Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

秦徐福上陸 ②

2020.10.14 08:14

http://mb1527.thick.jp/N3-01-2jofuku.html  【秦徐福上陸】より 

上陸伝承

 日本各地に徐福上陸伝承が残されている。その中で最初の上陸と思われるのが佐賀の伝承である。

徐福一行は途中様々な苦難を乗り越えて、杵島の竜王崎(佐賀県佐賀市白石町)に最初にたどり着いた。ここは上陸するには困難な場所であった。上陸が困難なので、徐福一行は海岸線をたどって佐賀県の諸富町大字寺井津字搦(からみ)に初めて上陸したとされている。一行が上陸した場所は筑後川河口にあたり、当時は一面の葦原で,それを手でかき分けながら進んだという。

 一行はきれいな水を得るために井戸を掘り、上陸して汚れた手をその水で洗ったので「御手洗井戸」と呼んだ。この井戸は今でも寺井地区の民家の庭に残っている。寺井の地名は「手洗い」が訛ったものと言われている。この井戸は言い伝えに基づいて大正時代に調査が行われ,井の字型の角丸太と5個の石が発見され,徐福の掘った井戸に間違いはないとされた。

 しばらく滞在していた徐福一行は,漁師が漁網に渋柿の汁を塗るため,その臭いにがまんができず,この地を去ることにした。去るとき,何か記念に残るものはと考え,中国から持ってきた「ビャクシン」の種を植えた。樹齢2200年以上経った今も元気な葉をつけている。この地域では,新北神社のご神木でもあるビャクシンは国内ではここと伊豆半島の大瀬崎一帯にしかないと言われ,共に徐福伝説を持っている。このことも徐福伝説が真実であることを証明している。

 一行は北に向かって歩き始めたが,この地は広大な干潟地であり,とにかく歩きにくい所だったので、持ってきた布を地面に敷いてその上を歩いた。ちょうど千反の布を使い切ったので,ここを「千布」と呼んだ。使った布は,千駄ヶ原又は千布塚と言うところで処分したという。

 千布に住む源蔵という者が,金立山への道を知っていると言ったので、不老不死の薬を探すために,徐福は源蔵の案内で山に入ることにした。

 百姓源蔵屋敷は田の一角にあった。現在その場所は不明だが、源蔵には阿辰(おたつ)という美しい娘がいました。徐福が金立町に滞在中,阿辰が身の回りの世話をしていたが,やがて徐福を愛するようになった。徐福は金立山からもどったら,「5年後にまた帰ってくるから」と言い残して村を去ったが,阿辰は「50年後に帰る」と聞き間違え、悲しみのあまり入水してしまった。村人はそんな阿辰を偲んで像をつくり,阿辰観音として祀った。

 徐福はいよいよ金立山に入った。金立山の木々をかき分けて不老不死の薬を探したが見つけることは出来なかった。

 やがて徐福は釜で何か湯がいている白髪で童顔の仙人に出会った。この仙人に不老不死の薬を探し求めて歩き回っていることを伝え,薬草はどこにあるかと尋ねると、「釜の中を見ろ」と言われた。そこには薬草があり、仙人は「私は1000年も前から飲んでいるから丈夫だ。薬草は谷間の大木の根に生えている」と言うと,釜を残して徐福の目の前から湯気とともに一瞬に消えてしまった。こうして徐福はついに仙薬を手に入れることに成功した。

 仙人が釜で湯がいていたのはフロフキという薬草だった。フロフキは煎じて飲めば腹痛や頭痛に効果があると言われているカンアオイという植物で,金立山の山奥に今でも自生している。

金立山には金立神社がある。祭神は保食神,岡象売女命と徐福である。以前は徐福だけを祭神としていたそうである。

 徐福は金立山で不老不死の仙薬を探し求めたが結局見つけることができなかったので、ここを出発し、各地方に人々を派遣し薬を探し求めた。徐福は山梨県の富士吉田市までたどり着いたが、薬は見つからなかった。このまま国へ帰ることができず,徐福はここに永住することを決意した。連れてきた童子300~500人を奴僕として河口湖の北岸の里で農地開拓をした。この地の娘を妻として帰化し,村人には養蚕・機織り・農業技術などを教えたが,BC208年ここで亡くなったという。亡くなって後も鶴になって村人を護ったので,ここの地名を都留郡と呼ぶようになった。

富士吉田市には「富士古文書(宮下古文書)」が残っており,徐福の行動が詳しく記されている。

 「甲斐絹」は山梨の織物として知られている。富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んだった。この技術を伝えたのが,中国からやってきた徐福であったと伝えられているのであっる。富士山北麓地域の人たちは富士吉田市の鶴塚を徐福の墓としている。

 吉野ヶ里遺跡

 徐福自身は山梨県の富士吉田市で亡くなっているようであるが、佐賀県の金立山周辺には一行の大半が残ったと思われる。この徐福伝承地のすぐそばに吉野ヶ里遺跡がある。両者は直線距離で8km程離れている。

 吉野ヶ里遺跡は徐福が来日した紀元前3世紀ごろに急に巨大化している。吉野ヶ里遺跡は発掘されている巨大遺跡であるが、神話伝承とのつながりが全くない。出土した人骨を分析した結果によると、中国の江南の人骨と吉野ヶ里の人骨とが非常に似ているということが分かった。また、吉野ヶ里から発見された絹は、前二世紀頃江南に飼われていた四眠蚕の絹であり、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じていた。それが日本列島で見つかったということは、吉野ヶ里遺跡を形成した一族は単なるボートピープルではなく、余程の大人物が中国から最初に持ちだしたことを意味する。時期、場所を考えるとその人物が徐福一行である可能性は高い。徐福と別れ、この地に残った人々が吉野ヶ里遺跡を形成したと考えられるのである。

 吉野ヶ里遺跡はかなり戦闘を意識した遺跡である。弥生時代最大級の環濠集落であり、巨大な物見櫓、高床式倉庫群、そしてひしめく住居跡や、幾重にもめぐらした環濠跡ある。また、埋葬されたおびただしい数の甕棺墓の中には、頭部のないものや矢を打ち込まれたものなど戦死者と考えられる人骨が多数存在している。

 弥生時代中期までは戦闘を目的とした武器が出土する。北九州は集落同士の戦闘状態にあったことは確かであろう。

 高良大社との関係

 吉野ヶ里遺跡から直線で16km程離れた位置に筑後国一宮の高良大社がある。現在でも高良大社は吉野ヶ里遺跡付近に住む人々の信仰対象となっているのである。高良大社の背後にある高良山は筑紫平野一帯を一望できる山である。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人たちは、その持っている先進技術のためか、周辺の集落から襲撃をよく受けていたのではないだろうか、出土状況はそれを裏付けている。そのような時、周辺の集落の動向を探るには高良山は理想の位置にある。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人々が高良山を支配下に置こうとするのは理解できる。高良山から四方を見渡して、周辺の集落の動向を探っていたことは十分に考えられるのである。

 徐福一行は童男童女3000人が主体である。成人集団より人口増加率は高かったと思われる。西暦紀元前後には数万人規模になっていたのではないだろうか。佐賀平野だけでは収まらず、筑後平野にも進出していったと思われる。この一族の墓制は中国長江流域と同じく甕棺墓であると思われる。甕棺墓こそ佐賀平野・筑後平野一帯に広がっており、徐福の子孫が筑後平野にも進出していったことがうかがわれる。佐賀平野・筑後平野を一望できるのが高良山(高良大社)である。

 高良大社(福岡県久留米市御井町1番地)は式内社・名神大社で筑後国一宮である。福岡県久留米市の高良山にある。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。主祭神の高良玉垂命は、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あるが、誰なのであろう。

 高良玉垂命は古えより筑紫の国魂と仰がれている。筑紫の国魂は筑紫神社では白日別命のこととされており、白日別命は筑紫神社の五十猛命と共に祭られており、九州で五十猛命と行動を共にしたのは素盞嗚尊であること、また、玉垂命とは潮干玉、潮満玉を扱う神で海神を意味している。海神とは素盞嗚尊である。このことから高良玉垂命は素盞嗚尊であると思われる。

 筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に信仰圏を持つ。高良山にはもともと高皇産霊神(高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。高牟礼から音が転じ、「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。

 ここで、徐福一行と高皇産霊神がつながった。徐福伝承は大和朝廷成立にかかわる神話伝承には全く出てこない。しかし、これほどの技術者集団が大和朝廷成立に全く関わっていないということは考えにくく、神話上のどの神かにつながっているのではないかと思っていたが、その神が高皇産霊神であったようである。

 徐福一団は佐賀平野から筑後平野に広がっていき、一つの国を形成したこの国名を仮に高良国と呼ぶことにする。高良国王は高皇産霊神の神である。高皇産霊神は筑紫平野一帯を主体的に統一し、自らの持つ先進技術を周辺の人々にも伝えていった。高皇産霊神の尽力により北九州は一部を除いて統一されたのである。