遊行柳
https://www.tokyo-np.co.jp/article/39839 【西行、芭蕉に思いはせ ぶらり栃木県那須町「遊行柳」】 より
栃木県那須町に、古くから歌枕として詩歌や能で取り上げられてきた「遊行(ゆぎょう)柳」がある。何代目かの柳だろうが、歴史のロマンを感じる。新型コロナウイルスで人混みは避けたいが、ここなら人もまばら。大空の下、ストレス発散しては。(藤英樹)
福島との県境近く、広々とした田んぼの中に二本の大きな柳の木が見える。
柳の下に立てられた説明板によると、諸国巡歴の遊行上人(時宗の僧)の前に老翁が現れ、この柳の下に案内して消える。夜更けに上人が念仏を唱えると、烏帽子狩衣(えぼしかりぎぬ)姿の柳の精が現れ、極楽往生できることを感謝して舞を披露したという。
草木にも仏性があるという「草木国土悉皆(しっかい)成仏」の思想が背景にある。室町時代の能楽師・観世信光が「遊行柳」として能に仕立てた。
平安末期の歌僧・西行は二十代と六十代の二度、みちのくへ旅したが、遊行柳で詠んだとされる歌が
道のべに清水流るる柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ
「新古今和歌集」に収められている。
江戸元禄期の俳聖・松尾芭蕉が「おくのほそ道」の途次にここで詠んだ句が
田一枚植ゑて立去(たちさ)る柳かな
「ほそ道」の地の文には、芦野の郡守戸部某(こほうなにがし)が「ぜひ見ていってほしい」と旅の前に折々話していたというくだりがある。この郡守とは芭蕉の俳諧の門人だった芦野の領主・芦野資俊。句の「植ゑて立去」ったのは早乙女か、芭蕉か、はたまた柳の精かとさまざまに想像がふくらむ。
さらに芭蕉を慕った俳人・与謝蕪村もここで
柳散清水涸石処々(やなぎちりしみずかれいしところどころ)
と漢詩調の句を詠んだ。
三人の歌句碑が柳の下に立っている。風に吹かれながらしばしたたずんでいると、時空を超えたはるかな世界に誘(いざな)われる。
https://blog.goo.ne.jp/t-hideki2/e/efafb3540fc39bb237596a893c62e3c5 【遊行柳】より
遊行柳のもとにて
柳 散 清 水 涸 石 処 々 蕪 村
漢字ばかりのこの句、「やなぎちり しみずかれ いしところどころ」と読む。
宰町、宰鳥と号していた一種の習作時代を脱して、蕪村と改号した自覚期に入ってから後の初期の作品である。しかも彼の一生の芸風をはやくも暗示規定した、俤のある点で非常に意味ある一句と思われる。このとき、蕪村は三十代の初めであった。
彼は宝暦年間(1751~1764)、三十代の半ばにしてすでに、当時の俳家の作品および実生活上での沈滞堕落を慨嘆して、己こそ、この間にあって雄才他日必ず功をなすもの、との毅然とした自信を述べうる域に到達していた。事実、宝暦年間には、
夏河を越すうれしさよ手に草履
春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉
などの名作をものし得ているのである。
ちなみに、蕪村の芸境は、彼が五十代の半ばに一応完成し尽くしたと見るべきであろう。その後十年間、洗練円熟を加えつづけたが、根本の心境そのものには、大きな変動進展がなかったと考えられる。
芭蕉没後、幽玄の道を曲解した観念的遊戯に充ちていた当時の俳壇の中に据えてみるとき、この一句は、清新そのものともいうべき画期的意義を帯びるのである。和漢の教養に基づく文人的雅懐を、感覚を透す手法によって、自家独特の詩情へ構成する蕪村の態度が、すでにこの句にはっきりと現わされている。
「遊行柳」は、下野蘆野(しもつけあしの)の里にある。謡曲「遊行柳」の伝説によって有名。
西行の歌に、
道のべに 清水流るる 柳かげ
しばしとてこそ 立ちどまりつれ (新古今集)
と詠まれ、後、芭蕉の『奥の細道』中に、
田一枚植ゑて立ち去る柳かな
と詠まれてさらに有名と。
「清水涸石処々」は、春風馬堤曲中にも「渓流石点々」の句があるが、もちろん蘇東坡の後赤壁賦の「水落石出」にきざしている。蕪村の教養人的要素を示すものであって、几董が『蕪村句集』中に、仮名を交えず漢詩のように誌したのも、そこを察しての上である。
リズムの上からは一応、「5」「5」「8」というように区分され、その点、破天荒な新形式である。また、三つの部分に切り離したがために、柳、水、石と分散したようになった冬ざれ近い景色の、明るくも寂しい気息が如実に伝えられている。ここに、はやくも蕪村の感覚的客観描写の傾向が、明らかに示されている。
季語は「柳散」で秋。
「名高い遊行柳のもとに来てみれば、ここも折からの冬近い寂しい景色。
柳はおおかた散り果て、“道のべの清水”も水が涸れ、河床から石が乾
いた頭を、点々とのぞかせている」
『たけくらべ』の町いとしめば柳散る 季 己
だる満 社主@vamdaruma
東京朝刊20p、"遊行柳" (栃木県那須町)。② 柳の下に3人の歌句碑が立つ。 "道の辺に清水ながるる柳かげしばしとてこそ立ち止まりつれ 西行" "田一枚植えて立ち去る柳かな 芭蕉" "柳散清水涸石処々 蕪村"
https://shige0328.exblog.jp/m2015-05-01/2/ 【那須町芦野(あしの) 堂の下の岩観音と西行の遊行柳】 より
4月17日の栃木県那須町の旧奥羽街道の芦野にある堂の下の岩観音と遊行柳です。カメラはソニーα7Ⅱとvario-sonnar24-70mm&70-300mmGです。
芦野は那須一族の蘆野(芦野)氏の本拠だったところで芦野城と芦野宿がありました。鎌倉時代から幕末まで那須一族の芦野氏の本拠でした。江戸時代になり交代寄合として3000石で大名扱いされる旗本で、領地でに住む事が許されて、参勤交代が出来る家柄でした。現在は城跡が残されていて春の桜の季節は見事な桜となりますが、この日はすでに桜は見頃をはるかに過ぎていました。数キロ北に行くと「境の明神」があり東北に入ります。東北の南端の白河まですぐです。境の明神は下野国(栃木県)側は玉津島神社で、陸奥国(福島県)側は住吉神社と2つの神社が国境を挟んで並立しています。
那須一族は縁戚同士で長らく激しく争った一族です。先祖に源平の合戦で名高い那須与一がいます。もともとは那須国の国造家です。室町時代から戦国時代にかけて主家の那須氏を中心に一族の蘆野(芦野)氏・伊王野氏・千本氏・福原氏と那須氏の重臣の大関氏・大田原氏の事を那須七騎と言いました。豊臣秀吉の小田原攻めに本家の那須氏が参陣しなかったために那須家は取潰されました。その後、関ヶ原の前夜の時に会津の上杉景勝と常陸の佐竹義宣に対する抑えとして最前戦の大関高増の主城の黒羽城を中心に那須衆と徳川家の旗本が防衛に当たりました。大田原城には後詰めの城として那須衆からの人質として、そして当主が戦死した時は家督を継がせるための人質が籠り、徳川家からの援軍が守りました。那須七騎は一族を上げて背水の陣で徳川方に付いたのです。上杉景勝は反徳川の旗幟を鮮明にしていましたが 佐竹氏は親子で意見が分かれ、父親の佐竹義重は徳川に付く事を主張し、家督を継いだ息子の佐竹義宣は石田側に付く事を主張して対立をしていて動けない状態でした。那須七騎の武将として有名な大関高増は大田原氏出身で大関増次が大田原資清との争いで滅びたために大田原資清の息子の高増を大関氏の跡継ぎに送り込みました。それ以来、大田原氏と大関氏は連携して徳川幕府の大名となり幕末まで大名として続きました。後に那須家も名門ゆえに徳川家康により旗本として召し出されました。旗本の中の那須一門は那須衆と呼ばれ交代寄合として旗本でも領地に陣屋を持ち参勤交代を許されていました。なお、那須衆のうち伊王野家と千本家は江戸初期に跡継ぎがなく断絶しましたので那須衆は大名となった大田原家の分家である旧烏山町森田に領地があった大田原家の四家となりました。
旗本には2種類ありました。例外が多いですが原則として3000石で線引きされ、3000石以上は旗本交代寄合とされ老中支配で原則として役職には就かない事が決まりでした。交代寄合旗本は特別の由緒がある地方の大豪族の末裔や大名家の分家、改易された大名家の名跡を継ぐものなどで3000石以下でも交代寄合になれ領地に陣屋を構える事が許されていました。領地は先祖伝来の土地や先祖が昔に治めていた土地が多かったようです。大名と同じで参勤交代は出来ましたが義務ではありませんでした。江戸城内の伺候席(しこうせき)は大名と同格で一般の旗本とは明確に区別されていました。伺候席とは江戸城内での控えの部屋の事で家格や役職や官位によって部屋が決まっていました。小禄で交代寄合旗本になったのに松平郷松平家(松平太郎左衛門家)があります。徳川家康の先祖の発祥の家で250石でした。後に加増され440石になりました。領地の三河国松平郷に陣屋を持ち参勤交代出来る家柄で江戸城内では250石でも大名格でした。250石で大名格となると付き合いのお金が大変だったと思います。そして普通の旗本は寄合旗本と呼ばれ若年寄支配で江戸定府が義務付けられていました。
堂の下の岩観音: 観音堂や岩肌、そしてその周辺の植物たちが信仰的な雰囲気をかもしだしていて、自然景観を作りだしています。桜の時期には、樹齢300年以上といわれるエドヒガンやソメイヨシノ、ヤマザクラなどの巨木がライトアップされ、多くの観光客や写真愛好家で賑わいます。
遊行柳: 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての漂泊の大歌人だった西行ゆかりの柳です。西行は平泉の大豪族だった藤原秀衡を2度訪ねています。西行と藤原秀衡は同族で祖先はオオムカデ退治で有名な藤原秀郷でした。西行は僧籍に入る前は都に居る天皇を譲位した院の身辺を守る北面の武士の佐藤義清でした。東大寺再建をめざす重源より砂金勧進を依頼されて、2度目の陸奥への大旅行をして東北の雄だった藤原秀衡に砂金の勧進を願うために訪れました。その途中で鎌倉に居た将軍源頼朝に逢い一晩を文武の話を語り尽くしたと言われています。特に佐藤家は馬術で有名な一族でした。藤原秀衡は奈良の大仏のための砂金を直ちに鎌倉の源頼朝に届けました。遊行柳は西行が陸奥の藤原秀衡を訪ねた時に、間違いなく通った道ですが1度目なのか2度目なのかは分かりません。下から2枚目は遊行柳から芦野城跡を見あげました。芦野城跡の桜が満開となると付近の桜も満開となり、素晴らしい景色なのですが数日遅すぎました。
新古今集より西行のうた
道の辺に 清水ながるる 柳蔭
しばしとてこそ 立ちとまりつれ
(意)道のほとりに清水が流れる柳の木蔭に、ほんのしばらくのつもりで立ち止まったのだった。
よられつる 野もせの草の かげろひて
涼しくくもる 夕立の空
(意)もつれ合った野一面の草がふと陰って、見れば涼しげに曇っている夕立の空よ。
西行は、花、とりわけ桜を愛したことから、室町の初め、西行の庵にある老木の桜を題材に謡曲「西行桜」が世阿弥によって作られました。室町後期になって、観世信光は、西行が那須・芦野で詠んだ上の歌の柳を主題にして、謡曲「遊行柳」を創作しました。江戸時代に松尾芭蕉は、西行ゆかりの遊行柳に心を寄せ、元禄2年(1689年)に那須岳の殺生石を見物したあとで遊行柳に立ち寄りました。「おくのほそ道」には、あこがれの遊行柳の地に立った感慨が、芦野民部資俊の誘い話に続けて、「今日此柳のかげにこそ立より侍つれ」と記されています。
「清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。
田一枚 植て立去る 柳かな」
との句を「奥の細道」に残しています。芦野の地は那須氏の一族だった那須衆(なすしゅう)の芦野氏の本拠でした。那須衆は、戦国時代から同族間で争いの絶えない一族でしたが、江戸時代に交代寄合として、幕府に仕えた旗本のうち、那須氏(下野国福原1000石)・福原氏(下野国佐久山3500石)・蘆野氏(下野国芦野3016石)・大田原氏(下野国森田1300石)の四家を指します。当初は那須氏と一族の福原氏、芦野氏、千本氏、伊王野氏に大田原・大関氏を加えた七氏からなり、小田原征伐に参陣しなかったために本家の那須氏は所領没収されましたが後に旗本に復活しました。他の6氏は本領安堵・加増を受けています。徳川家に仕えたのは割合新しいのですが、関ヶ原の戦いの時に北那須の最大の城だった大関氏の黒羽城を中心に上杉景勝の南下を防ぐために防備を固め人質を徳川家康に出しました。それぞれの城には徳川家から譜代大名や旗本達が援軍として本丸に入り防備を固めました。江戸期の那須衆は伊王野氏が無嗣断絶となったほかは、大田原の本家と大関氏は旗本ではなく大名となっています。