7月30日
この日のことを忘れないために。
自分の思いを乱雑だけど文字に起こさせてください。
私の祖父が7月30日の午後二時五十四分に他界した。
29日の夜、残業から帰ってナルトおじさんを描きながら、ダイヤのAを一気に見ていたときだった。
夜に母から電話が来ることはよくあったし、この前はポケモンGOについて聴いてきたから、今回もどうせそんなことだろうと残業疲れにイライラしながらも電話に出た。
でもなにか様子がおかしくて、泣いているときの声だったから、
『あ、じいちゃんやべぇのかも』
ってすぐにわかって、母の言葉を待った。するとやっぱり祖父のことで。
『今夜が山らしい』
とのことだった。帰った方がいいよな?と聴いたら帰ってきてほしい。いつまでもつかわからないとのことだったので、既に12時を回っていたが、帰る支度をし地元へ車で帰った。
祖父が入院していたのは3月からで、脳梗塞による左半身麻痺。
最初はリハビリにも積極的だったのだが、二ヶ月前からご飯が喉にとおらず食事をしなくなり、点滴での生活になった。
そのころから体重が激減し、見た目も急にかわって、ほとんど骨に皮の状態になっていた。肋の骨は浮き彫りになり、お腹は背中とくっつくくらいへこんで、特に左半身は筋肉などほとんどない。
私はその頃から長くないとは薄々思っていた。だけど、それでも9月くらいまでは大丈夫だろうと思っていた。
容態が急変した原因は肺炎だった。
かけつけると、大部屋に四人の患者がいる部屋になっていた。(それまでは一階上の個室 だった)
一週間前に見舞いにいったばかりなのに、祖父の姿は更に変わっていた。
血圧をあげる薬を打ち続けなければ、もう生きられないといわれた。
私の家族はほとんどが九州各地に散らばっており、父が一番遠く福岡に単身赴任中。車では四時間はかかる。
せめて最後は家族全員で見届けたいと祖母が言ったらしいが、正直ついたときに、私はもう楽にしてあげてと心から思った。
あんなに苦しそうに息をしているのは見てられなくて、わたしは待合室に逃げてしまった。
その日は一睡もせず、ずっと家族全員で祖父の周りで見守り続けた。
とりあえずその日の山は超えたが、祖父の意識が回復する兆しはなかなか見えなかった。
血圧も一時は100近くにはなったが、大体は60~70をいったりきたり。
次の日もほとんど一睡もせず、祖父の近くで声をかけ続けていた。
30日の午前中の容態は血圧をあげる薬はうっていたものの、ある程度安定していた。
しかし、午後二時頃痰を吸入し、血圧をあげる薬をうった直後突然容態は急変した。
急速に血圧が下がり、呼吸も弱く心拍数が下がっていく。目の前で数値が下がっていくときの絶望感は今でも覚えている。
今まで死に対して特に何も思わなかったけど、数値にはっきりと現れて心拍数も血圧も0になったとき、言葉で言い表せられないが、はっきりと死を感じた。
体も、呼吸をするときに動いていたのにピクリとも動かない。
わずかに動いていた右半身も触っても触っても反応が全くない。
じいちゃんって呼んでも、瞼が動かない。
祖母がずっとお父さん、お父さん頑張ってって言っていた。でも、呼吸がとまった瞬間、祖母お父さんお疲れさまと言葉をこぼした。
ああ、死んだんだ。今。
じいちゃん、死んだんだ。
そう思った。
死ってこういうのを言うんだって、思った。
お化粧されて、一旦病院から祖父の遺体を実家に運んで仮通夜を行った。
私と妹はずっと祖父の遺体のそばで何気ない話をした。
実感はなかった。いつも通りに、いつものように祖父の近くで何気ない話をした。
でもそこにいるのは、もう死んでいる祖父。
全然死んでいる感じがしなかった。
いつもぐーぐーと食べては寝る祖父を見ている気分だった。本当は起きるじゃないっちゃろうか?と妹と祖父を見ながら話した。じーちゃーん。そう言ってみたけど、やはり反応はもちろんなくて。
その日は祖父の側でご飯を食べ、私の父と母と妹は祖父のそばで一晩を過ごした。(私は体調をくずし自分の部屋で寝た)
通夜と告別式の準備をし、とにかくバタバタと時を過ごした。今から12時間前に、通夜を行い三時頃、祖父の骨を納骨した。
祖父の骨は思ったより丈夫だった。
いつもカルシウムばっかりとってたからかな。綺麗な骨で、半身麻痺じゃなかったらまだ背骨も曲がらず現金だったんだろうなと思った。
今、この数日を振り返ると突然のことすぎて頭が整理できていなかったけど、文字に起こしてみると、改めて祖父を心の底から好きだったなと実感しています。
書ききれないことが多すぎて、まだ完全に気持ちの整理もついていないけど。
優しくて真面目で、家族思いだった祖父はきっと天国にいけると思います。
じーちゃん、心の中では何回もいったけど、改めてお疲れさまでした。