「平戸・長崎三泊四日」7 10月6日長崎(2)日本二十六聖人記念館②
1597年2月5日、西坂の丘に26本の十字架が一列に並んだ。午前10時、到着した一行はすぐに十字架に縛り付けられ、港と町の方に向かっていっせいに十字架がたてられた。4000人の群衆は一瞬静まり返ったが、静寂はすぐに破られた。「パライソ(天国)、イエス、マリア」とさけぶルドビコ茨木(12歳)の声、マルチン・デ・ラ・アセンシオン(30歳。スペイン人のフランシスコ会司祭)の高らかな歌声。アントニオ(13歳。中国人の父と日本人の母をもつ)は群集の最前列で泣いている良心を慰め励ました。パウロ三木(33歳。説教師。イエズス会修道士)は力強い声でこう語ったとされる。
「ここにおいでになる全ての人びとよ、私の言うことをお聴きください。私はルソンの者ではなく、れっきとした日本人であってイエズス会のイルマン(注:助修士。平修道士。イルマンが司祭職に叙階されるとパードレとなる)である。私は何の罪も犯さなかったが、ただ我がイエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に授け給うた大いなる御恵だと思う。今、この時を前にして貴方達を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を赦すように教えている故、私は国王(秀吉)とこの私の死刑に拘わった全ての人々を赦す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼と全ての日本人がキリスト信者になることを切望する。」(ルイス・フロイス『殉教記録』1597年)
やがて槍を持った二人の役人が、列の両側からはりつけにされた彼らを刺し始めた。正午にはすべてが終わっていた。群集の中には、役人の制止をふりきり、十字架から流れる血を自分の着物で受ける者や、殉教者の着物の切れ端など遺物を切り取る者もいた。徹底したキリシタン弾圧が始まる前のこの事件は、長崎の人びとに同情と尊敬の念を抱かせ、その後の迫害においてキリシタンたちの心のよりどころとなった。
この時から、西坂の丘は「聖なる丘」、「殉教者の丘」と呼ばれるようになる。26人の殉教の話は遠く海を越え、ポルトガルやスペイン、メキシコをはじめイタリアや北ヨーロッパなどへも伝わり、大きな反響をよんだ。1627年、教皇ウルバヌス8世によって26人が福者(カトリック教会において、死後、その徳と聖性を認められた者に与えられる称号)の列に加えられてからは、スペインやメキシコなど多くの教会で、彼らの絵や像が見られるようになった。そして、1862年6月8日、26人の殉教者は教皇ピオ9世によって聖人に列せられた。
この殉教者たちについて書かれた文章で特に共感を覚えたのは遠藤周作の『キリシタンの里』。
「こうした殉教者をたんにファナチックな人間として見たり、殉教者の心理の中に虚栄心か、自己満足しか認めようとしない近代合理主義に反撥を感じていた。たしかにこれら殉教者の心には人間的虚栄心もまじっていたかもしれぬ。自己満足感もあったかもしれぬ。しかしそうした表面的な心のもっと奥に、信仰をもたぬ者には理解できぬかもしれぬが、崇高な別のものがあったことも確かなのである。その崇高な勇気を人間的な次元に還元する現代の人間観に私はやはり、反撥をおぼえたのである。」
私が特に遠藤に惹かれるのはこれに続く一節だ。
「けれども私はこうした強かった殉教者に畏敬と憧れとをもちながら、またこの強者になりえなかった転び者、裏切者を考えた。転び者、裏切者の殉教者にたいする言いようのないコンプレックスについて考えた。そのコンプレックスのなかに私と同じような羨望と嫉妬と時にはまた憎悪さえまじっていたであろう。殉教できなかった者のなかには生涯その負い目を背中に重く背負いながら、生きて行ったものもあろう。彼等はたとえ社会から軽蔑されなくても、自分では自分を軽蔑せざるをえなかった筈である。」
この思いがやがて『沈黙』を生むことになる。
ところで、長崎を代表する教会と言えば「大浦天主堂」。日本に現存するキリスト教建築物としては最古。1953年、国宝に指定され、2018年にユネスコの世界遺産(文化遺産)登録が決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する文化財の1つである。この「大浦天主堂」、正式名称は何か?「日本二十六聖殉教者聖堂」である。1862年に二十六人の殉教者たちが聖人に列せられたのを受け、捧げられた教会なのだ。そのため教会堂は日本二十六聖人の殉教の地である西坂に向けて建てられている。
大浦天主堂
大浦天主堂
ジャック・カロ「長崎の殉教者」
1862年6月8日、ローマで盛大に行われた26聖人の列聖式の様子を表した挿絵
1862年6月8日、ローマで盛大に行われた26人の列聖式 (フランスの週刊新聞紙「ル・ユニヴァヒ・イルストレ」)