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邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その5、6)

2020.10.15 11:47

https://www.halex.co.jp/blog/ochi/20180206-15035.html  【邪馬台国は四国にあった…が確信に!】(その5)

徳島県を旅すると、いたるところで日本、特に徳島と古代ユダヤとの繋がりについて書かれたものに遭遇します。このスナックでもこういう本がふつうに雑誌類と並んで置かれていました。私も今回の旅で徳島と古代ユダヤの関係について書かれた本を何冊か購入しました(後述)。それらの本を現在通勤途中の電車の中で読んでいるところですが、メチャメチャ面白いです。これらの本をザッと読んで私なりに解釈したことに、これまで『おちゃめ日記』に掲載してきた「えっ! 邪馬台国は四国にあった?」や「全国の越智さん大集合!」を書くにあたって私がいろいろと日本の古代史に関して推論したことを加えて、以下に示します。もっと詳しく読むと私の解釈も変わるかもしれませんが…。

紀元前13世紀頃(すなわち、今から3,000年以上昔)、神の命令によって奴隷状態のヘブライ人をエジプトから連れ出す使命を受けたモーゼは民を率いてエジプトを脱出し、東方を目指しました(旧約聖書の『出エジプト記』より)。その時に神より授かった神の意思(これが十戒)が記された石板がユダヤの秘宝と呼ばれるものです。ちなみに、モーゼは神の目に適った美しい子で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教およびバハーイー教など多くの宗教において、もっとも重要な預言者の一人とされています。(新約聖書の『使徒言行録』より)

メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域には、今から約1万年前の中石器時代以降、シュメール人がチグリス川とユーフラテス川の間に高度な文明をもった都市国家を建設していました。これが初期のメソポタミア文明とされるものです。このシュメール人が一般的にはヘブライ人と呼ばれる人達です。このシュメール人による文明は、紀元前20世紀頃から急激に没落し、シュメール人と呼ばれる人々は忽然と歴史上から姿を消します。

モーゼに率いられたヘブライ人の集団は陸路と海路に分かれて東方を目指して移動しました。モーゼ自身は陸路東方を目指したのですが、40年間彷徨ったあげく、途中で死去してしまいます。いっぽう、海路、東方を目指した集団(先発集団)は約1年半の航海を経て、極東の島国、日本列島に到着しました。当時のシュメール人は優れた航海術を持っており、偏西風と黒潮(海流)を利用すれば、当時の船でも約1年半の航海で、インドやマレー半島経由で日本列島に到着することが可能と思われます。

この紀元前13世紀あたりから、日本列島はそれまでの縄文時代から、弥生時代に突如移ることになります。狩猟採取が主体だったそれまでの社会から一変し、稲作を中心とした農耕文化が興り、製鉄技術や文字といった高度な文明も突如興ってくるわけです。これがシュメール人(ヘブライ人)が海路日本列島にやって来て、それらシュメールの優れた文明を日本列島に伝えたのだとすると、大いに納得するものがあります。また、最初に海路日本列島にやってきたシュメール人(ヘブライ人)が土着の縄文人と交わって(民族の同化)、現在の日本人が生まれたとも考えられます。1万年以上という長きに渡って続いた縄文時代にはずっと約10万人程度だった日本列島の総人口が、弥生時代になると100万人規模にまで一気に急増していることから、相当の数のシュメール人が日本列島に海路やって来たと推定されます。

日本神話に残る神々は、この渡来したシュメール人のことだとする説もあるようです。七福神で有名な「宝船」は、高度な文明を持ったシュメール人が船に乗ってやって来たことに由来するのではないかとも言われています。高度な文明を持っていたことから、それまで日本列島に土着していた縄文人は、ビックリ仰天して、それら船に乗って渡来してきたシュメール人のことを“神”と崇めたとしても何らおかしなことではありません。そうした神のような人々がいっぱいやって来たことから、それまでの自然崇拝と合わさって、「八百万の神」と呼ばれるようになったとも考えられます。イザナギやイザナミという神々は、そうしたシュメール人なのかもしれません。

シュメール人がやって来た場所は、黒潮の流路から考えて、主に九州南部から四国にかけてと推定されます。イスラエルの首都エルサレムが位置する緯度は北緯は31度77分。徳島市は北緯34度07分、四国最南端の足摺岬が北緯32度43分。ほぼ似たような緯度にあり、しかもエルサレムをはじめとしたイスラエルは地中海性気候に区分されることから、四国の瀬戸内海沿岸地域は、特にシュメール人にとって極めて住みやすい楽園のような地であったのではないか…と推測されます。しかもエルサレムは標高が800メートルと言う台地の上にあり(意外と標高が高い)、シュメール人はもともとはそうした高地の民でした。従って、彼等もそうした標高の高いところに住みたがる習性を持っていたと推察されます。それが日本神話に出てくる“高天原”に繋がります。

また、行者(山伏)、これは山中で修行をする修験道の行者のことで、山岳という他界に住んで山の霊力を体に吸収し、他界や現界を繋ぐ者としての自己を引き上げて、それらの霊力を人々に授ける存在とされてきました。その山の霊力とは、実は鉱物資源のことではないかとされています。山伏は高度な鉱山技術や冶金技術などを有したエンジニアだったというわけです。ちなみに、山伏(天狗)は白装束に高い鼻、赤い顔を持つとされていて、どう考えても日本列島に古くから土着していた民ではなく、渡来人(シュメール人)と思われます。鉱山技術や冶金技術など高度な文明・技術を持つ彼等が山に籠ったのはそういう理由があったのかもしれません。

古事記や日本書紀には「国産み」と呼ばれる日本国の国土(大八島:おおやしま)創世譚を伝える神話が書かれています。イザナギとイザナミの二柱の神は天の橋に立ち、矛で混沌をかき混ぜ、島を作ったというものです。最初に産んだのが「淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)」で淡路島のこと、次に産んだのが「伊豫(伊予)之二名島(いよのふたなのしま)」で四国のこと。胴体が1つで、顔が4つあるとされ、顔のそれぞれには、「愛比賣(えひめ):伊予国」、「飯依比古(いひよりひこ):讃岐国」、「大宜都比賣(おほげつひめ):阿波国」、「建依別(たけよりわけ):土佐国」という名称が付けられました。このように「伊予之二名島」とは“伊”の国と“予”の国があったということで、“伊”の国とは現在の徳島県、香川県、高知県のこと、“予”の国とは現在の愛媛県のこととされています(すなわち、“伊予”は元々は四国全体のことを指すようです)。その後、「隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島」、「筑紫島(つくしのしま):九州」、「伊伎島(いきのしま):壱岐島」、「津島(つしま):対馬」、「佐度島(さどのしま):佐渡島」、「大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州」を順に産んだとされています。

で、この「国産み」とは何か…ということですが、それは支配下に置くということではないかと思われます。すなわち、“征服”。上記の「国産み」の順番はその後大和朝廷を興すことになる“倭国”が、周辺の地域(部族)を征服していった順番ということなのではないでしょうか。海路日本列島に辿り着いたシュメール人も落ち着いて来ると勢力争いが絶えなかったようで、その中で、“倭国”が徐々に力を付けていって周辺国(部族)を征服し、勢力圏を拡大していったと思われます。これからすると、“倭国”は淡路島、そして四国という順番から考えて、徳島県にあったと考えるのが妥当ではないか…と思われます。

“倭国”とは“やまと国”のこと(倭と書いて“やまと”と読みます)。で、その“倭国”の絶対的女王が卑弥呼。“卑弥呼”は中国人による当て字で、正確には“日神子(ひみこ)”、すなわち天照大御神(あまてらすおおみかみ)と同一人物ではないか…という推測も成り立ちます。天照大御神は古事記では大宜都比賣(おほげつひめ)という名称で登場する神です。で、前述の古事記や日本書紀に書かれている「国産み」の話では、「大宜都比売(おほげつひめ):阿波国」とされています。ちなみに、大宜都比賣は日本の穀物や蚕を生み出した起源神とされる神です。その大宜都比賣が祀られている国がこの阿波の国(現在の徳島県)なのか、そしてそのことと忌部氏族との関係、それらを解読すると大和王権成立の謎の一端が解明できそうな気がしてきます。こうなると、邪馬台国は四国、それも阿波国、現在の徳島県にあったとしても何らおかしいことではありません。

ちなみに邪馬台国とは邪馬臺国が正式名称で、元々は「やまと国」と読まれていたと思われます。「やまと国」という名称を耳にした古代中国(魏)人が、その音だけで「邪馬臺国」という漢字をあてたのではないか…と思われます。古代中国人は自分達がこの世の中心であり、その他の国は自分達よりも下の卑しい存在であるという思想を持っていて、「卑弥呼」の“卑”もそうですし、「邪馬臺国」の“邪”もそうですが、わざと貶めるような漢字をあてたように思います。

“やまと”とは、古代ヘブライ語で「ヤー・ウマト」、すなわち「神の選民の国」という意味らしいです。そこにわざと「邪馬臺国」という漢字をあてて、貶めようとするなんて、ふざけるんじゃない!

で、この徳島の地にいた“倭国”の民が、「大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州」征服以降、移り住んだ地が、紀伊水道を挟んだ“大倭”。これが現在の奈良県。ここから大和朝廷が始まります。それは、おそらく、徳島では吉野川の氾濫で毎年のように大きな被害を受けていたのと、奈良のほうが米作りに適していたからではないか…と思われます。そして、西暦684年に発生した南海トラフを震源とした超巨大地震「白鳳地震」が決定的なこととなって、地震で壊滅した徳島の地を捨てて、奈良に集団で大移動することになったと推察されます。

いっぽう、陸路で東方を目指していたシュメール人の大集団は、途中、土着の民による妨害に何度も遭いながらも、戦いや侵略、民族の同化を繰り返しながら徐々に東進を続けました。中国の西、ウイグル、カザフスタンの辺りに弓月国(クンユエ)という国を設立したりしながら、東進を続け、紀元前10世紀頃に現在の中国付近にまで到着したと思われます。そして、紀元前8世紀頃に現在の中国甘粛省あたりに秦という国を興します。この秦がおきた地域の位置関係から、どう考えてみても、秦は西からやって来た渡来人の作った国家ではないかと思われます。

当時の中国は「春秋・戦国時代」で、主に秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓(のちの漢)の7国で覇権争いを行っていました。その中で、最終的に覇権を奪ったのが秦。紀元前241年に趙、楚、魏、韓、燕の五カ国連合軍を「函谷関の戦い」で破り、ついに紀元前221年に中国全土を統一しました。その最初の皇帝が有名な「秦の始皇帝」。始皇帝は度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行ったことで知られる名君です。このような当時としては先進的とも思える考え方がどこから急に起きてきたのかというと、始皇帝をはじめとした秦の中枢がシュメール人だったからではないでしょうか。でないと、容易に説明がつきません。余談ですが、この始皇帝、本名が「政」だったのが、今の政治と言う言葉の起源とされています。

秦は始皇帝の死去後急激に衰退し、紀元前206年にあっけなく滅亡してしまいます。すると、先の秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓(のちの漢)の7国のうち秦を除く6国が再び覇権争いが生じ、最終的には西楚の覇王を名乗る項羽と、その項羽から漢中に封建されて漢王となった劉邦との間での内戦が勃発。最終的に劉邦が勝って、漢が中国を統一することになります。ただ、なぜか秦だけは中国の歴史上から忽然と姿を消すわけです。

司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って東方に船出した人物がいて、その人物の名前が徐福。司馬遷の『史記』によると、徐福は「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述があります。その徐福に連れられてやってきた大集団(おそらくシュメール人)が日本の歴史に忽然と登場する秦氏ではないか…とされています。秦氏に関しては、この『おちゃめ日記』でも「大人のお泊まり遠足2016 in 京都祇園祭 (その10)」で少し触れさせていただいています。

大人のお泊まり遠足2016 in 京都祇園祭 (その10)

徐福の出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説ありますが、河北省秦皇島、浙江省寧波市あたりが有力とされています。途中、現在の韓国済州島や朝鮮半島の西岸に立寄り、日本に辿り着いたとされています。徐福に関しては青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に様々な伝承が残されています。朝鮮半島経由の経路から考えて、日本海側に多く上陸したのではないかと推察されます。

ちなみに、浙江省寧波市あたりの昔の国名が「越」。なので、徐福が主に連れて行ったのはその「越」の国の人々、すなわち「越人」。その「越人」が流れ着いたところには“越”の字が付いた地名が多く残されているそうで、日本海側の越前、越中、越後もそうではないかと言われています。越智という摩訶不思議な私の苗字、そして愛媛県今治市周辺にある越智郡(私の本籍地)という地名も、もしかしたらその徐福由来の名前なのかもしれません。

全国の越智さん大集合!(その1)

こうして、海路と陸路に分かれて東を目指していたエジプトを追われたシュメール人(ヘブライ人)は、約1,000年の時を経て、紀元前200年頃にこの日本列島の地で合流することになるのですが、同族が合流して喜んだのも束の間、再び部族間で権力抗争を繰り返すようになります。そこで大活躍したのが大国主命(おおくにぬしのみこと)で、出雲の国、今の島根県(ここは日本海側なので、徐福に率いられて後からやって来たシュメール人)を制圧することになります。この時の大国主命の活躍が因幡の白兎の話や、古事記や日本書紀に記載されている「国譲り」の神話に結び付くと考えられます。

ちなみに、日本の歴史上においては古代より続く日本の君主(元首)であり、現代日本においては日本国憲法第1条に定められた日本国および日本国民統合の象徴たる地位である「天皇」。この「天皇」の称号が成立したのは7世紀後半、第42代の文武天皇の時代に制定された大宝律令で「天皇」の称号が法制化された以降のことで、その直前の第40代の天武天皇または第41代の持統天皇の時代からとするのが通説となっています。それ以前は「スメラミコト」「スメラギ」「スメロキ」「スベラギ」等と呼ばれていました。この「スメラミコト」や「スメラギ」に共通する「スメル」。「スメル」とは動詞で、「統める・総める」と書いて「まとめる・治める」という意味の言葉です。このことから、古代においては天皇のことを皇(スメラ)と呼び、民のことを皇人(スメラビト)と呼んでいました。この「スメル」の語源は「シュメール(Sumeru)」だったのではないか…という説もあります。

これらを前知識として『古事記』や『日本書紀』を読み返してみると、日本の古代史が私達がこれまで学校で習ってきたものと全く違ったものに見えてきます。しかも、その古代史解釈のほうがよっぽど納得感があります。先ほど、徳島県を旅すると、いたるところで日本、特に徳島と古代ユダヤとの繋がりについて書かれたものに遭遇する…ということを書きましたが、今回の徳島旅行では、「日本、特に徳島は古代ユダヤと繋がりがあった」という仮説を前提にいろいろなものを見てみようと思っています。


https://www.halex.co.jp/blog/ochi/20180209-15040.html 【邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その6)】

2日目、朝から空は快晴です。宿泊したホテルの前からは澄み切った青空をバックに眉山がクッキリと見えます。徳島市は徳島県の県庁所在地。あまり知られていないことですが、徳島市は今でこそ同じ四国内でも愛媛県の松山市や香川県の高松市より人口が少ない都市ですが、江戸時代には徳島藩の城下町として栄え、幕末には藍産業の発展により国内で人口が上位10位に入るくらいの大きな城下町でした。

JR徳島駅の駅前の道路標識に「神山」の文字が書かれています。私が注目している地名のところです。そしてその神山に向かう道路が国道438号線です。この国道438号線は徳島県徳島市から香川県坂出市に至る一般国道です。起点は徳島市の本町交差点ですが、この徳島駅前の元町交差点で右折し、西に向かいます。その後、佐那河内村に入ってからは四国山地の山中を西進し、神山町に向かいます。神山町まではバイパス道路なども整備されており走りやすいのですが、そこから先は川井峠や見ノ越など峠区間を中心に国道とは思えないような狭隘で自動車の離合が困難な区間が増えます。剣山の7合目付近にあたる見ノ越の剣山登山口を過ぎたところで起点から重複していた国道439号線と分かれて徳島県つるぎ町を北上、吉野川も越えて香川県側へ向かいます。徳島市と見ノ越の剣山登山口までの区間は国道439号線と重複すると書きましたが、この国道439号線、通称・酷道439号線(ヨサクロード)こそ、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への道順のうち、いまだに最大の謎とされている最後の投馬国から最終目的地である邪馬台国までの「水路を十日、陸路を一月」の“陸路1ヶ月”の道であると、私が推察した道路です。ついにその邪馬台国までの道を目にすることができました。

エッ!邪馬台国は四国にあった?(その4)

この日は天気がいいので、剣山に行くことになっていたのですが、この神山経由の国道438号線(国道439号線と重複)ではなくて、いったん吉野川沿いの国道192号線を貞光まで走り、そこから左折して国道438号線を見ノ越の剣山登山口に向かうことにしました。

国道438号線は、徳島県徳島市から佐那河内村、神山町を経て、標高1,420メートルの剣山七合目付近を通る「見ノ越」という大きな峠を越えたところにある剣山登山口を過ぎたところで起点から重複していた国道439号線と分かれ、つるぎ町を北上、貞光町で吉野川も越えてさらに北上。県境の三頭峠を越えて香川県に入り、綾歌郡綾歌町を経て香川県坂出市に至る総延長171.9 kmの一般国道です。剣山登山口には徳島市側と貞光町側から行くことができます。

当初は徳島市から神山町経由で見ノ越の剣山登山口まで行こうと計画していたのですが、前日に行者の宮本さんからお聞きした情報によると、徳島市からの国道438号線は神山町から先の区間が先週末に降った雪のため大変に危険な状態のはずだから行かないほうがいいということでしたので、徳島市からだとグルっと遠回りになりますが、貞光町側から見ノ越の剣山登山口を目指すことにしました。神山町訪問は次の機会の楽しみに残しておきます。ちなみに、国道438号線(国道439号線と重複)の神山町より先の徳島県コリトリ~見ノ越間は冬季閉鎖になるのだそうです。まさに酷道ですね。

まずは、徳島市から吉野川に沿って延びる国道192号線を、吉野川を遡るように上流に向かって西進します。この国道192号線は江戸時代には【伊予街道】と呼ばれていました。伊予街道は阿波国の徳島から吉野川の南岸に沿い、石井、川島、穴吹、半田、井川、池田を経て、伊予国(愛媛県)の川之江に至る街道です。現在の国道192号線にほぼ重なり、徳島から池田まではJR徳島線が並走しています。北岸を並行する川北街道との合流点・池田は、讃岐や伊予、土佐に通じる交通の要衝。また、阿波の特産品、藍とたばこを城下に運ぶ重要な輸送路でもありました。

四国は瀬戸内海や太平洋を利用した海運が盛んで、島内の陸上交通網はさほど発達してこなかった歴史がありますが、それでも旧街道と呼ばれる昔からの道路が幾つかあります。この伊予街道もその1つですが、そのほかにも以下の10の旧街道があります。

【撫養(淡路)街道】 撫養(むや)は現在の徳島県鳴門市の古い呼び名です。徳島から鳴門海峡を渡って淡路島の福良・洲本・由良を通り、海路、紀伊に至る道で、淡路街道とも呼ばれました。現在徳島から淡路島へは鳴門大橋がかかり、国道28号線の神戸淡路鳴門自動車道が通じていますが、神戸に向かう自動車道の道筋とは洲本で分かれ、淡路島の東海岸へ出て南下し、海路、紀州(和歌山県)へ渡ります。

【川北(撫養)街道】 撫養街道から西に延び、吉野川の北岸に沿って徳島県の北部を東西に横断する街道です。現在の徳島県道12号鳴門池田線にほぼ重なり、鍛冶屋原、脇町、郡里、芝生を経て州津の渡しで池田へ渡り、並行している伊予街道 に合流します。撫養から東方面への道とあわせて「撫養街道」とも呼ばれています。鍛冶屋原は阿波三盆、脇町は藍の集散地で、吉野川の水運とともに徳島藩の流通を支える幹線道路でした。

【土佐北街道】 伊予国の川之江から四国の中央を縦断して土佐国(高知県)の高知に至る街道です。土佐の国府と京の都とをつなぐ太政官道として平安時代初期に拓かれましたが、標高1,027mの笹ヶ峰峠などの山地をゆく険しい道のため徐々に衰退。享保3年(1718年)に土佐藩6代藩主の山内豊隆が参勤交代の道として再整備しました。現在の愛媛県道・高知県道5号川之江大豊線がほぼ重なります。

【土佐東街道】 阿波国の徳島から四国南西の海岸線に沿って、日和佐、牟岐を経て甲浦で土佐に入り、野根山を越えて奈半利、安芸を通り土佐国の高知に至る街道です。徳島から甲浦までは国道55号線、野根山を越えて奈半利までは国道493号線、奈半利から再び国道55号線にほぼ重なります。江戸時代中期以前は土佐藩が参勤交代に利用していましたが、上述のように享保3年(1718年)に土佐藩6代藩主の山内豊隆が土佐北街道を再整備したことで、参勤交代の道はそちらに移りました。野根から奈半利に至る山道は「野根山越え」と呼ばれ、古代から開かれていた道のようです。

【高松街道】 讃岐国の高松から同じく讃岐国の琴平へ向かう、主として金毘羅参りのための街道です。現在の国道32号線にほぼ重なり、円座からは高松琴平電鉄琴平線に沿っています。 阿波、東讃岐方面からの参詣者に多く利用されました。滝宮天満宮のある滝宮は、門前町として早くから栄え、金毘羅参りの宿泊地としても賑わいました。

【中村街道】 土佐国の高知から、南海岸に沿って須崎、窪川を経て中村に至る街道です。現在の国道56号線の高知県内部分がほぼ重なります。須崎から、西へ向かう檮原街道が分かれています。街道沿いはかつお漁が盛んだった地域で、土佐藩の特産品であるかつお節を製造していました。

【檮原街道】 高知県の中央部・須崎で中村街道から分かれ、檮原(ゆすはら)を経て、愛媛県北宇和郡鬼北町の山中で北へ向かい大洲に至る大洲街道と、南の宇和島に至る宇和島街道の二道に分かれます。大洲に至る国道197号線とほぼ重なり、鬼北町から宇和島にかけては国道320号線にほぼ重なります。坂本龍馬をはじめとする土佐藩の維新志士が脱藩に使った道と言われ、西予市城川町と高知県高岡郡檮原町との間に位置する九十九曲峠には、その記念碑が建っています。

【志度街道】 阿波国の徳島から吉野川を渡り、大寺を経て大坂峠を越え讃岐国(香川県)へ向かい、四国の北海岸に沿って白鳥、三本松、志度を経て高松に至る街道です。徳島県内から東かがわ市引田までは現在の徳島県道・香川県道1号徳島引田線、その先の香川県内はほぼ現在の国道11号線に相当する道筋です。白鳥(しろとり)は、日本武尊の霊が白鳥となって飛来した伝説の残る、白鳥神社の門前町です。

【高松・丸亀街道】 讃岐国の高松から西へ。国分、坂出、宇多津を経て同じく讃岐国の丸亀に至る街道です。現在の国道11号線に相当する道筋で、丸亀では「高松街道」、高松では「丸亀街道」と呼ばれています。坂出は金毘羅参りの上陸地の一つで、江戸時代は大坂から毎月定期船が通うなど随分と賑わっていました。

【讃岐街道】 讃岐国の丸亀から四国の北海岸に沿って、観音寺、川之江、新居浜、西条を経て小松(現西条市)に至る街道です。現在の国道11号線に相当する道筋で、讃岐内では「伊予街道」と呼んでいました。西条は、四国最高峰の石鎚山の登山口としても賑わいました。この讃岐街道、松山城の北西にある札之辻が起点であるという説もあり、この付近には松山藩の道路元標が建てられています。松山市の札之辻から小松(現西条市)に至るまでの間にある中山川沿いの峠道は「中山越え」あるいは「桜三里」とも呼ばれました。江戸時代に金毘羅参りが盛んになると、伊予国からも多くの参拝者がこの街道を利用して金刀比羅宮を目指したため、金毘羅街道の一つでもありました。この讃岐街道の街道沿いには金刀比羅宮までの道標などが今も残っています。

この他にも支線と呼べる旧街道が幾つもあります。

四国ではこのような旧街道のほかに忘れてはならない歴史のある道路があります。それが『遍路道』です。遍路道とは、四国霊場八十八箇所の霊場寺院間を繋ぎ、巡礼者(お遍路さん)が歩く道のことを言います。四国八十八箇所の霊場をめぐる遍路道は、四国4県にまたがり、空海ゆかりの社寺を巡礼する全長1,400kmにも及ぶ長大な街道です。そのうち愛媛県内には4県の中でも最も長い延長500km以上の遍路道が通っています。

遍路道の原型は中世末期にはできあがっていたと言われています。奈良時代には修験道の修行者や、聖と呼ばれる民間の宗教者が数多く四国の辺地を訪れて修行をしていました。これが四国遍路の祖形だという説がありますが、この人々が歩いた道が現在の遍路道に繋がるかどうかは今のところ不明です。四国霊場八十八箇所を開いたとされる弘法大師空海の入定以後、その修行の跡を辿って平安時代末期頃から真言宗の僧が四国を回るようになります。当初は四国各地の寺院や神社、弘法大師の霊跡などをそれぞれが独自に巡っていたため道筋は一定ではなかったようですが、僧の修行のための四国巡礼が確立されるに従って通る道がある程度固定化し、現在のように四国霊場を結ぶ経路ができていったと考えられています。

近世に入ると貞享4年(1687年)に『四国辺路道指南(みちしるべ)』という案内書が刊行され、四国遍路が一般の人々の間にも広がるようになってきました。明治以降はトンネルや橋の建設などによって遍路道は大きく変化し、現在では一部の山岳寺院への登山道などを除いて、多くが道幅の広い舗装道路になっています。

この遍路道、幹線部分のルートは上記の旧街道とほぼ重なるのですが、霊場寺院の近くになると、歩きでしか通れないような狭い道、舗装されていないような地道や石畳の道等が多く残存していたりもします。基本的に霊場は修験者の修行の場、遍路道は修行の道でもあることから、これが遍路道本来の姿であるとも言えますが、日常生活で山間地や林間地のような道を歩く機会の少ない現代人にとっては、そうした山間部の遍路道を歩く行為は、巡礼行為であるとともに、非日常的体験とも言えます。

この「四国八十八箇所霊場と遍路道」は世界でも注目されるようになってきています。世界一の発行部数を誇る米ニューヨーク・タイムズ紙のホームページに昨年(2015年)1月9日付で『52 Places to Go in 2015』と題して、2015年に行くべき世界の52ヶ所の名所を紹介しているのですが、その52ヶ所の中に日本で唯一「四国」が選ばれて、掲載されています。

『ニューヨーク・タイムズ紙HP『52 Places to Go in 2015』

イタリアのミラノやキューバ、フィラデルフィアなど世界各地の見どころと並び、35番目(これがどういうランキングかは分かりませんが…)に四国遍路や道後温泉などを紹介しています。四国のことを『記念に満ちた日本の最も小さい主要な島(Anniversaries abound on Japan’s smallest main island)』と評し、第45番札所である岩屋寺(愛媛県久万高原町)への遍路道の写真を掲載。四国遍路は88の寺を巡礼するもので、2014年がその霊場開創1,200年の記念の年だったことなどを説明しています。また、「特筆すべき場所」に松山を挙げ、120年の歴史をもつ天然温泉の公衆浴場として道後温泉本館のことを記しています。

こういうこともあって、このところ、四国八十八箇所霊場を巡る遍路道を歩かれている外国人さんの数が急増しているようです。それも欧米人(白人)がほとんどです。私は時々、愛媛県松山市にある実家に帰省しているのですが、実家のすぐ近くに第50番札所の繁多寺(はんたじ)があり、我が家の墓のある墓地の横をその繁多寺に向かう細い遍路道が通っています。そこで、何人もの遍路装束の外国人お遍路さんに遭遇します。巡礼という文化は、むしろ欧米の方々のほうが理解しやすいのかもしれません。そういう意味でも、四国はちょっと日本離れした不思議なところのように思えます。これも古代ユダヤと関係があるのでしょうか?

また、「四国八十八箇所霊場と遍路道」を国連教育科学文化機関(UNESCO)の世界文化遺産に登録しようという動きも活発になっているようです。2016年8月には四国遍路の世界文化遺産登録を目指す四国4県と58市町村、「四国八十八箇所霊場と遍路道」世界遺産登録推進協議会が、登録の前提となる国内暫定リスト入りに向け、構成資産の保護措置や普遍的価値の証明などを盛り込んだ提案書を文化庁に再提出しました。

その前段としての資産保護に向けて、遍路道を次々に国指定の史跡に登録しようとする動きも進んでいます。

まず、徳島県では第20番札所の鶴林寺(かくりんじ)に繋がる“鶴林寺道”と“いわや道”、第21番札所の太龍寺(たいりゅうじ)に繋がる“太龍寺道”、第22番札所の平等寺(びょうどうじ)に繋がる“平等寺道”が既に「阿波遍路道」として国指定の史跡に登録されています(総延長7.25km)。この中でも、特に勝浦町生名(いくな)から標高550mの鷲が尾の山頂にある鶴林寺までの“いわや道”と呼ばれる3.1kmは、地元徳島では「遍路ころがし」と呼ばれるほどの急傾斜の厳しい登山道になっています。史跡登録されているこれらの道には石畳や寺までの距離を示す町石(丁石)、道標、行き倒れた巡礼者を弔った遍路墓などが残り、宿泊施設である通夜堂(つやどう)跡も発掘されています。

さらに徳島県では第20番札所の鶴林寺から第21番札所の太龍寺までのもう一つの遍路道“かも道”、土佐東街道から分かれて第17番札所の恩山寺(おんざんじ)に向かう“恩山寺道”と、恩山寺から第18番札所である立江寺(たつえじ)に向かい再び土佐東街道に合流するまでの区間の“立江寺道”を国指定の史跡に登録するよう文化庁に申請しています。このうち“かも道”は南北朝時代から使われていた四国遍路最古の遍路道とされていて、江戸時代に近道が開拓されたことで人の往来が減り、いったんは廃道となっていました。それを阿南市や住民が整備して復活させたものです。

香川県では第81番札所の白峯寺(しろみねじ)から第82番札所の根香寺(ねごろじ)に至る“根香寺道”が「讃岐遍路道」として国指定の史跡に登録されています。この“根香寺道”は舗装されていない山道であり、道沿いには道標、丁石も数多く残っていて、歴史的な景観を良くとどめています。

愛媛県では第41番札所の龍光寺(りゅうこうじ)から第42番札所の仏木寺(ぶつもくじ)に至るまでの“仏木寺道”と、第59番札所の国分寺(こくぶんじ)から第60番札所の横峰寺(よこみねじ)に至るまでの“横峰寺道”が「伊予遍路道」として国指定の史跡に登録されています。“仏木寺道”も“横峰寺道”も道沿いには江戸時代後期の遍路墓が残るなど旧状をとどめている道です。

高知県でも第35番札所の清滝寺(きよたきじ)から第36番札所の青龍寺(せいりゅうじ) に至るまでの“青龍寺道”が「土佐遍路道」として国指定の史跡に登録されています。この道の沿道には1848年に建立されたものなどを含め、35基の道標や磨崖仏(まがいぶつ)、供養塔などが立ち並んでいます。

私は現在『中山道六十九次』の街道歩きを趣味としてやっていますが、調べてみると、私の故郷四国にもなかなか面白そうな街道や遍路道がたくさんあります。こりゃあこのうちの幾つかをいつか歩いてみなければいけません。