蕪村の花押 ⑦
http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E8%95%AA%E6%9D%91%E3%81%A8%E5%91%89%E6%98%A5 【蕪村の花押(その七の一)】 より
『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「『老なりし』月渓合作賛=D-2」
ここに出て来る蕪村の賛は次の通りである(『蕪村全集五 書簡(講談社刊)』所収「七九 安永三年 日付なし 乙総宛」に因る)。
老なりし鵜飼ことしは見えぬかな 紫狐庵(花押)
すべての賛の絵をかく事、画者のこゝろえ(心得)有(ある)べき事也。右の句に此(この)画はとり合(あは)ず候。此画にて右の句のあはれ(哀れ)を失ひ、むげ(無下)のことにて候。か様(やう)句には、只(ただ)篝(かがり)などをたき(焼き)すてたる光景、しかる(然る)べく候。
これは門人月渓に申(まうし)たることを、直ニ其(その)席にて書(かき)つけま
い(ゐ)らせ候。かゝる心得は万事にわたることにて候。
乙ふさ(総)子 蕪村
(『蕪村全集五 書簡(講談社刊)』所収「七九 安永三年 日付なし 乙総宛」)
上記の「月渓画・蕪村賛(乙総宛て書簡)」は、冒頭の『蕪村全集六 絵画・遺墨』(『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「参考図二『老なりし』月渓合作賛=D-1」)の通りに収録されていて、そこでは「『老なりし』月渓合作賛=D-2」(一幅、一〇六・三×二八・二cm、 款、「紫狐庵」(花押)、印、なし 賛=上記と同じ)の、月渓と蕪村の合作画賛となっている。
しかし、これは、単純な「月渓・蕪村合作画賛」なのではない。これは、蕪村の、夜半亭社中(ここでは、月渓と乙総の二人)への、賛にある「絵をかく事、画者のこゝろえ(心得)有(ある)べき事也」の、その「画者の心得」を具体的に示したものなのである。
すなわち、この蕪村・月渓合作の、この画賛は、まず、蕪村が紫狐庵の署名で、「老なりし鵜飼ことしは見えぬかな」という句を書き、それに、蕪村常用の花押を書いて、この句に相応しい「絵をかく」ように、門人の月渓に命じたのである。
何故、紫狐庵の署名にしたかというと、この句は、安永三年(一七七四)四月十七日の紫狐庵での句会のもので、その紫狐庵の庵号で署名したのであろう。
その蕪村の指示を受け、月渓は大きな魚籠と数匹の鮎を描いて、師の蕪村に差し出したところ、「此の句に此の画はとり合はず(釣り合わない)、此の画にては此の句の哀れ(情趣)を失ふ、無下(甚だ拙い)也」と酷評され、「か様(やう=よう)の句には、只(あっさりと)鵜飼をする篝火などの光景が、然るべし(相応しい)」と諭され、画者の心得としてメモを取っておくように指導されたのである。
後日、蕪村は、この蕪村・月渓合作の画賛の左上に、月渓に指導したことを書面に認め、その書簡付きの合作画賛を、但馬(兵庫県)出石の門人、乙総宛てに、送ったというのが、この合作画賛の背景ということになる。
この乙総は、蕪村門の但馬の代表的な俳人、霞夫(芦田氏)の弟で、霞夫は、醸造業を営み、別号に馬圃・如々庵などと称した。この霞夫と乙総は、蕪村書簡にしばしば出て来る、蕪村と親しい俳人で且つ蕪村の支援者でもあった。
この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」の賛中の「画者のこゝろえ(心得)」というのは、主として「俳画の心得」であって、この「俳画」は、蕪村の言葉ですると、「はいかい(俳諧)物の草画」ということになる。
蕪村は、この「はいかい物之草画」に関しては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)と、画・俳両道を極めている蕪村ならではの自負に満ちた書簡を今に残している(安永五年八月十一日付け几董宛て書簡)。
「俳画」という名称自体は、蕪村後の渡辺崋山の『俳画譜』(嘉永二年=一八一九刊)以後に用いられているようで、一般的には「俳句や俳文の賛がある絵」などを指している。
さて、この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」で、蕪村が月渓や乙総に伝えようとしたのは、俳諧(連句)用語ですると、「余情付(よじょうづけ)」(前句《賛》の余韻・余情が付句《絵》)のそれと匂い合って、情感の交流が感じられるような付け方《賛に対する絵の描き方》)のような「賛と絵との有り様」を目指すべきであるということなのであろう。
蕪村が俳諧の道に入ったのは、元文二年(一七賛七)、二十二歳の頃で、爾来、俳諧師としての修業は、画業に専念してからも、これを怠りにはせず、明和七年(一七七〇)、五十五歳の時に、夜半亭二世(夜半亭俳諧=江戸座の其角門の早野巴人を祖とする俳諧)を継承して、芭蕉の次の時代の中興俳諧の一方の雄なのである。
まさに、「はいかい(俳諧)物之草画(大まかな筆づかいで簡略に描いた墨絵や淡彩画)」においては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)という蕪村の自負は、決して独り善がりのものではなく、いや、俳画というのは蕪村から始まると極言しても差し支えなかろう。
この俳画第一人者の蕪村が、これはという門人の月渓や乙総に、その「俳画の心得」を伝授しようとしているのが、この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」なのである。
中でも、蕪村の月渓への期待というのは、「此(この)月渓と申(まうす)者は至て篤実之君子にて、(略) 画は当時無双の妙手」(天明三年九月十四日付け士川宛て書簡)と、まさに、月渓は、蕪村の秘蔵子と言っても差し支えなかろう。
蕪村だけではなく、蕪村没後に同胞として迎え入れた応挙も、「近畿の画家為すあるに足るものなし、只恐るべきは月渓といふ若者なり」と、月渓を高く評価しているのである(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』)。
ここで、冒頭の「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」に戻り、この月渓の「画(絵)」は、紫狐庵(蕪村)の賛の「老なりし鵜飼ことしは見えぬかな」の「句(発句)」に対して、大きな魚籠と数匹の鮎を描いて(俳諧の付け合いでは「物付(ものづけ)=言葉尻を捉える付け方」)、この「老なりし・鵜飼」の「老なりし」の、この句の主題に対する、何らの「余情」も感じられないというのが、蕪村の酷評した、その主たるものなのであろう。
こういう蕪村の特訓を受けて、月渓の俳画というのは、見事に開花して行く。
次に掲げる蕪村の書簡(芭蕉の時雨の句に関する書簡)に付した呉春(月渓)の「窓辺の蕪村(像)」ほど、「憂愁なる蕪村」その人の風姿を伝えるものを知らない。
【蕪村の花押(その七の二)】 より
「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」
上記の「窓辺の蕪村(像)」の軸物は、上段が蕪村の書簡で、その書簡の下に、月渓(呉春)が「窓辺の宗匠頭巾の人物」を描いて、それを合作の軸物仕立てにしたものである。 この下段の月渓(呉春)の画の左下に、「なかばやぶれたれども夜半翁消そこ(消息=せうそこ)うたがひなし。むかしがほなるひとを写して真蹟の証とする 月渓 印 印 」と、月渓(呉春)の証文が記されている。
上段の蕪村の書簡(天明元年か二年十月十三日、無宛名)は、次のとおりである。
早速相達申度候(さっそくあひたっしまうしたくさうらふ)
昨十二日は、湖柳会主にて洛東ばせを(芭蕉)菴にてはいかい(はいかい)有之候。扨
もばせを庵山中の事故(ゆゑ)、百年も経(ふ)りたるごとく寂(さ)びまさり、殊勝な
る事に候。どふ(う)ぞ御上京、御らん(覧)可被成(なさるべく)候。
其日(そのひ)の句
窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉
探題
初雪 納豆汁 びわ(は)の花
雪やけさ(今朝)小野の里人腰かけよ
納豆、びは(枇杷)はわすれ(忘れ)候
明日は真如堂丹楓(紅葉したカエデ)、佳棠、金篁など同携いたし候。又いかなる催(も
よほし)二(に)や、無覚束(おぼつかなく)候。金篁只今にて平九が一旦那と相見え
候。平九も甚(はなはだ)よろこび申(まうす)事に候。平九も毎々貴子をなつかしが
り申候。いとま(暇)もあらば、ちよと立帰りニ(に)御安否御尋(たづね)申度(ま
うしたく)候。しほらしき男にて。かしく かしく かしく
この蕪村書簡に出てくる「湖柳・佳棠・金篁・平九」は蕪村門あるいは蕪村と親しい俳人達である。また、この書簡の冒頭の「昨十二日は」の「十二日」は、芭蕉の命日の、「十月(陰暦)十二日」を指しており、この芭蕉の命日は、「芭蕉忌・時雨忌・翁忌・桃青忌」と呼ばれ、俳諧興行では神聖なる初冬の季題(季語)となっている。
この書簡は、蕪村の「窓の人のむかしがほなる時雨哉」を発句として、「はいかい(俳諧)有之候」と歌仙が巻かれたのであろう。この発句の「むかしがほ(昔顔)」は、当然のことながら、俳聖芭蕉その人の面影を宿しているということになる。
世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨 二条院讃岐 『新古今・冬』
世にふるもさらに時雨のやどり哉 宗祇 連歌発句
世にふるもさらに宗祇のやどり哉 芭蕉 『虚栗』
この芭蕉の句は、天和三年(一六八三)、三十九歳の時のものである。この芭蕉の句には、宗祇の句の「時雨」が抜け落ちている。この談林俳諧の技法の「抜け」が、この句の俳諧化である。その換骨奪胎の知的操作の中に、新古今以来の「時雨の宿りの無常観」を詠出している。
旅人と我が名呼ばれん初時雨 芭蕉 『笈の小文』
貞享四年(一六八七)、芭蕉、四十四歳の句である。「笈の小文」の出立吟。時雨に濡れるとは詩的伝統の洗礼を受けることであり、そして、それは漂泊の詩人の系譜に自らを繋ぎとめる所作以外の何ものでもない。
初時雨猿も小蓑を欲しげなり 芭蕉 『猿蓑』
元禄二年(一六八九)、芭蕉、四十六歳の句。「蕉風の古今集」と称せられる、俳諧七部集の第五集『猿蓑』の巻頭の句である。この句を筆頭に、その『猿蓑』巻一の「冬」は十三句の蕉門の面々の句が続く。まさに、「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目(美目)」なのである(『去来抄』)。
芭蕉の「時雨」の発句は、生涯に十八句と決して多いものでないが、その殆どが芭蕉のエポック的な句であり、それが故に、「時雨忌」は「芭蕉忌」の別称の位置を占めることになる。
楠の根を静(しづか)にぬらすしぐれ哉 蕪村 (明和五年・『蕪村句集』)
時雨(しぐる)るや蓑買(かふ)人のまことより 蕪村 (明和七年・『蕪村句集』)
時雨(しぐる)るや我も古人の夜に似たる 蕪村 (安永二年・『蕪村句集』)
老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな 蕪村 (安永三年・大魯宛て書簡)
半江(はんこう)の斜日片雲の時雨哉 蕪村 (天明二年・青似宛て書簡)
蕪村の「時雨」の句は、六十七句が『蕪村全集一 発句』が収載されている。そして、それらの句の多くは、芭蕉の句に由来するものと解して差し支えなかろう。
蕪村は、典型的な芭蕉崇拝者であり、安永三年(一七七四)八月に執筆した『芭蕉翁付合集』(序)で、「三日翁(芭蕉)の句を唱(とな)へざれば、口むばら(茨)を生ずべし」と、そのひたむきな芭蕉崇拝の念を記している。
この蕪村の芭蕉崇拝の念は、安永五年(一七七六)、蕪村、六十一歳の時に、洛東金福寺内に芭蕉庵の再興という形で結実して来る。
この冒頭の「「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)ですると、上段の『蕪村の書簡』の「窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉」の「昔顔」は芭蕉の面影なのだが、下段の月渓(呉春)が描く「窓の人」は、芭蕉を偲んでいる蕪村その人なのである。
そして、その「芭蕉を偲んでいる蕪村」は窓辺にあって、外を眺めている。その眺めているのは、「時雨」なのである。この「時雨」を、芭蕉の無季の句の「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」の「抜け」(省略する・書かない・描かない)としているところに、「芭蕉→蕪村→月渓(呉春)」の、「漂泊の詩人」の系譜に連なる詩的伝統が息づいているのである。
蕪村の俳画の大作にして傑作画は、「画・俳・書」の三位一体を見事に結実した『奥の細道屏風図』(「山形県立美術館」蔵など)・『奥の細道画巻』(「京都国立博物館」蔵など)を今に目にすることが出来るが、その蕪村俳画の伝統は、下記の「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)で、その一端を見ることが出来る。