邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その9,10)
https://www.halex.co.jp/blog/ochi/20180220-15088.html 【邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その9)】 より
見ノ越の昼食を摂ったドライブインの前にある劔神社です。この劔神社の御祭神は安徳天皇と大山祗命と素盞嗚命の三神です。由緒によると、創立年代は不詳とのことです。祖谷山開拓の折に大山祗命を鎮祀して祖谷山の総鎮守としたのが最初で、寿永4年(1185年)、壇ノ浦で源氏との戦いに敗れた平家の一門が安徳天皇を奉じて祖谷の地に逃れ来た際、平家再興の祈願のため安徳天皇の「深そぎの御毛」と「紐劔」を大山祗命の御社に奉納。以来劔山と呼ばれ、神社も劔神社と称されるようになったのだそうです。一時、大劔権現と称されていたのですが、明治初年に劔神社と改称し、明治3年、崇敬大社に列せられ、明治6年に郷社となりました。剣山の名前の由来に関しては、このほかにも「鶴亀山(つるきさん)」が剣山に転じたという説もあります。童謡「かごめかごめ」に出てくる「鶴と亀」です。そしてその童謡「かごめかごめ」には古代ユダヤとの繋がりがあるという説もあります。
文化12年(1815年)に藤原之憲が阿波藩の藩撰の地誌として編纂した『阿波志』によると、「劔祠 在祖山菅生名剣山上去名二里餘頂有石屹立髙三丈土人以神…謁以名曰劍…」とあり、すなわち、劔の祠は祖谷の菅生から二里のところにある剣山という山の上にある。そして頂に高さ三丈の岩(今の御塔石)があり、土人(地元の民)これを以て神と為す。…その形の似たるを以て劔と曰う…と書かれています。劔山(剣山)系には586社の神社があり(西島神社・八劔神社・古劔神社・両劔神社・宝蔵石神社・三劔神社など)、その総本社が剣山の山頂にある大劔神社ということのようです。
鳥居を潜り、石段を登ると社殿があります。その社殿には「四国剣山顕彰学会本部」という看板が掲げられています。なにやら怪しげな学会名なので、さっそくネットで調べてみると……。私からは何も申し上げません。詳しくはネットで「四国剣山顕彰学会」を検索してみてください。YouTubeの動画も幾つかあるようです。
社務所にお札が並んでいたので、せっかくなのでお札を買って帰ろうと思ったのですが、ほとんど人が訪れないのか、社務所は無人です。「御用の方は呼び鈴を押してください」と書かれていたので、その表示の下のブザーを押すと、まもなく隣接する劒神社簡易宿泊所のほうから1人の男性が近づいてきました(劒神社には行者さんや剣山の登山客のために簡易宿泊所が設けられています)。その男性を見て圧倒されちゃいました。顎から長い鬚(ひげ)を蓄えています。しかも眼光が鋭い。迷うことなく行者(山伏)さんだと分かります。昨日お会いした行者の宮本さんとは全然タイプが異なります。
しかし、私が「このお札をいただきたいのですけど」と恐る恐る聞くと、「はい、500円です」とこちらが拍子抜けするほどの軽い感じの声で返事が返ってきました。やはり修行と商売は別のようです。
岸本さんは高根三教さんという方が書かれた「アレキサンダー大王は日本に来た : 黙示録に秘められた古代史」というちょっと分厚い本を購入されました。パラパラっと中を読ませていただきました。なにやら面白そうなことが書かれているのですが、私はまだまだ入門途中なので、初心者向けの先ほど購入した本を読んでからですね。その岸本さんが購入された本の著者の高根三教さん。この方は平成22年(2010年)11月に91歳で天寿を全うされたかたなのですが、この四国剣山顕彰学会の元会長だった方のようです。
私がお土産物屋兼食堂で購入した本の著者は「倭国研究所」の大杉博さん。徳島県には「四国剣山顕彰学会」と「倭国研究所」、この2つの団体のほかにも「阿波国古代史研究所」や「阿波古事記研究会」など日本の古代史を熱心に研究なさっている団体が幾つもあります。人口約75万人に過ぎないこの徳島県で、今こんなに日本の古代史研究熱が高いのも不思議な感じがしてしまいます。やはり徳島県にお住いの方にとっても、ご自分が住んでいる地元の徳島というところが歴史、特に日本の古代史の上で極めて謎めいた部分の多いところだと感じておられる方が多いのかもしれません。
それにしても、四国剣山顕彰学会の高根三教さんといい、倭国研究所の大杉博さんといい、御存命のうちにお会いして、お話を聞いてみたかったです。
この劒神社と剣山、そして剣山に生える高山植物の「キレンゲショウマ」を舞台にした宮尾登美子さんが書いた小説に『天涯の花』があります。社殿の前にはその宮尾登美子さんが揮毫した碑が立っているのですが、うっかりして写真に撮ってくるのを忘れてしまいました。
劒神社に隣接する剣山円福寺です。この寺院は劒神社の別当寺で、剱山大権現を祭っています。弘法大師の像が立っている真言宗の寺院ですが、もともと修験道に関わりのある寺院と思われます。今は訪れる人もほとんどいない寂れた寺院ですが、剣山には行場(行者さんが修業する場所)もあり、修験道が華やかかりし頃は、霊場として随分と栄えたのではないか…と推察されます鳥居の横の石碑には「剣山 円福密寺」と“密”の字が小さく入っています。これも修験道と関係があるのでしょうか。
昼食を摂ったお土産物屋兼食堂の横で国道438号線は国道439号線と分岐します。この国道439号線こそが私が魏志倭人伝に書かれた最大の謎、投馬国から最終目的地である邪馬台国までの「陸路を一月」の道と推定した道です。
この国道439号線、起点は徳島市の本町交差点。四国山地に沿って四国地方の中山間地域を東西に縦貫し、高知県四万十市に至る国道で、総延長は348.3km。四国の国道では最大の幹線道路である国道11号線(徳島県徳島市から香川県高松市を経由して愛媛県松山市に至る一般国道)に次ぐ第2位の長大路線です。地図の上では、四国内陸部を袈裟懸けに短絡する道路のように見えますが、起点の徳島市本町交差点から四国霊場第12番・焼山寺への参道に当たる神山町内の区間(国道438号線との重複区間)、JR土讃線の豊永駅付近から大杉駅付近までの国道32号線との重複区間、高知県仁淀川町にある国道33号線との重複区間を除けば、ほとんどが乗用車1台分の道幅、つまり2.5メートル程度しかない、いわゆる「酷道」と呼ばれる未改良道路になっています。一般的に言われる悪路であるほか、路面を覆うコケや落ち葉、脆い崖などが通行条件の悪い酷道の要素を全て持っている路線のようで、岐阜県の国道418号線や紀伊半島の国道425号線と並んで「日本三大酷道」に数えられているその方面のマニアにはかなり有名な路線のようです。酷道マニアの間では、国道439号線の数字語呂合わせで「ヨサク(与作)ロード」と呼ばれているそうです。
その「ヨサク(与作)ロード」、国道439号線は起点である徳島市の本町交差点からこの剣山の7合目で鞍部にある見ノ越という峠のお土産物屋兼食堂の横にある分岐点までが国道438号線(徳島県徳島市から香川県坂出市に至る一般国道)との重複区間で、この見ノ越のお土産物屋兼食堂の横にある分岐点から先が国道439号線としての単独区間となります。見ノ越のお土産物屋兼食堂の横にある分岐点から左側の道路に入り、その憧れの「ヨサク(与作)ロード」をついに走ります。
見ノ越の分岐点から単独区間に入ってしばらくは登ってきた国道438号線より幾分整備された道を走ります。センターラインのない1車線の道路ですが道幅は4メートルほどあり、対向車がやってきてもなんとか退避することがなくすれ違えます。少しずつではありますが各所で改良工事、防災工事が実施されているようです。ただ、この先の高知県と徳島県の県境にあたる京柱峠は先ほどの見ノ越(国道438号との重複区間)同様、冬季閉鎖される道路であり、高知県に入ってからも吾川郡仁淀川町と高岡郡津野町の境に跨がる矢筈トンネル付近では山肌に張り付くような1車線の狭隘路があり、対向車と離合不能な区間が点在しています。また、四万十町から四万十市にかけての区間はカーブが連続する狭隘路が続き、特に杓子峠は1車線の山岳路で、落石防止対策やガードレールが未整備な箇所が多い危険な道路になっているのだそうです。
牧さんの運転するクルマは「ヨサク(与作)ロード」の山肌に沿ってカーブが連続する道を緩やかに下っていきます。
走ること約30分、次の目的地に到着しました。「かずら橋」です。「かずら橋」は、サルナシ(しらくちかずら)などの葛類を使って架けられた原始的な吊り橋のことで、徳島県にはこの三好市東祖谷菅生(すげおい)に2橋と、この先の三好市西祖谷山村善徳(ぜんとく)に1橋架けられています。西祖谷山村善徳の「かずら橋」のほうは1970年に国鉄のディスカバー・ジャパンキャンペーンで登場したことで知名度が飛躍的に向上。全国から年間35万人を越える観光客が訪れる観光地になっています。この西祖谷山村善徳の「かずら橋」は長さ45メートル、幅2メートル、谷からの高さ14メートルで日本三奇橋の一つであり、重要有形民俗文化財に指定されています。大正時代に一度ワイヤーを使った吊り橋に架け替えられたのですが、昭和3年(1928年)に地域振興目的で「かずら橋」として復活しました。この東祖谷菅生の「かずら橋」は、平成5年(1993年)に徳島県と香川県で開催された第48回国民体育大会(東四国国体)の際に、観光用として架けられたものです。観光用と言っても葛類を使って原始的な方法で架けられた本格的な「かずら橋」です。
この祖谷地方の「かずら橋」は、古文書によると、かつては7ないし13の橋が存在したとされています。現存する最古の記録は、正保3年(1646年)の「阿波国図」で、そこには7つの「かずら橋」が存在したと記録されています。また明暦3年(1657年)に編纂された「阿波国海陸度之の帳の写」の「祖谷紀行」の部分には13の「かずら橋」があったと書かれているのだそうです。
この東祖谷菅生のものは「奥祖谷二重かずら橋」と呼ばれ、「男橋」と呼ばれる長さ42メートルの橋と、「女橋」と呼ばれる長さ20メートルの橋の2つの橋が並んで架かっています。いずれも人1人渡っても揺れ、床面も「さな木」と呼ばれる丸太や割木を荒く編んだだけであり、すき間から川面が望めます。高所恐怖症の私も勇気を出して渡ってみたのですが、相当にガクブルで、怖かったです。ちなみに、さすがに安全確保のためワイヤーが使われており、橋自体はワイヤーで支えられ、「かずら」はワイヤーを包み込む装飾のようになっています。
こちらは男橋です。ちなみに、橋の下を流れる川は祖谷川。吉野川水系の支流で、源流は剣山にあります。この東祖谷菅生あたりでは西方向に流れていますが、西祖谷山村善徳の「かずら橋」の付近で北向きに流れを変え、大歩危峡の北端にあたる三好市のJR祖谷口駅付近で吉野川本流と合流し、JR阿波池田駅付近で東方向に流れを変え、徳島市で紀伊水道に注ぎます。なので、グルッと大回りして徳島県内を流れる感じです。
「かずら橋」の起源は、その昔、弘法大師空海が祖谷に来た時に困っている村民のために架けたとか、あるいは平家の落人がこの地に潜み、追手が迫ってもすぐ切り落とせるように葛を使って架設したとの伝説もありますが、いずれも定かなものではありません。この「かずら橋」は剣山信仰や近隣との交易のほか、山村に住む住民の一般生活道としても利用されていたそうです。
こちらは女橋です。男橋と比べ、少し小さい橋です。男橋で対岸に渡り、女橋で戻ってきました。このあたりは吉野川の支流の祖谷川の上流にあたり、下を流れる水は神秘的とも言えるほど透き通っていて綺麗です。
こちらは「野猿」です。「野猿」は川を渡る目的で設置された人力の索道(ロープウェイ)のことです。川の両側にワイヤロープを私、このロープに「屋形」と呼ばれる籠を吊り下げています。利用者は屋形に乗り、別に渡されたロープを手繰ることで屋形を前進させます。この様子が猿に似ていることから「野猿」と呼ばれ、古くは実用の交通手段として利用されたのだそうです。
ちなみに、三好市西祖谷山村善徳にある「かずら橋」まではJR阿波池田駅から四国交通が定期観光バスを運行しています。この定期観光バスは昔懐かしいボンネットバスで運行されていることでも知られています。
ボンネットバスは運転席より前、客室外のフロント部にエンジンを設けた構造のバスのことです。バスにおいては古くから存在する形態ですが、この構造ではエンジンの保守、放熱と客室の安静化に効果がある一方で、エンジンの上も客室として利用可能な現在主流のリアエンジンバス等と比較すると、ボンネット部の空間は単なる機器スペースということになり、その分輸送効率は低下するという欠点があります。しかし、ボンネット部が衝突事故の際の緩衝作用を担ってくれるため、乗務員の安全性を確保する上でも利点があり、また騒音や振動の面でも有利とされています。
日本でも1950年代頃までは大多数のバスがこのボンネットバスで、私が子供の頃は大きな都市の街中でもよく走っているのを見掛けましたし、実際利用していました。ですが大量輸送時代とともにボンネットバスの導入が減少し、1971年には量産タイプのボンネットバスの製造は全メーカーで中止されてしまいました。しかし、製造中止後も、ボンネットバスは山間部の路線を中心に使用され続けました。ボンネットバスの特徴は、その構造上、前輪が運転手より前に位置していることにあります。そのため、今回走った国道438号線や国道439号線のような山間部の狭隘道路を走る路線では、運転手が路肩の位置を把握しやすく、そのことが運転のしやすさに繋がっていたのだそうです。しかし、これも道路の整備とともに改善され、山間部の狭隘道路を走る路線でもボンネットバスである必然性は急激に失われていきました。その一方、1970年代後半以降は、観光路線において目玉車両として運行する例が登場してきました。とは言え、鉄道車両と比べてバス車両の寿命は短く、バスマニアからは惜しまれながらも全国的にボンネットバスが次々と姿を消していく中で、四国交通のボンネットバスは今なお現役で、頑張ってくれているようです。
ボンネットバスを利用した四国交通の定期観光バスの愛称は「秘境の小便小僧号」。この可愛らしくもなんとも珍妙な名称の「秘境の小便小僧」とは……、なにはともあれ、以下のサイトをご覧ください。高さ200メートルの断崖絶壁の上からの立ち小便ですか…。高所恐怖症の私はご遠慮します。「かずら橋」を渡るだけで精一杯でしたから。「秘境の小便小僧」のある場所は三好市西祖谷山村。西祖谷山村善徳にある「かずら橋」のすぐ近くです。
ですが、この四国交通の定期観光バス「秘境の小便小僧号」は日本三大秘境の1つである“祖谷”地区を巡るコースとなっていて、日本三大奇橋の1つ“西祖谷村善徳のかずら橋”のほか、急流と渓谷が美しい“大歩危峡”など風光明媚なコースが自慢となっています。絶対にお薦めです。それにしても、徳島、恐るべし…です。あまり全国的に知られていないだけで、観光においても他に例を見ないいろいろな珠玉の名所・名物が隠されています。
余談ですが、日本三大秘境と呼ばれるところは、この徳島県祖谷のほかに岐阜県白川郷と宮崎県椎葉村があります。また、日本三大奇橋は日本の古い橋の中で構造的に特に変わったものとして挙げられてきた岩国(山口県)の錦帯橋、甲斐(山梨県)の猿橋、黒部(富山県)の愛本橋のことをいうのが一般的ですが、愛本橋の代りにこの徳島祖谷の「かずら橋」を入れる説もあります。日本三大酷道に日本三大秘境、さらには日本三大奇橋……。まぁ~そういうところです、ここは。
ちなみに、私は“隠れバスマニア”です。
なお、私達が今回訪れた東祖谷菅生の「かずら橋」のほうにも四国交通がかつては定期観光バス「東祖谷コース」を運行していたようなのですが、HPで確認したところ現在は運行をしていないようです。なので、現在は自分でクルマを運転して行くしか方法はありません。
https://www.halex.co.jp/blog/ochi/20180223-15125.html 【邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その10)】 より
三好市は、それまでの三好郡三野町・池田町・山城町・井川町・東祖谷山村・西祖谷山村が平成18年(2006年)に「平成の大合併」により合併し発足した市です。現在の三好市東祖谷◯◯という地名のところは旧東祖谷山村だったところです。東祖谷山村と西祖谷山村のあたりは祖谷渓と呼ばれる深い峡谷に遮られ、標高1,000メートル以上の峠を経由する山道を越えない限り外部との往来が困難であったため、独自の生活習慣・習俗・口承文芸などが残されている地域です。
「美しき日本の残像」の著者として知られる米国人の東洋文化研究者アレックス・カーさんは慶應義塾大学国際センターに留学中の1972年 から1973年にかけてヒッチハイクで日本全国を旅したのですが、その旅の途中で訪れた徳島県の祖谷の山村に感銘を受け、東祖谷釣井(旧東祖谷山村)にある約300年前の藁葺き屋根の古民家を購入し、修復のうえ、「篪庵(ちいおり)」と命名して現在もそこに居住して活動の拠点にしています。
そのアレックス・カーさんに会いたいのか影響を受けたのか、この祖谷にはビックリするくらい多くの外国人観光客(それも欧米人主体)が訪れています。東京羽田空港から徳島阿波おどり空港までの飛行機にも10名以上の欧米人観光客が乗っていましたし、この「奥祖谷二重かずら橋」にも中国人のカップルに加え、欧米人の観光客も団体で訪れていました。この日、「奥祖谷二重かずら橋」で会った観光客は30名くらいでしたが、その半数近くが外国人観光客(欧米人主体)でした。
三好市東祖谷(旧東祖谷山村)にはアレックス・カーさんに加えて日本を訪れる外国人観光客に人気のあるスポットがあります。「奥祖谷二重かずら橋」と同じ東祖谷菅生(すげおい)地区の名頃(なごろ)集落がその場所です。ここの標高は約800メートル。長く「天空の里」と呼ばれていたのですが、それが今では「かかしの里」と呼ばれるようになっています。
「奥祖谷二重かずら橋」から国道439号線を西に向かってクルマで走ること約10分。その名頃集落はありました。名頃集落に入ると、人間そっくりに作られた“かかし”が、集落のあちこちにまるで生活をしたり、働いたりしているように置かれています。その人形の数は、集落の人数(約30人)より多い約200体に上ります。人形たちにはそれぞれの個性があり、ほのぼのとする光景を醸し出しています。
ネットで調べてみると、これらの人形(かかし)を作っているのは綾野月美さん(67歳)という1人の女性。綾野さんはこの地で生まれ育ったのですが、中学校の頃、父親の仕事の都合で大阪に行き、そこで結婚。しばらく大阪で暮らしていたのですが2002年、老いた父親の面倒を見るためこの地に一人で戻ってきました。綾野さんは昔から人形を作るのが趣味だったそうで、その1年後、第1号となる父親の人形を作ったところ、綾野さんが作った人形を見た人が何度も何度も、父親と間違えて「こんにちは」「おはよう」と人形に挨拶しているのを見て、それがおかしくて徐々に人形を増やすようになったのだそうです。綾野さんが人形を作るきっかけとなったのは「故郷に戻ってから畑に種を蒔いたけれど、何も生えてこなかった。それで、かかしを作ってみようと思った」とのことで、元々は畑に野生の動物を寄せ付けないためでした。その人形(かかし)があまりにリアルに出来すぎていて、地元で評判となり、その後様々な人形を生み出し、これまでに約350体の人形(かかし)を作り上げたのだそうです。
その綾野さんが作った人形(かかし)を2014年春に祖谷を訪れた広島に留学中のドイツ人学生(もしかして私の母校の大学の留学生か?)が、動画撮影をしYouTubeに投稿したところ、世界中から50万回以上も再生され一気に評判となりました。これをきっかけにクチコミで噂が広まり、まず外国人観光客がわざわざこの四国の山深い山村にあるこの「かかしの里」を訪れるようになり、その様子が地元をはじめ日本のテレビや新聞、雑誌等で取り上げられたことで、一気に全国的に知られるようになりました。今ではわざわざこの人形(かかし)だけが目当てでこの徳島県の祖谷の山深い山あいの村を訪れる人も多くいるといいます。まさにSNS(Social Networking Service)が生んだちょっとしたブームですね。
「限界集落」という言葉があります。「限界集落」とは、中山間地域や離島を中心に、過疎化・高齢化などにより人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって、集落の自治、生活道路の管理、冠婚葬祭などの社会的共同生活の維持が急速に衰えてしまい、やがて消滅に向かうとされている集落のことを指します。このような状態となった集落では共同体として生きてゆくための「限界」があるとして「限界集落」と呼ばれています。限界集落に関しては、この『おちゃめ日記』でも「限界集落株式会社」の題名で触れさせていただいたことがあります。
限界集落株式会社
まさにこの東祖谷菅生地区の名頃集落もそうした限界集落の一つです。集落自体はそれなりに大きく、ポツリポツリではありますが民家が建っています。かつては多くの人が住んでいたと思われますが、それらの民家のほとんどは空き家。もう何年も住んでいないのか、既に朽ち果て欠けている建物もあります。川の向こうには小学校でしょうか中学校でしょうか、小さいながらも鉄筋コンクリート3階建ての校舎があり、運動場もあります。明らかに学校でしょうが、既に廃校になっていて、子供達の姿は1人も見えません。というか、集落の中に地元の人の姿は1人も見かけません。
その村人の代わりにいるのが人形(かかし)。「住民は30人ですが、“かかし”200体で皆様のお越しをお待ちしています」という言葉になるのでしょう。
集落のいたるところに人形がいます。等身大で作られた人形は遠くから見ると人間そのものに見えます。人形達にはそれぞれの個性と表情があり、ほのぼのとする光景を醸し出しています。これらの人形達は畑に野生の動物を寄せ付けないための“かかし”が本来の役割なので、基本屋外に置きっ放しにされていて、風雨や雪などですぐに痛むことから、約350体の人形(かかし)を作り上げたのだそうですが、現在置かれているのは200体ということなのでしょう。ここからはしばしその「かかしの里」の人形達をご覧ください。
なかでも極めつけはこの人形(かかし)でした。向こう側を向いて背中を見せているだけなので、あまりにリアルな背中の曲がり具合から本物の(生きている)老婆としか思えません。人形(かかし)かどうかを確かめるために恐る恐る近づいてみると、人形(かかし)でした。驚くべきは、この納屋の中。古いテーブルの上に置かれた目覚まし時計が正確な時を刻んでいました。あまりにもリアルです。下の写真の右側で、老婆と私、どちらが人形(かかし)のように見えるか…と訊くと、多くの人が右側のほうが人形(かかし)と言ってくださるのですけど、これって演技賞もののポーズってことなのでしょうか?
2011年に廃校になったという小学校は当時2人の生徒と1人の先生、それに校長先生しかいなかったそうなのですが、綾野さんは1つの教室の中に最後の授業を受ける2人の生徒と先生の姿を再現しているのだそうです。他の教室には授業参観に来た父兄と生徒で賑わっている様子までをも人形で表現しているのだとか。残念!、見逃してしまいました。これは自宅に戻ってからネットで調べていて知ったことで、事前には「かずら橋」のことは頭にあっても、「かかしの里」に行くことまでは考えていなかったので、仕方ないですね。もっとも、事前に知っていても、その廃校になった学校の側に渡る橋が工事中で、“本物の”土木工事業者の方が工事をしていたので、行けませんでしたが……。
「かかし基本台帳」なるものもあるのだそうです。それぞれの人形(かかし)の名前や 性格、物語などがユーモアたっぷりに記載されているそのだそうです。ネットの情報によると、この「かかし基本台帳」は、「かかしの里バス停」に備えられていて、訪れた人 たちが閲覧できるようになっているということなのですが、しまった! 気づきませんでした。これは事前の調査不足でした。
生活感あふれるほのぼのとした人形(かかし)達に心癒されました。周囲の山あいの美しい風景とあいまって、もうここまで来ると、立派な“芸術”ですね。
しかし、この「かかしの里」、人口減少社会の中における「限界集落」の現実を浮き彫りにしているだけに、見方によっては、怖いものさえ感じられます。
「限界集落」と言えば、この祖谷ではありませんが、徳島県には、全国でも有数の地域活性型農商工連携のモデルとなっている町があります。徳島県中部の勝浦郡上勝町がそこです。上勝町は剣山系の雲早山の東斜面に水源があり、勝浦町、小松島市を経て、徳島市南部で紀伊水道に注ぐ勝浦川の上流に位置する町で、総面積の約90%が山林というこの祖谷と同じような山間の小さな町で、人口は1,662名、823世帯(平成27年4月1日現在)、高齢者比率が51.49%という、過疎化と高齢化が極端に進む町です。また、四国の町の中では最も人口が少ない町です。
この上勝町を全国的に有名にしたのが第三セクターの「株式会社いろどり」。なんと、山で採れるもみじの葉などの葉っぱを料理の「つまもの」(日本料理を美しく彩る季節の葉や花、山菜などのこと)として出荷し、年間2億6,000万円以上を売り上げています。葉っぱの出荷農家は190世帯、平均年齢は70歳。主力は地元のおばあちゃん達。誰もが、防災用の無線を利用したFAXや高齢者用に工夫されたパソコン、農協への連絡用の携帯電話やタブレット端末といった機器を使いこなせるそうで、それらを駆使してなんと年収1,000万円を超える収入を得ているおばあちゃんもいるのだそうです。この「葉っぱで町を変えた魔法使い」は、JAの営農指導員として上勝町に赴任していた横石知二さん。……このあたりは私がここで述べるよりも、以下のHPを是非ご覧ください。