若狭湾は海部氏に
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=300210 【日本人と縄文体質
300210 物部氏となった徐福集団7~卑弥呼の出自と徐福~】 より
「失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎」(飛鳥昭雄著)の「第9章 物部氏となった徐福集団と邪馬台国」からお送りします。
「卑弥呼はユダヤ人予言者だった」と著者曰く。ユダヤ人かどうか?不明であるが、卑弥呼は、南方出身とも、半島の金首露の妃であった許黄玉とも言われているが・・・許姓一族は、中国南部で宗教的に氾濫を起こした部族のようで、彼らは、さらに西方出身であるとも言われるので、ユダヤ系とも考えられるかも知れない。
また、国宝とされている海部氏の系図(尾張氏系図)に、日女命(ひめのみこと)とあり、同一人物ではないか?といわれている。
少なくとも、卑弥呼は、祭祀をつかさどるシャーマン的価値を認められた人であったようであり、海部・尾張・物部の三氏族と徐福集団は関係していると考えられる。
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■卑弥呼はユダヤ人予言者だった
畿内の邪馬台国にあっては、かなりの混乱があったことが予想される。畿内における先住民にとって、物部氏は征服民に等しい。大陸仕込みの圧倒的な軍事力をもって侵攻してこなければ、いくら古代であっても、地名がそっくり入れ替わるほどの集団移住は実現できなかったはずである。
いや、軍事力だけでは無理である。軍事力のはかに、周辺の倭人を納得させるだけの権威が必要だったに違いない。古代における権威とは神秘的な力、今日でいう霊能力や超能力だったはずである。これらを持ち合わせていたのが、卑弥呼だった。実際の統治は弟が担い、ひたすら祭祀に没頭し、神々の託宣を下した卑弥呼の存在があってこそ、畿内における邪馬台国は成立しえたのである。
当然ながら、卑弥呼は物部氏である。しかも、ただの物部氏ではない。物部氏の中の物部氏、すなわち海部氏だった。徐福が率いてきたユダヤ人のなかでも、大祭司コーヘンの血を引く祭司レビ人だった。おそらく女性預言者ともいうべき存在だったのだろう。
第5章でも紹介したように、籠神社が所蔵する国宝「海部氏勘注系図」には天火明命の子、天香語山命(あめのかぐやまのみこと)を初代として、第8代目の丹波国造(たんばのくにのみやつこ)に日本得魂命(やまとえたまのみこと)なる人がおり、その娘の名が「日女命(ひるめのみこと)」と記されている。日女命はヒメ命、もしくはヒルメ命と読むことができるように、太陽神に仕える巫女を意味する。これは太陽神の巫女=日巫女、つまり卑弥呼のことなのである。
しかし、ここで忘れてはならないことがある。八咫烏の証言によれば、徐福集団は2か所に上陸した。若狭湾と九州である。若狭湾に上陸した徐福集団は海部氏となり、九州に上陸した徐福集団は物部氏となった。ともに同じ徐福集団とはいえ、住む地域も異なり、両者は別のクニを形成していた。物部氏が九州から東遷してきたとき、畿内に影響力をもっていた海部氏がすんなりと集団移住を受け入れたとは考えにくい。
おそらく海部氏と物部氏の間でなんらかの取り引きがあったのではないだろうか。思うに、それが卑弥呼だった。海部氏の血を引く霊能者の卑弥呼を女王として迎え入れるならば、邪馬台国の存在は認めようという話になった可能性が高い。神秘的な力をもつ巫女を女王とすることで、物部氏は畿内の先住民たちを納得させることができ、海部氏もまた王家に一族の者を送り込むことで影響力を行使し、物部氏のもつ強大な軍事力を味方につけることができたというわけだ。
こうして海部氏のユダヤ人預言者、卑弥呼が女王として君臨することによって、無事に邪馬台国が成立した。九州と若狭湾から畿内を押さえたことで、物部氏=海部氏は西日本の倭国を支配することが可能となったのである。ひょっとすると、これは徐福の戦略だったのかもしれない。若狭湾の次に九州に上陸することで、最終的に西日本の倭国を両端から挟み打ちする青写真を描いていた可能性は十分ある。