「平戸・長崎三泊四日」8 10月6日長崎(3)長崎の消えた教会跡
長崎で目にする教会建築物は、いずれも幕末開港後に建造されたもの。鎖国以前の「小ローマ長崎」の面影をたどるのは困難だ。1569年に初めての教会トードス・オス・サントス教会が建てられてから45年間、長崎はキリシタンの町として発展し、1614年には人口2万5千人のほとんどがキリシタンであった。しかし、徳川幕府の禁教令で、11月3日から15日の間に、長崎に建てられた教会のほとんどが破壊され、「小ローマ」長崎の町並みはその姿を消してしまったのである。
(1)アルメイダの長崎布教記念碑 「春徳寺」前
リスボン生まれの貿易商ルイス・デ・アルメイダは、1552年の初来日では平戸で香辛料貿易を行ったが、1555年に再来日して、翌年イエズス会に入る。外科医の免許を持っていたアルメイダは、各地で布教活動をしながら外科医としての医療活動も行った。1567年、日本布教長コスメ・デ・トーレスによって派遣され、始めて長崎に布教。長崎の地を訪れた最初の西洋人と言われ、長崎におけるキリシタン史の始まりの人でもある。アルメイダは長崎甚左衛門(キリシタン大名大村純忠の家臣で、純忠の娘を妻にしていた。キリシタン)の招きで大村領の小さな村であった長崎にやってきた。アルメイダは甚左衛門の館(桜馬場)近くに居住し、布教所を設けて医療とキリスト教を広めた。1年間の布教活動で500人がキリシタンになったと言われる。
(2)トードス・オス・サントス(ポルトガル語で「諸聖人」の意)教会跡 「春徳寺」
1569年、長崎甚左衛門からこの地にあった小さな寺院を提供されたガスパル・ヴィレラ神父は、その寺院を改装して、長崎で最初の教会を造った。1597年には、セミナリヨ(中等学校)やコレジヨ(10年制大学)が一時この教会に敷設され、1602年には修練院も置かれた。ヴィレラはこの教会を拠点にして布教し、2年間で約1500人がキリシタンになったと言われる。
(3)「岬の教会」(サン・パウロ教会 →「被昇天のサンタ・マリア教会」) 旧長崎県庁
メルシオール・デ・フィゲイレドは、長崎の開港(1570年)が決まり新しい町がつくられる中で、1571年岬の突端に小さな聖堂を立てた。これが「岬の教会(サン・パウロ教会)」である。この教会は幾度かの建て替えや破壊を経て、1601年「被昇天のサンタ・マリア教会」が建てられ、当時の日本で最も大きく美しい教会と言われた。同じころ、司教館やコレジヨなども建てられた。
「三階からなり、石と木材で、しっかりと丈夫に造られた。内部は中央に大祭壇が設置され、その左右に一方には香部屋、他方には香部屋と同じ大きさの広間があり、そして、その上が、中二階となっており、二部屋がある。この二部屋には祭壇も備えられている。浜辺から階層になって、高く聳えているこの教会は、海の方から眺めると非常に美しく見える。」(被昇天のサンタ・マリア教会についての報告『1601年、1602年度イエズス会年報』)
(4)サント・ドミンゴ教会跡 「サント・ドミンゴ教会跡資料館」 桜町小学校
サント・ドミンゴ教会は、1609年にドミニコ会が修道院を設けたときに、現桜町小学校の場所に建てられたが、わずか5年後に禁教令で破壊された。2002年、小学校が建て替えられた時、敷石や「花十字紋瓦」(十字の先端が花びら状に開いた花十字を文様に用いた瓦。キリシタン墓碑などにも見られ、キリシタン文化の象徴)などが大量に出土し遺跡(勝山町遺跡)が発見された。
「岬の教会」イメージ模型
「岬の教会」イメージ図
旧県庁横のレリーフ図 長い岬の突端に「岬の教会」は建っていた
アルメイダの長崎布教記念碑
トードス・オス・サントス教会跡
「長崎甚左衛門像」 長崎公園
サント・ドミンゴ教会跡から出土した大量の花十字紋瓦