Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

過去の出来事

消されてゆく過去の文化(1)

2020.10.15 03:26

消されてゆく過去の文化(1)

 墓碑というと、「気味がわるい」とか「漢文で読めない」といったことから見向きもしない人が多い。しかし、墓碑は過去のさまざまな技術や教養が凝縮された立派な文化であるとともに、故人の存在した証しでもある。

 その墓碑が近年、次々と姿を消している。これは、行政によって「無縁墳墓」認定され、官報で告示してから1年間の周知期間ののち撤去されるということが猛烈な勢いでなされているからである。祭祀の継承者が絶えたり不明となると、管理者にとっては新規の埋葬ができず、いわば邪魔な存在となる。寺院では永代供養をうたうが、これは永久にという意味ではない。所定の期間内に参拝(清掃や供花など)した形跡がなく、料金も未払いとなると、これもまた無縁墳墓とされてしまう。細かい定めは各寺社で異なるから確認したほうがよいが、つまりは墓を建てたら、そしてしかるべきお金(布施)を払えば、あとは管理者において守り、祭祀をしてくれる、という甘いものではない。

 

 谷中霊園の一例。青木龍峰の墓であるが(画像左)、これが現在は撤去されてしまい、更地になっている(同右)。 

 青木龍峰(天保元年~明治42年9月13日(1830-1909))とは福井藩士で、書家としても有名。名は、脩。号は、龍峰。福井藩砲術家青木吉蔵右衛門の長男。藩儒高野真斎に経史を学び、のち書を正木龍珉に、下曽根金三郎に砲術を学ぶ。書は諸書体をこなし、とくに大篆を得意とする。松平春嶽に気に入られた。明治2年(1869)福井藩書師。東京に出て、文部省警保寮左院に出仕。明治7年(1722)青木孝亮・大熊貞章らと内務省12等出仕。以降、内務3等属に昇進。明治17年(1732)辞官。その後は、もっぱら書道を教授した。享年80歳。戒名は慈雲院釈龍峰居士。

 これだけの人物でも、子孫はいると思われるが、墓守をする人はもちろん、年に一回ぐらい墓参りに来る人もなくなると、無縁墳墓の対象となり、1年後には撤去される。正確には、御霊は無縁仏の墓に合祀されるが、墓碑は魂を抜いて、ただの石として片づけられる。

 しかし、画像を見てのとおり、この墓は書体といい彫り方といい、手本となるほど立派なものである。拓本を取って臨書用あるいは観賞用としても使える。こういうものでも、現実的な理由から消されてしまう。

 墓が増えると、生者の住む土地がなくなってしまう、だから、無縁墳墓は処分しても仕方がない、という考えもある。また、価値あるものなら画像で残しておけばいいという意見も、特に近年高まっている。いずれも一理あるし、価値ある墳墓を中国の碑林のように一か所に集めることも一つだが、それをするにも用地や管理の問題がある。狭い日本ではなかなか困難だ。

 しかし、過去の文化を未来に残すということは、現代人の責務であり、画像ではない、生のものを一つでも多く伝えるという意識と理解も必要。これでこそ文化社会といえる。

※画像は東隅書生さんよりご提供いただきました。