与謝蕪村
https://blog.goo.ne.jp/miki701_1941/e/643751049b7694f0dcd6fa5f82c60c90 【与謝蕪村】 より
与謝蕪村は俳諧で名をなしていたが、宗匠の道に進まず、清貧に甘んじた。一汁一菜、シンプルな食卓であった。歳の瀬になると門口に、狂歌を下げて掛取りを驚かした。
首くくる縄切れもなし年の暮
この歌を見て、掛取りは声もかけず去って行った。どこか憎めないところが蕪村にはあったのであろう。摂津国東成郡天王寺村が蕪村が育った村である。大阪と神戸との間の地域で、天王寺蕪の産地として有名である。蕪村は、この蕪に因んだ名である。蕪村の母はこの村にほど近い毛馬村の貧農の娘で、大阪の大店に奉公に出た。店の主人が、田舎娘のけなげですくよかな姿に惹かれるところがあって、手をつけてしまった。生まれたのが、蕪村である。生まれた所を回想して作られた「春風馬堤曲」にある馬堤とは、郷里の毛馬の堤のことだ。
春風や堤長うして家遠し
蕪村もやはり母のもとを離れて大阪に奉公に出た。商家での奉公は、蕪村には向いていないようであった。薮入りで、母のもとに帰るのが唯一の楽しみであった。絵描きとしても認められ、画と俳諧で名をなしたが、ほかの宗匠たちのように銭かせぎに頓着しない性格であった。
一人娘がいたが、名をくの、とつけ可愛がった。蕪村が60歳を迎えたころ、くのに良縁があり嫁入りをさせて喜んだ。知人への手紙に、「良縁在之宜所に片付け、老心をやすんじ候」と書いている。ところが、嫁いでみると、舅がひどく貪欲で、嫁を働きづめにした。手を傷めても、休みももらえないので、蕪村のもてへ里帰りした。くのの話を聞いた蕪村は怒って、そのまま離縁させてしまった。
案外と世間知らずの蕪村は娘の縁談だけではなく、門人たちへも信用しすぎて、裏切られるということもしばしばあった。天明3年12月24日、病床にあった蕪村は、小康をとりもどしていた。明け方、門弟に硯の用意をさせて筆をとった。
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり 蕪村
この句が、蕪村が残した最後の句であった。
https://www.city.osaka.lg.jp/miyakojima/page/0000083259.html 【与謝蕪村と都島】より
「なの花や 月は東に 日は西に」
「春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな」などの俳句で知られている与謝蕪村は江戸時代中期の1716年(享保元年、八代将軍徳川吉宗が将軍についた年)、大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国(せっつのくに)東成郡(ごおり)毛馬村)に生まれた。生まれ月日は不明である。蕪村は生前自らの出身地についてほとんど語らなかった。例外が「馬堤は毛馬塘也則(つつみなりすなわち)余が故園也(なり)。」の言葉である。これは、1777年(安永六年)2月23日付、伏見の柳女(りゅうじょ)と賀瑞(がずい)という門人の母子に宛てた手紙の中で「春風馬堤曲(しゅんぷうばていきょく)」を自解しながら、自らの故郷のことを語った文言である。
これに続く手紙の文章は「余、幼童之時、春色清和の日には、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候」というものである。
まことに平和で明るい幼年時の回想である。時に蕪村62歳。
還暦を過ぎた老人の、懐旧の切なる心情というべきであろう。蕪村の死後、高弟几董(きとう)が『から檜皮(ひば)』1784年(天明四年刊)に寄せた追悼文「夜半翁終焉(しゅうえん)記」において蕪村の出身は、その草稿では「村長の家」さらに「郷民の家」と書かれていたのが、決定稿ではそれらの文字が削られて「浪速江(なにわえ)あたりに生(おい)たちて」としか述べられていない。几董(きとう)や柳女(りゅうじょ)などごく親しい人には語ったかもしれない自らの生い立ちを多くの人に知られることは望まなかったかのようである。さらに、大阪の俳人大江丸(旧国ともいう)がその著『俳諧袋(はいかいぶくろ)』のなかで「生国摂津東成郡毛馬村の産」とかいている。この著者は蕪村と親しく交際があった人物である。大川と新淀川の分岐点、ここが蕪村のふるさとである。
蕪村は日本文化の歴史のなかでもまれにみる、多面的な才能を発揮した人物として広く知られる。俳人としては、松尾芭蕉・小林一茶とともに近世俳諧史を語るとき必ず名をあげられ、画人としては、国宝「十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)」を合作した池大雅(いけのたいが)や、同時代の円山応挙と並び称される巨匠である。この俳諧と絵画の両道を橋渡しする重要文化財「奥の細道図屏風」に代表される、俳画と呼ばれるジャンルを開拓したことも忘れてはならない業績である。
蕪村は17、8歳の頃に毛馬を出て江戸に下り、早野巴人(はじん)に俳諧を学んだ。1742年(寛保2年)27歳の年に師宋阿(巴人)の死にあい、その後江戸を去る。宋阿門の親友砂岡雁宕(いさおかがんとう)に伴われてその郷里下総(しもうさ)の結城(ゆうき)に足を止め、(妙国寺境内に「北寿老仙をいたむ」の詩碑がある)、やはり同門の中村風篁(ふうこう)を訪ねて下館に逗留もする。
さらに芭蕉の足跡をたどって東北、松島あたりも旅をする。
いわゆる関東、東北地方巡歴の旅の時代である。1751年(宝暦元年)、蕪村36歳の年の秋、十年近い放浪生活を切り上げて京都に上り、しばらく都に居を構える。京に上った蕪村にとって見るもの全てが興味深く、京巡りをこのうえなく楽しんだようである。
しかし同時に画家蕪村にとってこの時期は非常に重要な学習期であったと思われる。京の古社寺にはさまざまな障壁画が所有され、又、中国や日本の古典絵画が豊富に保存されている。京の各寺院ではこうした宝物を公開する機会も多く、本格的な絵画作品に触れ、作品から直に学習する機会を得た時期でもあった。
蕪村生誕の地の石碑の写真
1754年(宝暦四年)蕪村は丹後へ赴き、同7年まで滞在する。
母親の出身地が丹後与謝地方(現 京都府与謝郡加悦(かや)町)であったためとも言われるが「夏河を 越すうれしさよ 手に草履(ぞうり)」の句とともに、このころの蕪村の絵画制作活動は彼の絵画芸術全体を考える上でも大変重要な時期に当たり、「方士求不死薬図屏風(ほうしぐふしやくずびょうぶ)」(施薬寺(せやくじ))の充実した大作を描くようになった。
1757年(宝暦七年)42歳の9月、蕪村は丹後を去って京に帰る。45歳の頃には結婚、そして娘くのの誕生を経てしばらく京都に留まるが、1766年(明和三年)51歳の秋から四国の讃岐へと旅立ち、明和5年53歳の夏まで何度か讃岐と京を往復したりしている。現在、丸亀市の妙法寺(みょうほうじ)に蕪村画「蘇鉄図(そてつず)」屏風が所蔵されており、琴平町には「象の眼の 笑ひかけたり 山桜」の句碑がある。そして55歳の年には夜半亭二世(初代 巴人)を継ぎ、俳諧においても、絵画の世界においても大成期に入って行くのである。
1783年(天明三年)12月25日未明、永眠。享年68歳。「しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり」の辞世句を残し、新春の白梅を心に抱きつつ死んでいった。蕪村の墓は、芭蕉庵のある京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)の境内にある。
毛馬閘門近くの淀川堤防上に、蕪村の句碑と生誕地の碑がある。句碑には有名な「春風馬堤曲」の中の『春風や 堤長うして 家遠し』の句が、蕪村の自筆を拡大して刻まれている。かつてこの句を刻んだ小さな碑が近くに建てられていたが、淀川改修工事で一時的に取り除かざるを得なくなった。淀川改修百周年記念事業の一つとして、句碑の復活が取り上げられ、地元では有志による蕪村顕彰碑保存会が結成され、建設省(当時)・大阪府・大阪市に働きかけ、この四者の協力により昭和53年2月、現在の堂々とした立派な句碑が建立されたのである。初代の句碑は昭和28年にやはり地元の有志によって設置されていたもので、今は国土交通省毛馬出張所敷地内の桜の木の下にひっそりと置かれている。生誕地の碑は昭和54年3月大阪市が建てている。
以上、蕪村のふるさと都島をご紹介しました。
(冊子「蕪村と都島」都島区役所制作より抜粋)
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/006.html 【戸期のマルチアーチスト「与謝蕪村」】 より
松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸期の三大俳人。江戸中期、芭蕉100回忌を前に起こった俳諧復興運動の中心となった。また、模倣に過ぎなかった中国伝来の南画(文人画)を日本的特色のある絵画に磨き上げ、さらに俳画を絵画の一ジャンルとして確立した。俳句と絵画の両面で大きな足跡を残し、江戸期最大のマルチアーチストといわれる。
摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)の生まれ。20歳のころ、江戸に下り、芭蕉の孫弟子・早野巴人(はやのはじん)(夜半亭宋阿:やはんていそうあ)に入門した。巴人が亡くなったあと、門人を頼って下総結城(茨城県)など北関東に逗留し、俳号として初めて「蕪村」を名乗った。芭蕉の『奥の細道』の跡をたどり東北へ足を伸ばし、秋田、松島などを回るなど10年近く放浪生活をした。
宝暦元年(1751)、京都へ上って寺社仏閣を巡り、絵画に刺激を受ける。同4年(1754)に丹後の宮津に向かい、俳句仲間の竹渓和尚が住職を務める見性寺で3年間滞在した。母親の生まれ故郷の加悦(京都府与謝野町)を訪ねるなど句作や絵画の制作に励んだ。丹後時代の絵画は33点が現存する。京都へ戻って還俗して「与謝」姓を名乗るようになり、結婚して娘が生まれた。
蕪村は50歳を超えてきらびやかな18世紀京都画壇に躍り出た。「吾に師なし、古今の名画をもって師となす」と言ったと伝えられる。明和5年(1768)3月に初版が出た京都の人名録『平安人物志』の画家の項に丸山応挙、伊藤若冲、池大雅と並んで載り、安永4年(1775)の再版、天明2年(1782)の3版と3回にわたり掲載されている。
画業は明和8年(1771)に池大雅と『十便十宜帖』(じゅうべんじゅうぎちょう)を合作し、その後も『雪中鴉(からす)・風雨鳶(とび)図』『夜色楼台図』や俳画『奥の細道図巻』などを描き上げた。俳句は、明和7年(1770)に巴人の結社「夜半亭」を引き継いで宗匠となり、門人は京、大坂から近畿一円に広がった。天明3年(1783)12月、68歳で生涯を閉じ、自ら再興した「芭蕉庵」のある洛北・金福寺の芭蕉碑のそばに葬られた。
フィールドノート
毛馬が生んだ近代詩『春風馬堤曲』(しゅんぷうばていきょく)
淀川と大川の分岐点、大阪市都島区の毛馬閘門(こうもん)近くの堤防上に蕪村の句碑と生誕地の碑が建っている。句碑には代表作『春風馬堤曲』18首のうちの2首目「春風や堤長うして家遠し」が蕪村の自筆を拡大して刻まれている。地元有志の蕪村顕彰碑保存会が建設省、大阪府、大阪市に働きかけ、昭和53年(1978)2月、淀川改修100周年記念事業の一つとして建立された。
蕪村は安永6年(1777)、62歳の時、春興帖(しゅんきょうじょう)(句集)『夜半楽』を出版した。「春風馬堤曲」はその中に収録された。同年2月、伏見の弟子に『夜半楽』を届ける際、添えた手紙に「馬堤は毛馬塘(つつみ)也 即ち余が故園也 余、幼童の時、春色清和の日には必ず友どちとこの堤上にのぼりて遊び候」と書いている。蕪村の出生地は諸説あったが、戦後になってこの手紙が蕪村の筆跡と分かり、毛馬が定説になった。当時の淀川は毛馬で本流が南に湾曲していた。蕪村の生家は河川敷になったのではないかと案内板が推測している。
『春風馬堤曲』は発句、漢詩、漢文直訳体の3種の詩形を不規則に並べた異色の文学作品だ。帰郷する藪入り娘に仮託して自らのやるせない故郷への思いを詠っている。大正の詩人・萩原朔太郎は「こういう形式は全く珍しく、蕪村の独創になるものである」「詩想上において西欧詩と類縁があり、明治の新体詩より遥かに近代的のものがあった」と書き、蕪村を「郷愁の詩人」と評した。
蕪村は何度となく大坂や池田、兵庫、灘を訪ね、50歳を超えてからも再三、讃岐に出かけた。その都度、故郷の近くを通っている。「朝霧や難波を尽す難波橋」や「源八をわたりて梅のあるじ哉」という句も残っている。落款は若い頃から大坂や毛馬を連想される「浪華長堤」「馬孛(ぼつ)」「馬塘趙居(ばとうちょうきょ)」「東成」などをつかっている。しかし、毛馬に立ち寄った形跡がない。
蕪村が毛馬を避けた理由は何か。蕪村が元服するころのことだ。享保17年(1732)夏、西日本では冷夏とイナゴの大量発生で飢饉が起こった。被災飢民約260万人といわれる。天明、天保と並ぶ江戸三大飢饉の一つだ。蕪村の弟子、高井几董(たかいきとう)が追悼集『から檜葉』の初稿に蕪村の生家を「難波津の辺りちかき村長の家に生い出て」と書き、江戸後期の戯作者・田宮仲宣(たみやちゅうせん)は「蕪村は父祖の家産を破敗し」と記載している。飢饉による一家離散が故郷を捨てざるを得なかった理由かも知れない。
蕪村生誕300年、世界に発信
淀川の堤防の句碑から南に約300mの大川沿いに平成19年(2007)4月、「蕪村公園」ができた。地元に住むNPO法人「近畿フォーラム21」の池尻一寛理事長らが中心となって地元住民らが蕪村の顕彰公園を作ろうと大阪市に働きかけ、10年がかりの運動で実現した。広さは1万1300㎡、工費は3.5億円。弟子の描いた蕪村像や略年譜、『春風馬堤曲』の解説などを掲示している。また、春夏秋冬4つのゾーンに分けて句碑13基を配置し、それぞれ俳句にちなんだ植物をあしらっている。
「近畿フォーラム21」は平成7年(1995)に発足、平成18年(2006)にNPO法人になった。平成28年(2016)の蕪村生誕300年に向けて平成22年(2010)に市民講座「蕪村顕彰俳句大学」を開講し、年2回、「蕪村顕彰全国俳句大会」(「月刊俳句界」協賛)を開催、表彰式を行ってきた。応募はウクライナ、台湾、フランス、ロシアなど海外も含めて約3千句に上った。
蕪村生誕300年記念として「蕪村が大阪生まれの俳人と定まって70年になるが、顕彰が疎かにされてきた。蕪村の魂が里帰りできるように」と銅像(高さ160㎝)の建立を計画した。銅像は平成28年(2016)1月23日に蕪村公園東隣の淀川神社の境内に出来上がり、除幕式を行った。同年5月1日には都島区民センターで「蕪村生誕300年記念シンポジウム」を開き、研究者や俳人、地元の人ら約250人が参加した。また、9月22日に生誕300年記念の全国大会表彰式を開催するなど1年間、記念行事を展開した。「近畿フォーラム21」は「銅像の建立など蕪村の郷里をアピールできた」として平成29年(2017)3月、解散した。
一方、母親の故郷と言われ、「夏河を越すうれしさよ手に草履」という名句を残した丹後・与謝野町でも平成24年(2012)から毎年、与謝野町蕪村顕彰全国俳句大会が開かれ、約3千句の応募がある。また、中国では平成27年(2015)3月に『漢訳与謝蕪村俳句集』が出版されている。蕪村に魅せられて日本に留学した南山大学講師の王岩氏が蕪村の俳句の大半にあたる2880句を翻訳した。生誕300年を経て蕪村への関心が高まっている。
蕪村に傾倒した小林一三
阪急梅田駅の北東、大阪市北区茶屋町にある阪急阪神ホールディングスの梅田芸術劇場前に斬新なデザインの蕪村の句碑がある。
「菜の花や月は東に日は西に」
江戸中期、この辺りは一面が菜の花畑に覆われ、「黄金の花見」と呼ばれた。都市近郊の農村に商品経済が浸透し始め、タネから油が取れる菜種は農家の貴重な現金収入だった。蕪村には「菜の花や油乏しき小家がち」など「菜の花」を詠んだ句が多く、黄金色の菜種は大坂の春の風物詩だった。蕪村に傾倒した阪急グループの創始者・小林一三(1873-1957)は梅田芸術劇場の前身、梅田コマ劇場の開場が最後の事業となった。
小林は早くから文学に目覚め、慶應義塾在学中の17歳で、小説を故郷の山梨日々新聞に連載、徳富蘇峰の国民新聞からは劇評の依頼も受けた。三井銀行に入社したころ、正岡子規の俳句革新運動が起こり、蕪村を再評価する子規の影響を強く受けた。「私なぞは子規の新派の俳句から教育されて、一足飛びに蕪村宗になった」と書いている。明治40年(1907)に箕面有馬電気軌道会社を設立し、明治42年(1909)に蕪村ゆかりの地の池田に転居した。
池田は早くから酒造業、金融業が発達し、和歌、俳諧、漢詩、絵画など学問芸術が盛んだった。蕪村が子どものころ、画家・桃田伊信に絵を習うために毛馬から通ったとも言われる。また、蕪村の高弟・川田田福(かわだでんぷく)が営む呉服店があり、蕪村は何度か池田に通い、弟子の松村月渓(呉春)も田福に身を寄せるなど蕪村一門にとって縁の深い土地だ。
小林は生まれて間もなく母親と死別し、父親が婿養子だったこともあり、叔父夫妻に養育された。小林は著書で「私は母親が一番恋しいのである』と書いている。蕪村も早く母親を亡くし、一家離散した。小林は絵画でも俳句でも温かい眼差しの蕪村に惹かれた。
小林は、蕪村が句集『春泥句集』に寄せた序文、「俳諧は俗語を用て俗を離るゝを尚ぶ 俗を離れて俗を用ゆ 離俗の法最もかたし」から自宅を「雅俗山荘」と名付けたという。俳句を詠み、美術品を収集し、茶の湯を楽しみ、実業家として鉄道から沿線の住宅開発、宝塚新温泉、宝塚歌劇団の創設、日本初のターミナルデパートの開業などを次々と手がけた。
昭和32年(1957)に小林が急逝すると、自宅とコレクションは、小林の雅号をとって「逸翁美術館」と名付けられ一般公開された。平成21年(2009)に新美術館が近くに開館し、逸翁美術館は新美術館に移り、「雅俗山荘」は「小林一三記念館」と名前を替えて再オープンしている。逸翁美術館は、絵画(俳画を含む)、句短冊、歌仙帖、句稿、書簡など蕪村の作品79点を収蔵している。
2016年2月
(2019年4月改訂)
宇澤俊記
≪参考文献≫
・藤田真一『蕪村』(岩波新書 2000.12)
・藤田真一『日本人のこころの言葉 蕪村』(創元社 2014.8)
・藤田真一監修『与謝蕪村 画俳ふたつの道の達人』
(平凡社『別冊太陽日本の心-202』2012.12)
・森本哲郎『詩人 与謝蕪村の世界』(講談社学術文庫 1996.6)
・佐々木丞平、佐々木正子解説『与謝蕪村 江戸ルネサンス最大のマルチアーティスト』
(芸術新潮2001年2月号特集)
・西本周子『蕪村の絵画』(江戸人物読本『与謝蕪村』1990.10)
・三善貞司『蕪村生誕の地』(大阪春秋第85号 1996年12月)
・伊藤ミチコ『蕪村作品と逸翁美術館』(大阪春秋第85号 1996年12月)
・横谷賢一郎『蕪村の画業における丹後時代』
(与謝野町立江山文庫編『与謝の蕪村』 2006.10)
・財団法人阪急学園池田文庫編『小林一三記念館公式ブックレット』
(財団法人逸翁美術館2011.2)
・朝日新聞『ひと 蕪村の俳句を漢訳して中国で出版した王岩さん』
(2015年11月19日付朝刊)
≪施設情報≫
○ 蕪村公園、蕪村生誕地の碑と句碑
大阪市都島区毛馬町1-12
アクセス:大阪メトロ御堂筋線「梅田駅」もしくは「中津駅」から市バス「毛馬橋」下車すぐ
(蕪村生誕地の碑と『春風馬堤曲』の句碑は、蕪村公園北の淀川堤防上)
○ 与謝蕪村銅像
大阪市都島区毛馬町1-2-11(淀川神社)
アクセス:大阪メトロ御堂筋線「梅田駅」もしくは「中津駅」から市バス「毛馬橋」下車すぐ
○ 句碑「菜の花や月は東に日は西に」
大阪市北区茶屋町19-1 梅田芸術劇場前
アクセス:阪急電車「梅田駅」茶屋町口より徒歩約3分
○ 逸翁美術館
大阪府池田市栄本町12-27
アクセス:阪急宝塚線「池田駅」より徒歩約10分
○ 金福寺
京都市左京区一乗寺才形町20
アクセス:京都市バス一乗寺下り松下車徒歩約7分
○ 与謝蕪村宅跡(終焉の地)
京都市下京区仏光寺通烏丸西入南側
アクセス:阪急京都線「四条烏丸駅」より南へ徒歩約5分・かつてここに路地があり、その路地の奥に居宅があった
○ 野田川親水公園と句碑「夏河を越すうれしさよ手に草履」
京都府与謝郡与謝野町字滝
アクセス:京都丹後鉄道「与謝野駅」よりバスにて約25分