秦徐福上陸 ③
http://mb1527.thick.jp/N3-01-2jofuku.html 【秦徐福上陸】より
狗奴国との関係
高良国が勢力を持ちだすと南の球磨国(狗奴国)と衝突するようになってきた。球磨国はBC473年に滅亡した呉の子孫が日本列島に漂着して作った国である。その呉は徐福の先祖の国である徐国を滅ぼしているのである。たがいにそのことは意識していたと思われ、徐福一行の高良国と球磨国は対立関係になったと思われる。甕棺墓をはじめとする徐福一行のものと思われる遺跡・遺物はいずれも熊本県最北端で止まっており、そこから南には全く見えない。これも両国の深い対立関係がうかがわれる。吉野ヶ里遺跡にも戦争を思わせるものが出土しているが、その相手国は球磨国であったのではないだろうか。
北九州沿岸諸国との関係
玄界灘沿岸地方の伊都国・奴国は朝鮮半島との関係が非常に深いようである。BC108年漢武帝が朝鮮を滅ぼして帯方郡を設置しているが、その頃より、発達してきている。 朝鮮半島からの移民団によって建国されたものとも考えられるが、発掘された遺骨の分析では頭示指数・ABO式血液型分析による結果が、朝鮮半島のものとは大きく異なっている。 この地域も中国の江南地方の影響が強いようである。日本列島で朝鮮半島の血筋に近い人々が多いのが近畿地方である。大阪湾岸に来た人々が朝鮮半島からの大量移民団と思われる。 それ以外の地方の弥生人は、中国からの大量移民団が主流と考えられる。おそらく朝鮮半島からBC108年頃多量の移民団が北九州に上陸しようとしたが、先に上陸していた江南地方からの移民団によって 阻まれたのではあるまいか。この集団はやむなく、瀬戸内海を東進し大阪湾岸に上陸したのであろう。この集団は戦闘的性格が強かったようで、大阪湾岸の縄文人との間で戦闘が行われたようである。 この集団は方形周溝墓の墓制を持っており、拡張意識が強く、100年ほどの間に近畿地方一帯はもとより、北陸地方・東海地方まで進出していった。
弥生時代前期から中期の初め頃まで、伊都国に朝鮮半島系の支石墓が出現するが、埋葬されている人々が縄文人なので、この頃には朝鮮半島からの文化の導入はあっても人の大量移民はなかった ものと考えられる。
BC210年頃秦徐福が一挙に3000人を連れてきて高良国を建国した。高良国は暫らくのち、佐賀平野から筑後平野一帯に進出した。南の球磨国との衝突が起き、北の方に移動していったようである。 この時点で遠賀川流域には甕棺墓がほとんど見られず、遠賀川流域までは進出していなかったのであろう。このようにこの当時の渡来人の大半は中国の山東半島から江南地方にかけての地域からと 思われる。
北部九州の戦闘遺跡を分析すると、弥生人同士の戦いのようで、縄文人との戦いの形跡はほとんど見当たらない。最古の王墓と考えられているのが福岡市早良区にある吉武高木遺跡で中期初頭 (紀元前2世紀)頃のものと思われる。この周辺の遺跡には朝鮮半島系の青銅武器が多量出土していると同時に戦死者と思われる人骨も多量に見つかっている。この遺跡の衰退と入れ替わるようにして 伊都国の中心遺跡である三雲遺跡が発達している。これらの王墓には副葬品が多く、権力集中型の王墓と考えられる。
戦闘遺跡が最も多いのがBC2世紀から1世紀にかけての筑紫野近辺である。その南北において勢力の拮抗があったものと考えられる。
伊都国王は周辺の小国を従えた連合国を形成していたのではないかと考えている。武力により周辺を併合して行った様で、権力集中型の王だったと思われる。
これらのことより以下のように推定される。
BC473年中国呉最後の王夫差の子「忌」が熊本県菊池市近辺に上陸し狗奴国を建国、BC209年秦徐福が佐賀県佐賀市近辺に上陸し高良国を建国した。また、ほぼ同じころ中国の山東半島付近から (済州島経由?)で北九州北西部沿岸に人々が多量に上陸。これらの人々は秦の始皇帝によって滅ぼされた国の人々であると思われ、ボートピープルであるため組織力がなく、北九州上陸後、 出身地ごとに小国乱立状態を作り、それぞれの小国間での争いが頻発する状態となったが、次第に伊都国に集約されていったとおもわれる。
高良国は北に伊都国を中心とする小国家連合、南に球磨国に挟まれた中で独立を保っていたのであろう。遠賀川流域、豊国地方はまだ未開の地で国としてのまとまりはなかったものと考えられる。これが紀元前後の北九州一帯の状況であった。