徐福は夏王朝の継承者だったのかもしれません。
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シュメール王国はウルク王朝からウル王朝 へと続きますが、これらの王朝は世界最古の都市文明を成立させたと言えます。
シュメール民族は、北部のイラン地方からこのメソポタミア地方へ侵入して、前3500年頃にユーフラテス川周辺に都市国家を成立させました。シュメール王国はウルク王朝からウル王朝へと続きますが、これらの王朝は世界最古の都市文明を成立させたと言えます。
その後、前2300年頃にメソポタミア北部にアッカド王国が成立することになり、メソポタミア地方は、北部のアッカド王国と南部のシュメール王国とに分かれました。アッカド王国のアッカド語が後のバビロニア語となりました。
フェニキアでは、預言者はヘブライ語と同じ「ナービー」です。彼らはバアル神におうかがいをたてそのために興奮状態に入ったとあります。フェニキアの王子に仕える従者が、これに加わって恍惚状態になって預言したことも記録されています。カナンの「アシェラの預言者」たちは、「列王記上」18章19節にもでてきます。カナンでは、例えば「出エジプト記」3章12節などにあるように、神が預言者に「しるし」を与えたことが語られています。さらにまた、アラム語の碑文では、王が「主なるバアル」から夢・幻を受けたとありますが、この「幻」はヘブライ語の「ホーゼー=幻視する者/預言者」(「民数記」24章4節)と同じ語源です。
マリの伝承を受け継いでいるアッシリアでも、王のための祭儀において恍惚状態で「告知する者」や母神イシュタルから「啓示を受ける者」や王のために神に献身する女預言者の宣託がおこなわれたことが記録されています。このほかに、エジプトでも預言の伝統が長く、国家の将来を予言する祭儀的な預言者たちがいました。彼らは、国家の危機に際して国を救うヘブライのメシア的な預言者の先触れと言えるのかもしれません。
「ヘブル」のもととなる「ハビル」というのは「土地を持たない人たち」を指す言葉であったと思われますが、イスラエルの先祖が受け継いだ神についての考え方は、この「土地のない神」からでてきたのです。モーセがミディアンの祭司のもとへ身を寄せていた間に、初めて「ヤハウェ」という神の名前を啓示された(「出エジプト記」3章14節)とありますが、モーセに顕れたヤハウェは、遊牧民が受け継いできた「土地のない神」であったと言えます。こうして、イスラエルの先祖は、農耕の民に依存し彼らと関係を保ちながら、同時に遊牧民の生活形態とこれに伴う宗教的祭儀をも受け継ぐことになったのです。
ギリシア思想と対比されるイスラエルの思想の根底には、モーセの神「ヤハウェ」の「土地のない神」概念があるのです。
神の呼び名について言えば、「主」を表す言葉は、カナン語圏では「バアル」であり、これはセム系の文化圏では神を意味する一般的な呼び方でした。この神への呼びかけ方からもわかるように、同じセム系のイスラエルの「ヤハウェ」も「バアル」と呼ばれる場合がありました。したがってイスラエルの宗教は、「バアル」と「ヤハウェ」の混淆宗教の様相を呈していたと言えます。ちょうど日本の神道と仏教とが混合することで、「南無八幡大菩薩」(なむはちまんだいぼさつ)などという神仏への呼びかけがおこなわれるようになったのと類似しています。その結果カナン定住後のイスラエルでは、外敵との戦いの場合には、部族間の結合を強めるために、ヤハウェへの契約信仰に基づく12部族連合が結成され(前1200年頃か)、他方日常の生活では、バアル的祭儀宗教がおこなわれるという宗教形態の二重性が生じたのです。
知っとうや? 漢字の起源
最近ではシュメール時代の約5200年前の絵文字であるウルク古拙文字が最古ではないかという説もあるようです。
しかし、私は、現在の基礎となった文字は、おそらく1万年前くらいに、現在のエジプトで発生したのではないかと考えています。
漢字の起源は、定説では発祥は中国で、その時期は少なくとも約3500年以上前のようです。
現存する漢字で書かれた書物が3500年前ですから、発祥はそれ以上前になると思います。
シュメールやバビロンの時代の人たちが東征し中国へ行って、シュメール語や古代ヘブライ語から漢字に変化したと考えられないでしょうか?
何故、縦書きになったのかは分かりませんが。
そして、秦の時代、始皇帝が字体統一を行って、今の漢字の基礎が確立したようです。
日本には、5世紀から6世紀頃に漢字が輸入されています。
始皇帝の末裔と言われる秦氏を中心とした渡来人が持ちこみ、535年の継体天皇誕生の頃から急速に広まっていったようです。
漢字は、中国でシュメール文字やヘブライ文字から進化したという説には十分納得できそうです。
夏王朝の創始者は漢族ではなく東夷人であるからですhttp://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2436.html
西安を中心に居住していたのが漢族で、中華圏に属さない東の地は「東夷」と称されていた。そこは山東半島の東シナ海に面した地域のことですが、ここは始皇帝が中国全土を統一し戸籍編入する前は異なる文化圏だった。ここが徐福のいたところでもある。黄帝(漢族)と戦った蚩尤民族とはこの東夷のことだったのでしょう。
2500年前の山東省の人類集団は、DNAから見た場合、現代ヨーロッパ集団と同じクラスターを形成していて、現代ヨーロッパ人集団や現代トルコ人集団に遺伝的に近い集団だったという。つまり、戦国春秋時代に山東省にいた人間集団は、今の漢族とはまったく違うヨーロッパ系の人種だったという。
この春秋時代には北イスラエルの滅亡があり、新たな「カナン」の地を求めて、続々と東アジアに集結してきたのでしょう。それが「九夷」と呼ばれる存在ですが、それはイスラエル人の祖であるシュメール人がこの東アジアにやってきたからでしょう。彼らはその伝承を元に遥々大陸を横断して来た。このシュメール人が作った王朝が夏王朝だとオイラは睨んでいる。
夏王朝は17代470年に渡って王朝が続いたといい、後に殷によって滅ぼされたというが、この殷(商)もまた東夷に属する者たちであり、漢民族ではなかったのです。その殷も周に滅ぼされ、契丹族や烏桓族や扶余族などに逃込んで同化していった。
※註 夏王朝は姜姓、殷王朝は子姓、周王朝は姫姓。姜水で生まれた炎帝(神農)が姜姓を、姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗ったのです。神農は「火徳の王」であったので炎帝と称したといい、その姿は人身牛首、身の丈は八尺七寸で蚩尤(しゆう)を彷彿とさせるのです。黄帝(軒轅)が天子の位につくにあたって炎帝(の子孫)と争ったといいますが、これが黄帝と蚩尤の戦いとして記されたのです。
そして、中国中原に残った東夷人が大挙して亡命した先が日本であり、その最大のものが徐福の東渡だったと思う。
何故、徐福伝承と伝える東三川の兎足神社に兎が祀られているのかも、これで謎が解けてきます。この神社の祭神は穂国造であった「菟上足尼命」とのことですが、一般には孝元天皇の後裔の葛城襲津彦命の四世孫で、足尼(すくね)は宿禰(すくね)だとされていますが、これは架空の人物でしょう。
オイラは夏王朝の始祖・禹王の「禹」が、本当の祭神だと睨んでいる。
禹王(別名:文命)は今から4000年前、繰り返す黄河の氾濫を治めた事から当時の伝説の五皇帝の1人「瞬」に認められて天子となり、夏王朝の初代皇帝となったという。またこの事蹟から「治水神」としても崇められた。この逸話から京都五条橋中島の「禹王廟」には禹王が水神として祀られていたり、群馬県片品村(尾瀬)には「禹王の碑」がある程に日本ではよく知られた人物なのです。兎足神社近辺は豊川の氾濫でよく洪水起きたそうですが、現在の地も洪水で流されてたどり着いた場所。よって、治水神を祀る必要性があったと思われるのです。
※註1 実は『ギルガメシュ叙事詩』に出てくる大洪水伝説での預言者ウトナピシュテムが「禹王」だという説もある。ウトナピシュテムの名のウトはシュメールの太陽神のウトゥからであり、禹王も洪水を治めて荒廃した土地に人間が住めるようにした人物。契丹族の祖王のことを葛禹図可汗(遼史では葛烏兎可汗)と記し「禹王=烏王」であることが分かる。不死を追い求めていたギルガメシュ王は、一種の地上の楽園・ディルムンで、ウトナピシュティム(シュメール神話のジウスドラ)に出会ったが、ウトナピシュティムは大洪水によってすべての生命を破壊するという神の計画について、エア神(シュメールのエンキ神)が警告し、船を作って彼の家族や友人、財産や家畜を守るよう指示したことを語っている。大洪水の後、神はみずからの行動を悔やみ、ウトナピシュティムに不死を与えたという。徐福が何故「不老不死」について知識があったのかは、このウトナピシュティム=禹王ということと、徐福が夏王朝の王族末裔であったことから、自ずから答えが出てくる。
※註2 2007年7月20日、中国メディアは、湖南省衡山県福田鋪郷雲峰村の農民宅で発見された重さ10tの巨石が「禹王碑」である可能性が高いとの考古学者の鑑定結果を伝えた。中国最古の石刻「禹王碑」は約1000年前の宋代に消失したといわれており、現代では宋代に作られた複製品が残っているのみ。
※註3 中国の嵩山の近くには夏王朝の始祖「禹王」が築いたと伝えられる陽城がありますが、この「嵩山」という地名が東三川の石巻山の北側にもあるのです。
烏は中国の夏王朝の禹王の一族のことを指すというが、実際、禹王の一族には烏桓族・烏孫族・契丹族・扶余族などがいたが、太陽を追い東へ東へと大陸を移動していった。太陽に住む三本足の烏とはこの事例が基になった伝説なのでしょう。語り部によれば、徐福末裔の弥生人を「烏」(特に恭順手先化した者を八咫烏)と称したといいますが、実は、この辺に理由があるのかもしれませんね。
但し、「禹」という文字は本来「蜥蜴」「鰐」「竜」の象形文字であり、禹の起源は黄河に棲む水神だったといわれている。夏王朝は羌族(チャン族)から興ったといいますが、炎帝神農氏を生んでもいる。羌族は元々は河南省にあったが、殷に追い立てられ長江上流にまで逃げ延びていった。そして、殷からは生贄にされた羌族の1万4000体の遺骨が出土しているが、この羌族が夏王朝を興した民族なのだろう。
このチベット系の羌族はそのルーツを調べた結果、「失われたユダヤ十支族」の1つ「マナセ族」だとイスラエルの調査機関アミシャーブが認定している。ただ外見は長年にわたって漢族との間で婚姻を重ねてきた結果、漢族とあまり変わらなくなってしまったが、、、
※註 苗族の祖先といわれる蚩尤(しゆう)は、『路史』によると羌(きょう)が姓とある。羌族と苗族には何かつながりがあるように思える。どちらも幾何学的模様を好んでいた。
羌族は自らを「アブラハムの子」を称していて、伝承によれば、もともと地中海沿岸に住んでいたが3年3ヶ月かけて中国の地に移住して2300年間住み続けているという。性格的には正直さ、隣人愛、相互扶助、親愛、寛容、謙虚、廉恥、頑迷といった特長があり、唯一神「ユイワ」を信仰し神に犠牲を捧げていたという。
兎足神社も昔は動物犠牲を捧げていたことは、よく知られていますね。
※註 今でも雀12羽を犠牲に捧げていますが、昔は猪だった。その獣は近くの日色野で飼育していたという。もっと古くは人身御供を捧げており、大祭の日(風まつり)にこの橋を最初に渡る若い女を生け贄にする風習があったという(汗)。 この残忍な様を見た国司・大江定基(和泉式部の父)は出家して唐に留学したという。で、オイラは「風まつり」の「風」とは風と嵐の神であエンリルではないかと睨んでいるのだが、、、昔から東三川のことを中央構造線の深いV字谷が平坦に広がる唯一の地域だったことから、オイラは「風の谷」と称していたのですが、やはり、東三川はエンリル=バアル神を祀る「風の谷」だったのだす。
徐福は扶余や加羅や百済の王家の「余」姓に通じる「徐」姓を持っていますが、宮下文書では徐福は軒轅(黄帝)の第四子・忠顕氏の六世孫の万正氏が夏の禹王に従ったとあります。代々、夏王朝に仕えたが夏滅亡後に仕えることを止めたという。そして、万正氏の48世孫、正勝(子宗)は文学に優れ、周の武王(發)に仕え徐姓を得て楚国に封じられたと記されている。これが徐姓の起源。
一方、最近の考古学的成果からも、徐家とは三皇五帝の末裔で、尭帝・舜帝の時代には宰相を出し、夏王朝の初期に「徐」に封じられた王侯の血筋。その子孫は代々長江、准河、泗水、済水の流域一帯に栄えた中国屈指の名門「徐王」の末裔で、その直系子孫が徐福ということが分かってきた。
しかも、徐福は嫁を「夏家」からもらっているのです。
徐福は夏王朝の継承者だったのかもしれません。が大陸から持ってきたのが、治水神としての「禹王」信仰なのかもしれない。
徐福が旅立って帰ってこなかったことが蓬莱・扶桑信仰に拍車をかけ、大陸の長江から稲作を携えてゾクゾクと日本列島にやって来たのが「倭人」と呼ばれる弥生人であり、大陸では「越人」と呼ばれていた人びとです。この大量脱出は楚の脅威から逃れる為でもあった。
越人は皆、体中に入れ墨を施していたが邪馬台国の人も全身に刺青をしていたと倭人伝に書かれている。一方、大陸に残った人達が、のちに南下してベトナムを建国したのです。移動しなかった越人は遼東半島に強制移住させ、さらに南方に逃がれた者は馬韓に達し、馬韓が割き与えた東部の土地に雑居して集落を作っていた。越人は辰韓、楚人は弁辰と呼ばれるようになったのです。
※註 越は大陸に多く分散して集落を作っており「百越」と呼ばれていた。