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「年の瀬や水の流れと人の身は」・・・「あした待たるる その宝船」

2020.10.10 09:49

https://akahiro.at.webry.info/201412/article_14.html 【「年の瀬や水の流れと人の身は」・・・「あした待たるる その宝船」】 より

きのうは煤払いの日、きょうは赤穂義士討ち入りの日

・・・江戸は両国橋、煤払い〔すすはらい〕の竹売りに扮した大高源吾〔おおたかげんご〕と俳諧師・宝井其角〔たからいきかく〕との出会いの場面を思い出します:

  「年の瀬や 水の流れと 人の身は」

という其角の発句をうけて、源吾は

  「あした待たるる その宝船」

と付句を返して風の如く去ってゆく。

・・・日本人ならジーンと来る場面です^L^

◆仁田丸久先生は、『うらおもて周易作法』の風雷益の六四の解説のところで、こんなことをお話されています:

 大高源吾が、打入りの前日に両国橋で俳諧の師匠の其角に出合いの一席をやりますが、仲々面白く脚色されていて、われわれ日本人には心に迫るものがあります。

 しかしあの話の真個【??真実?真相?本当】の主は富森助右衛門〔とみもり すけえもん〕(号:春帆)です。富森は同じ赤穂の藩士で大高源吾、神崎与五郎〔かんざき よごろう〕、吉田忠左衛門〔よしだ ちゅうざえもん〕とともに其角の門人【※1】で俳句をやっていました。 ところがある日、其角の別の門人桑岡貞佐〔くわおか ていさ〕にあった。

 貞佐が先日神崎与五郎に会って あんたのことを聞いたら知らぬと云ったが、あんたは今どうしているかと富森に聞くと、かれは打入りの前のことですから、神崎とはケンカをして往来がないから知らぬというのはあたり前だという。

 貞佐がそれはいかん、自分が仲に入って仲直りをさせようというと、富森は、

  「飛んで入る 手にもたまらぬ 霰かな【※2】」

という一句を残して行ってしまった。

 翌朝、貞佐も江戸ツ子ですから朝風呂に入っていると、義士の打入りで本懐をとげたという報が伝わった。そとで昨夜の一句のことを思い出し、ヤッタナと早速 泉岳寺へかけつけて、誰れかれと俳友の名前をいって面会を求めましたが、中へ入れてくれません。それはそうでしょう、お上の掟を破って打入りした犯人ですから面会などできるわけがありません。そこで貞佐は酒屋へ飛び込んで五升樽を一つもとめたが、風呂帰りですから代物を持っていない。仕方がないので、さるお殿様から頂戴していた羽織を着ていたのでそれをカタにして酒樽を受け取り再び泉岳寺へかけつけて、これを差し入れしようとした。ところが番人はそれもならぬという。しかし押問答の末、俳友の安否もわかったので帰ろうとすると番人が一寸待ちなさい、あんた五升樽を持って歩くわけにもいかないだろうから、そこへ捨てていきなさいという。貞佐はハァこれは届けてくれるなァと思ったから、五升樽をそこへおいて帰って行った。ところが拝領の羽織を酒代に渡してしまったのであるから、これはおわびをせねばならぬと、その殿様にお目にかかり、かくかくと言上すると、殿様はそれはよくやったというので、前にも増して上等の羽織を拝領したという話です。

 この話をつくりかえて、貞佐を其角氏、富森助右衛門を大高源吾にし、場所を両国橋にしたのが、今日流布されている、「あした待たるるその宝舟」の話になったのです。

・・・とにかく貞佐が俳友の為に羽織を曲げて五升の酒を買った。それは損ですが、実は返って益になっていることの事例です。それ以上に貞佐のついに表立たなかった陰の行動はあくまで☴巽の☴巽たる処です。

 

 【※1】其角に俳諧をまなんだ水間沾徳〔みずませんとく〕の門人である、というのが定説のようです。 

 【※2】一説には、神崎与五郎の辞世の句ともなっているようです。

◆仁田先生のお話では

  「年の瀬や 水の流れと 人の身は」の桑岡貞佐の発句に

  「あした待たるる その宝船」という句を富岡助右衛門が付いだ、ということのようです。

◆また討入り当夜、吉良邸の隣りの本多家で句会が開かれており、そこに其角が居たという設定で、次のような句を詠んだことになっているようです。・・・これは其角の自作自演のようですが・・・

 其角「我が雪と 思えば軽し 笠の雪」

 子葉 「日の恩や たちまち砕く 厚氷」

 春帆 「飛び込んで 手にもたまらぬ 霰かな」

 ・・・子葉というのは大高源吾の俳号です。


https://30083530.at.webry.info/201012/article_14.html  【年の瀬や 水の流れと 人の身は  の句から・・・】  より

本日のタイトルは赤穂浪士に関係するお話の続きなのであります。

これは赤穂浪士の中でも最も俳句が上手だと言われていた人物の大高源吾にまつわるお話をインターネットで拾ったお話の紹介であります。

江戸時代前期に俳人の宝井其角 (たからい・きかく)という人物がおります。あの有名な松尾芭蕉も一目おいたと言われる程の俳人なのであります。

宝井其角については下記URLを参照して下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E4%BA%95%E5%85%B6%E8%A7%92

静まりかえった雪の降りしきる師走の江戸両国橋で、其角と竹笹売りに身をやつした、俳諧の弟子で赤穂浪人の大高源吾との再会があるのでございます。

貧相な身なりをしているので、もはや風流の心を忘れているのではあるまいか?と思い立つや其角は「年の瀬や水の流れと人の身は」という発句 を源吾に向けたのでござい

ます。

すると源吾は即座に「明日待たるるその宝船」という付句 を返すのでございます。其角はこの句を読んで、しばし熟慮をするのでありますが、意味不明??風流をこ奴は忘れてしまったかなと考える・・・

翌日、其角は多忙であったが俳諧の弟子である、肥前平戸藩の松浦鎮信の屋敷で句会が催されるので、参加をするのでございます。、

その句会は和やかに盛大に進んでいたのでございますが、顔の広く面倒見のよい其角の口利きにより、松浦家の屋敷奉公に源吾の妹お縫(おぬい)を奉公にあがらさせていたのであります。

そのお縫がお茶を点てているのを気付いた鎮信は機嫌が悪くなってしまうのでございます。悪い事に、昨日其角が両国橋で源吾に偶然再会して、いまは竹笹売りをしている事を話題にしますと、さらに虫に居所が悪くなってしまっちゃったのです。

鎮信は軍学者の山鹿素行 許で同門の赤穂の大石内蔵助がこの松浦邸の隣家である吉良上野介を、いつまでも討ち入りを果たさないことにず~つと不信感を持ち腹を立てていたのございます。

そんな輩の関係者を屋敷に置いておくわけにはいかない!という具合に思っており 鎮信の怒りは頂点に達しましたので、止むをえず其角はお縫をつれて帰ることにしたのですが、ふっと昨日の源吾の付句を口にするのでございます。

その句を耳にした瞬間に鎮信は、その付句の意味する事を感じ取り、ふたりを引き止めるのでございます。

するとそのとき~高らかに鳴り出す陣太鼓の音が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

太鼓音のする方角へ 耳を澄ましかつ膝を乗り出し、太鼓の音を指折って数える鎮信~~ あっ!(ドン!)あっ!(ドン!)あっ、あっ、あっ、あっ、

まさに、まさに~山鹿流の陣太鼓では???

源吾の付句の「宝船」とは吉良邸討入りのことなのだ!鎮信は赤穂浪士の武士道はやはり地に落ちていなかったと大喜びをして、其角とお縫いを呼び戻して詫び、「火事装束の用意と馬を用意しろと~~」と叫ぶのでございました。

ここはここは松浦邸の玄関先。赤穂浪士の助太刀をいたす~と馬で飛び出さんばかりの鎮信を家臣たちが押し止めている、そのときに討入りの装束に身を固めた源吾が現れ、付句に託した意味を理解してくれたことを喜びまた、吉良の首を討ち取り、本懐を遂げたことを報告するのでございます。

日本人好みに味付けをされ、おおいにに楽しめるお話ではなかったでしょうか?

ほんの一部ですが、来年は、角度を変えて別のお話をご紹介してみたいと思って

おります。

写真は「夕立や法華駆け込む阿弥陀堂(ゆうだちやほっけかけこむこむあみだどう)」

其角の句碑であります。

この句の意味するところは

にわかの夕立に遭遇すれば、法華の信者だって雨宿りのために宗旨違いの阿弥陀堂へ駆け込んでくる、ということだそうで、夕立があるそんな時に宗旨がどうのこうのと固いことを言ってはいられないというものだとか???