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秦の方士 徐福伝説と物部氏の正体(中偏)

2020.10.14 10:38

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_192.html 【秦の方士 徐福伝説と物部氏の正体(中偏)】 より

さて、前回、古代中国の秦の時代、徐福が日本に向けて旅立った事を示しました。

▼徐福像(新宮市徐福公園内)

越の国の「ジャポニカ米」が東シナ海を渡って、日本に辿りついているのを見ると、徐福が2度目の航海でも、無事に日本に渡った可能性は高そうです。

※米の伝播ルートから2度目の徐福の航海は、九州への上陸の可能性が高そうです

しかしながら、徐福の上陸地は、日本各地に徐福伝説が残っているものの、現代では、正確な上陸地が分からない状態です。

果たして、徐福の日本渡来の「最初の上陸地」と「2度目の上陸地」は何処なのか?

この答えについては、我々一般人は容易に知ることが出来なかったんですが・・・

実は、その答えを裏の神道組織である「八咫烏」は知っていたんです。

そして、実は、「こちらの飛鳥昭雄氏の著書」の中で、

飛鳥氏自身が、直接、「八咫烏」に徐福の上陸地点を確認しています(苦笑

・・・

・・・

飛鳥氏の推測に基づく論拠であれば、管理人も文句や反論もしようもんですが、

「八咫烏」が言う事は、管理人も一切反論できません。

なんせ、日本の神道祭祀のTOPに君臨する組織の見解ですので、、、

それは真実の歴史であると見なさなければいけません。

八咫烏が明かした徐福の上陸地点は、若狭と北九州だった!

まぁ、「八咫烏の言う事を信じるかどうか?」は、読者の方にお任せしますが・・・

先ほどの、飛鳥昭雄氏の「失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎」の本の中で、

八咫烏が述べている要旨は、下記の3点です。

①徐福の1回目の上陸地は、若狭湾である

②徐福の2回目の上陸地は、北九州の西側である

③物部氏は、徐福とともに来ている

まず「①徐福の1回目の上陸地は若狭湾である」についてですが、

若狭湾と言うと、敦賀、三方、小浜、舞鶴、宮津、、、その辺りに絞られます。

しかし、この若狭湾周辺で、徐福上陸の伝承が残っているのは、ただ、1箇所しかありません。それは、、、京都府与謝郡伊根町新井(にい)です。

この伊根町新井崎のハコ岩と呼ばれる場所に徐福が漂着したとされ、伊根町新井崎にある、新井崎(にいざき)神社には徐福伝承もあります。

<新井崎神社に残る徐福伝承>

新井崎神社 新井小字松川(旧村社)

祭神 事代主神・宇迦之御魂神とされているが、元三宝荒神を祭り、現在地区の住民は徐福を祭るとしている。

「与謝郡誌」新井崎神社 にある記述

朝妻村字新井小字松川、村社、祭神徐福、秦の始皇童男童女に命じて不老不死の藥を此地に求めしめたりなどの傳説あり

「Wikipedia 新井崎神社」

日本全国に残る徐福に関する伝承の一つとして、新井崎神社にも由緒ある伝説が伝わっており、新井崎神社の祭神となっている。

徐福は、秦の始皇帝に不老不死の薬を探し求めるよう命じられ、海を渡って新井崎の地に辿り着いた。探したものの、なかなか見つからなかったが、そうであろう「九節の菖蒲と黒茎の蓬」を探し当てた。

しかし、海が荒れるなどして帰る機会が無くなり、新井崎の地で成仏することになった。

徐福は当時日本より文明が進んでいる中国から来たことで、産業にも力を入れたので村人から慕われた。

海から漂着した人であることから、漂着地点に近い新井崎神社に祀られ、現在でも信仰の対象となっている。

徐福が求めてきた神桑というのは「九節の菖蒲と黒茎の蓬」であるとされている。

黒茎の蓬はからよもぎといい、普通のよもぎと異なって葉の裏の白毛が少なく、よもぎ餅を作るのに適する。生長するともぐさになる。

新井崎神社周辺の新井崎海岸(のろせ海岸)に現在も自生している。

不老不死の薬が、「九節の菖蒲と黒茎の蓬」というのは管理人もよく分かりませんが、

徐福の求めた三神山の一つ蓬莱山が、別名で蓬が島(よもぎがしま)とも言うので、

三神山の名前に、あやかっているのかもしれません。

あと、徐福伝承以外に気になる点として、新井崎神社の古文献「新大明神口碑記」に、

「丹後奥郡澄之江の里は、龍宮城と同所にして異名なり」という記述があります。

これは、日本書紀の雄略紀にも出てくる丹後地方に残る浦島子伝説です。

『丹後国風土記』逸文の浦島伝説では、「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読ませてますが・・・

実は、11代垂仁天皇の命により、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めてタジマモリ(アメノヒボコの子孫とも言われる)が渡った国も、常世の国です。

徐福伝説と浦島太郎伝説、タジマモリの話は、全て丹後半島の話ですが、それぞれのストーリーに妙に、不老不死の伝説(常世の国)が絡んで居るのが印象的です。

まぁ、少し、話が脱線しましたが、とにかく、この時代は徐福の漂着も含め、この京都北部丹後の地に、海流に乗って漂着する人が多かったことは確かなようです。

(徐福が、北丹後の地に辿り着いたのも、頷けます)

籠神社と海部氏のルーツ

さて、八咫烏の指摘などから、徐福の最初の渡航の漂着地は与謝郡だと考えられますが、この地に徐福が上陸した事に、管理人は物凄い大きな意味があると考えます。

なぜなら、、、この与謝郡には、元伊勢籠神社が鎮座しているからです。

▼元伊勢籠神社

籠神社と言えば、代々の宮司さんは、海部(かいふ)氏です。

(現在の宮司さんは、82代目の海部光彦氏です)

この海部氏が持つ家系図は、天皇家に匹敵するほど古く国宝にも指定されています。

(※海部氏の家系図には、「本系図」と「勘注系図」の2種類があります)

▼海部氏系図 本系図(あまべしけいず)

それで、興味深いことに、海部氏系図を見ると、海部氏の始祖は、

彦火明命(亦の名を天火明命(アメノホアカリノミコト))に始まる事が分かります。

天火明命は、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命と萬幡豊秋津師比売命との間に生まれ、

天孫 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は、天火明命の弟に当たります。

さらに、この天火明命ですが、『先代旧事本紀』には、この天火明命こそが、

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒのノミコト)だと記されています。

▼饒速日命(ニギハヤヒノミコト)=天火明命(アメノホアカリノミコト)

そして、この事は、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の子孫である

神武天皇の東征とも深く関わってくることになるのです。。。

海部氏は、物部氏の中の物部氏

ここで、一旦、記紀の神武東征の場面を紹介します。

神武天皇は、九州から大和に登り(東征)、長髄彦と対峙していますが、

下記は、そのクライマックスの場面です。

イワレビコ命(神武天皇)は、

「天神の子供は大勢いる。そなたが君とする人が本当に天神の子なら、

必ずしるしの物を持っているはずである。それを見せよ。」

と言いました。

長髄彦はニギハヤヒ命の天羽羽矢(あまのははや)を一隻、

また歩靫(かちゆき)を持って、イワレビコ命に見せました。

イワレビコ命はこれを見て、「本物だ。」と言って、

戻って自分の所有する天羽羽矢一隻と歩靫を長髄彦に見せました。

長髄彦はその天表(あまつしるし)を見て、畏れかしこまりました。

しかし、武器を構えていて、その勢いを中途で止められませんでした。

またなおも間違った考えを持ったまま、捨てる気持ちになりませんでした。

ニギハヤヒ命はもともと天神が大切に思っているのは、

ただ天孫だけだと知っていました。

それに比べて、長髄彦のひととなりはねじけた性格で、

天孫と人との違いを教えても理解出来ないのを見て、ついに殺してしまいました。

そして、衆人を率いてイワレビコ命に帰順しました。

イワレビコ命はもともとニギハヤヒ命は天から降ったという事を知っていました。

そうして、今、忠誠心を示しました。それを褒めて寵愛しました。

この人が物部氏の遠祖です。

この神武天皇のストーリーの中では、神武天皇とニギハヤヒが、同じ徴を見せ合う事で、

双方が「天神の子供(天津神系)」であったことが、示されています。

そして、最後の部分には、「ニギハヤヒ命は物部氏の遠祖だ」としっかり書かれています。

ここで思い出して下さい。八咫烏は、こうも言ってました。

③物部氏は、徐福とともに来ている

要するに、、、

神武天皇が大和を制圧する前まで、

大和の地を抑えていたニギハヤヒ命は、徐福の連れてきた一族だった訳です!

しかし、現在の籠神社の宮司の海部光彦氏は、こうもコメントしています。

物部氏と海部氏では格が違う。

一つの大きなグループを形成していたが、中核を担ったのは海部氏である。

上記は「失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎」より引用

上記の"一つの大きなグループ"とは、物部氏全体のことを示唆していると思われます。

要するに、物部氏の中でも海部氏はその中心勢力であると、氏は述べている訳です。

以上のことから察するに、海部氏は、天津神系の末裔です。

(海部=あまべ=天部で、天津神の末裔を示していると思われます)

さらに、海部氏は、物部氏族の長的一族の一つだったと考えて良いと思います。

また、海部の名前に"海"が入っているのは、

徐福や連れてこられた一族が、海人の多く住む中国の越出身であり、

彼らは海人族(海を治めた航海民)であった事を暗に示していると考えられます。

そして、最も大事なことですが・・・

彼らこそが、神武天皇が大和朝廷を樹立するまでの

倭の国を治めていた中心勢力の一つだった訳です。

(※本当はここで、邪馬台国の議論にも発展するんですが、邪馬台国論争は、色々他にも検討しなければいけなくなるので、ここでは言及しない事にします)

しかし、そう考えると、不思議なのが、神武天皇です。

神武天皇とは、一体、何者だったのでしょうか?

もちろん、神武天皇の名前自体は、後世で淡海三船が付けた漢風諡号なので、

実際のそういう名前の人物は居なかったと思います。

また、記紀に書かれた神武天皇には、「建国記念の日に隠された謎」の記事で書いたように、

人物のモデルとして、聖書のエフライムの息子のベリアやモーゼが仮託されて居ると思います。

しかし、ここで問題としているのは、

それら神武天皇のモデルを差し引いて現れる、真実の日本の歴史はなんのか?

・・・という部分です。

記紀に、神武天皇のストーリーが組み込まれたのには、

何か、日本の歴史を語る必要要素があったからに他ならないのです。

そう言うところが、まだここで述べていない、

「②徐福の2回目の上陸地は、北九州の西側である」に関わってきているような気がするのです。