じるが、それでもまだ多くが丹後には残されている。

 江戸で知り合った近江義仲寺無名庵主の雲裡坊が宮津に来遊した。やがて宮津を去る雲裡を送って橋立で別れる、夏だったというが、そのはなむけに、

みじか夜や六里の松に更たらず

蕪村の句碑(天橋立)

なお天橋立と蕪村といえば、橋立神社の横に今林酔堂の建立した

はし立や松は月日のこぼれ種

の句碑があり、フツーは蕪村の句碑と案内されている。

しかしこの句は正式にいえば蕪村の句と認められいないようである。

蕪村は丹後半島の北端の中浜や経ケ崎の方へ出かける。

『丹州中浜の浦は、北方地のつくる処にして、長山海に横たふること四十里、右に経ケ崎あり、左にいぬ崎有、石壁萬丈崖はかたるがごとく、樹は歩行に似たり、鳥飛びて見へず雲行てかへらず、驚風常に、おこって、白浪天をひたす、久しく坐すべからず。

一もとの茎四十里や白ぼたん     蕪村 』

 母の里、与謝村へも出かける。宮津から野田川をさかのぼって西南十五キロばかりの大江山の西の谷・加悦谷と呼ばれる谷地の一番奥である。

丹後の加悦という処にて、

前に細川ありて潺湲と流れければ

夏河を越すうれしさよ手に草履

これは加悦近くの野田川本流、左手の山並が大江山連山。↑

 加悦の吉祥寺(臨済宗妙心寺派)↓には、明治40年に南画会が建てた「蕪村在住記念碑」があるそう、加悦谷祭の最中に出かけた私はその碑まで行っておれなかった。

吉祥寺(与謝野町加悦)

折良くというのか、それも兼ね加悦へ出かけてきたのか、丹波氷上郡幸世村の帰命寺(浄土宗)の白道、坊主仲間のようだが、その彼が加悦の方へ出掛けて来ていたのを訪ねて、蕪村は話相手ほしさに飢えていて、夜遅くまで話していた。

日のくるるまでものがたりしてかへるさに申しはべる、

蝉も寝る頃や衣の袖畳

 ここからは大江山が東によく見える、

雲の峰に肘する酒顛童子哉

岩に腰我頼光のつゝじかな

 帰りに施薬寺に立ち寄る。頼まれて六曲の屏風に「方土求不死薬図」を墨で描いた。

施薬寺(与謝野町滝)

方土求不死薬図

方土求不死薬図

施薬寺に伝わる「方土求不死薬図」↑(『加悦町誌資料編』より)

          

 宮津での蕪村には数々のエピソードや、言い伝えの類が多いそうで、そのなかの阿蘇海沿岸の溝尻の娘「雪」との関係、彼女がそれなのかはわからないが、 ながらく独身であった蕪村は宝暦10年(1760年)45才の時「とも女」と結婚し1女をもうけている。丹後を去ってからのことである。俳友が訪れても、蕪村は妻の出どころを笑って明らかにはしなかっというからわからない。

宝暦7年(1757)9月、蕪村は丹後滞在3年余の間に制作した多くの作品を遺して丹後を去る。真照寺の鷺十の閑雲楼に書き遺した「天橋図賛」を最後の筆とし、その3年余の画道への努力精進をむすび、来たるべき宝暦・明和への大飛躍を期して丹後を去り、京都へ帰っていった。

          

与謝蕪村の主な歴史記録

『丹哥府志』

【蕪村】蕪村名は寅字は長庚一の字は春星蕪村と號し、又四明山人と號す。図画に於ては大雅と並ひ称せらる。元京師の人なり、明和の頃より与謝に来り久しく宮津に居る。与謝の風景を愛して自ら与謝の人と称す。遂に姓を謝と改め、謝寅、謝長庚、謝春星などといふ。始め宮津に来る頃一人も其画の工みなるを知るものなし。是以蕪村を尋常の人となす、蕪村も亦尋常の人となりて彼是となく交を結ぶ。画を求むるものあれは則画きて之に与ふ。元より潤筆の有無に拘はらず相添の家に至て自ら紙を求めて書画を試み、十枚、廿枚に至る。是以蕪村の画く所宮津に尤多し。一日見性寺といふ寺に遊ぶ、其寺に白張りの襖あり、和尚の不在に乗じて其襖に墨を以て鴉〈カラス〉を画く、既にして和尚他より帰り来り其画を見て大に怒り、再び蕪村の来るを許さず、今其襖宮津の重器となりぬ、斯の如き活説往々少からす。其弟子に甫尺といふものあり宮津の人なり、よく蕪村の筆意を伝ふ。

『与謝郡誌』

與謝蕪村

 俳諧又画をよくす名は信章字は春星謝洞謝寅、謝長又夜半亭と号しはじめ蕪青と云ひ後蕪村と改む摂津天王寺の人京都に住す東都に遊んで内田沾山に俳諧を学び後早野巴人に従ふ明和の頃より與謝村に遊ぶ與謝村は蕪村の母の里方なれば居るここ久しく(同村字施薬寺には会心の画を遺せり図版参照)自ら姓を與謝と改む後ち宮津に来り一日見性寺に遊ぶ其寺に白張の襖あり和尚の不在に乗じて其襖に墨を以て鴉を画く既にして和尚他より帰り来り其画を見て大いに怒り再び蕪村の来るを許さず今其襖は宮津の重器となりぬと丹哥府志にあり斯くの如き説話往々少からず天明三年十二月二十九日六十七歳にて歿す又七十歳とも云ふ其弟子に甫尺といふ者あり宮津の人なり能く蕪村の筆意を学び得たり。

『丹後路の史跡めぐり』

滝山施薬寺と浮木山三縁寺

 蕪村の寺として知られている施薬寺(せやくじ)は、もと赤石巌にあった根本寺をうつしたもので、桓武天皇の病気に薬湯を献上して全快しられたので、寺号を下賜されたという。真言宗の寺で本堂のらん間には金色に輝く紋章がつけられている。この寺には蕪村の画いた「方士求不死薬図」の大昇風が二双あり、四明の名が入っている。これは秦の始皇帝の臣徐福が不老不死の薬を求めにやってきた故事を画いたものである。

 蕪村についてはいろいろな伝説があるが、地元で語り伝えるには、母げんが与謝の人で、大阪毛馬村の丹門屋に奉公していたところ、絶世の美人であったために主人の手がつき、享保元年(一七一六)帰郷して蕪村をうみ、その後蕪村を連れ子して宮津の畳屋へ再婚したという。与謝にげんの墓が残っている。若い頃は貧乏をしていて借金のかたによく絵を画いて渡したが、後に京都より帰った時に「書きなおす」といって集めてみな焼いてしまったという。また借金取りが来ると、

     首くくる繩もなし年の暮

と障子に張り出してあったので、みなあきれはてて帰ったという話も残っている。母が再婚した先の養父となじまなくて家をとび出したというから、この頃与謝に戻って施薬寺に小僧として入ったのではなかろうかと思われる。というのは後年の彼の知識天才ぶりからみて、幼い頃からみっちりと学問をしこまれた基礎がなくてはならないからである。おそらくこの寺の和尚は相当博学の人であったであろう。そうして十七才の時京都へ出て苦学し、その後江戸へ出て俳諧と南画を学び全国各地を巡り歩いている。ともかく宝暦四年(一七五四)から七年までの四年間丹後へ来ていた事は事実で、その間与謝の谷口反七万に滞在している。本来谷口という姓であるが丹後へ来てから与謝姓に改め「生丹后子」などという名をつかったりしている。

      夏川を越すうれしさよ手にぞうり

 この有名な句も加悦に句友僧を訪ねた時につくられたものである。丹後から京都へ帰る時妻をめとってつれて帰っているが、蕪村はこの時四二才であった。

 蕪村は天明三年(一七八三)十二月二五日六八才で没し、妻ともは文化十一年 (一八一四)三月五日に没しており、法名を与謝清了尼という。洛北金福寺には夫妻の墓が江森月居や高弟の芦蔭舎大魯、松村月溪(呉春)、寺村百池などの墓に囲まれて立っている。…