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日本とシュメールとユダヤ

2020.10.17 05:28

https://ameblo.jp/tsukioto2011/entry-11384030141.html【日本とシュメールとユダヤ】より

日本とシュメールとユダヤについておさらいしてみる。

日本の天皇家の象徴は16分割、16弁、16弁菊花紋となっている。菊は日本固有の種ではないため、菊花を日本の天皇家の象徴とするのは無理があり、国民に分かりやすい菊の花の形で表しているが、もともと宇宙周期象徴学によりもたらされたものである。さて、あの16弁菊花紋は実は他国にも存在する。シュメールはもちろん、イスラエル、エジプトなど数カ国に亘り存在する。このことは何を物語っているのであろういか。そうシュメールの叡智が太古の昔には伝播していたことを物語っている。

では、シュメールが日本の起源なのであろうか。是であり否である。シュメールに渡ってきた集団は、なんとその昔に日本から出た叡智集団が元にあるということらしい。

太古の叡智の保持者集団は、その叡智を年代を亘って保持するために、地球の聖なるスピンリズムに従って、周期的に地球上を移動してきた。この話が一部の日本の古文献である「竹内文書」等に記されているのである。竹内文書によると、その昔に日本の天皇(世界の盟主で当時の呼称は不明)が世界を統治していたとされている。

そして日本の地から移動して行き着いた先のシュメールの地を選んだ理由は、実は計算された結果で選ばれた地であり、脈動ポイントにてなるべくして文明を開化させた。

前記したが、もう一度日本とシュメールを往復した理由を確認してみる。

文明サイクルは大地の脈動という聖なるリズムと連動している。その物理的なサイクルはどのようなものか。それは地球が持つ聖なるリズムであり、「1611年ごとに経度にして22.5度」ほど焦点が西側と同時に一対の反転運動として東側に回転するスピンである。

東洋文明の流れは次の通りだ。

シュメールに端を発した流れによりインダス文明(モヘンジョダロ)が生まれ、次にガンジス文明が起き、中国の唐に移り、最終的に日本に流れている。シュメールから東回り(右回り)スピンのコースとなっている。

超古代の日本人はこの宇宙の法則や地球のスピンリズムを把握していたので、これに従い地球上を移動したのだ。(千賀一生し「ガイヤの法則」)

では、シュメールの叡智をもたらし、元からその叡智を保持していたのは、今の日本民族だろうか。そうではないらしい。

日本には太古の昔もともと定住していた人々がいたし、1万2千年前ごろにはムー大陸が沈むときに、ムーの一部であった今の日本の地に多くのムー人(神皇産霊:カミムスヒ:カミムスビの神一党)が流れて住み着いたと思われる。

このときにムーの文化度の高い集団が加わわっていたそうである。

日本列島で1万年以上前には、非常に直観的なセンスを持った人々によって、自然界と調和した文明が完成していた。彼らは宇宙の本質を直感によって把握し、それゆえに数百人規模の小都市がそれぞれ正円形で設計され、それぞれの都市が集まった全体の配置も正円形で設計される完全な計画都市文明を開花させていた。それは、彼らがMU(ムー)と呼んだ偉大なる大自然の母性力を受容するための必然的構造であった。

(千賀一生氏「ガイアの法則」)

その後時代が下り古墳・飛鳥・奈良時代にはシュメールからの逆戻りルートで東洋ユダヤとして秦の始皇帝が派遣した除福らの集団と物部一族やその後に別派の秦氏一族の集団が朝鮮半島を経由して日本に流れて来て、保有するユダヤの叡智を携えて(日本発シュメール経由のユーターンで持ち帰り)日本に渡り住み着いた。

12000年前ごろのムー大陸時代の記憶や記録が消失する中で、太古の歴史は忘れ去られたが、一部の記憶が日本神話となり、日本書紀、古事記に記されている日本の国生み神話が有る。

最初に出来た島は正式な島は淡路島となっているが、チャネリングによると実は日本に移り住んだムー人は各地に移り住んだ時に、中心メンバーが移り住んだのが淡路島であったため、そのかすかな記憶が元で、淡路島が最初に作られたという話に置き換えられているのだ。

また、日本の神々を祭る現代の日本神道の基礎は元日本人(四国に住むセム系ユダヤ人。遠い昔には日の元の国を「ヒミ」と名づけ精神を主(ス)と仰ぐ民人らが土着していた。)が基礎をつくり、その後シュメールに渡り、シュメールに居た現日本・セム系ユダヤの10支族が東方にユータンすべくペルシャを経由し、シルクロードを通り中国や各地の民族と混血しつつ、後代に東洋系ユダヤ人となって戻り来た、物部氏や秦氏によって確立され発展したという。(竹内睦秦氏)

事実、日本の神社(ユダヤの幕屋方式)は紀元前300年ごろ渡来してきた物部氏が最初につくり、その後、紀元後300年ごろに渡ってきた秦氏が現在存在する由緒ある神社の大半を創建している。

奈良時代以前で物部氏が奉じた神道は一神教(ユダヤ教?)だったらしい。物部氏は大神(おおみわ)神社、石上(いそのかみ)神社、石切(いしきり)神社を創建した。

その後に渡り来た秦氏はというと、京都の賀茂(上下)神社、稲荷神社を筆頭に松尾神社、八幡神社、日吉神社、金毘羅神社、そしてなんと伊勢神宮までをも創建している。

秦と羌族とユダヤ十支族の話に移る。

中国の歴史は殷から始まったとされる。しかし当時は西域を支配し、中国を2分していたのは羌族であった。その羌族は少数民族として現代にまで生き延びている。そのルーツを調べた結果ユダヤ十支族であるとして、イスラエル共和国の調査機関であるアミシャーブが認定した。

面白いことがある。羌族と中国を2分した、秦の帝王である秦の始皇帝の出自のことである。秦国の王家はもともと馬の飼育の功績が認められて諸侯の列に加わることが出来たわけだが、さらにさかのぼると遊牧民だった。また、秦の始皇帝の父親は荘襄王ではなく、宰相であった呂不韋(りょ ふい)といううわさが現代にまで伝わっており、その呂不韋(りょ ふい)はなんと羌族であった。

秦の始皇帝の容姿は紅毛碧眼という言い伝えが残っていて、ペルシャ系統の羌族であったかもしれない。そのアケメネス朝ペルシャには多くのユダヤ人がいたという「旧約聖書・」エステル記」に記録されている。そして時代は上り、アケメネス朝時代に居たユダヤの末裔が秦帝国に流れ、同帝国には多くのユダヤ人が数多く存在した。(飛鳥照雄氏)

ともあれ現存する有名な神社は東洋ユダヤ人が創建したといっても間違いないであろう。

伊勢にもイスラエル関係の逸話がもこっている。五十鈴彦と石切彦そしてイスラエルだ。

正当竹内文書では神武天皇が来る前に伊勢一体を治めていたのは、イスズヒコ(五十鈴彦)であり、またの名をイセツヒコ(伊勢津彦)というが、なんとイエス・キリストだという。

イスズヒコは伊勢の磯部家を支配していた。竹内氏によるとキリストは日本に2回来ており、出雲族と仲が良かったらしい。また、別途にイシキリヒコ(石切彦)という弟も来ていて、最期は日本で亡くなったとされている。(竹内睦秦氏)

イシキリヒコは現代で言えば土木工事である石工や測量に秀でた技術集団の長として日本全国を測量し、なんと最期は青森の戸来村でなくなったとされ、竹内巨麿の公開した竹内文献の記述と同じである。

イシキリヒコは物部一族とも仲が良く、奈良や大阪の石切神社のご祭神になっている。

イスズヒコが伊勢地方を管理していたとすると、ユダヤ人と言っても古代の多数のイスラエル人(セム族)が入植していたと思われる。

ちなみに竹内氏によると、イスラエルの語源はイセラエルのことで、古代ヘブライ語の意味は「栄光なる伊勢」となる。となると神武天皇を地元伊勢のサルタヒコが道案内をしたが、奇異な風貌だったのは、ユダヤ人だったからかもしれない。日本の正史にはユダヤ人の記録はないが、意図して隠匿されたようだ。

ただし、ユダヤ人として記録に残っているのは、竹内氏によると奈良時代の渡来集団の秦氏であり、彼らは「日本(スメル)族の分家の分家」的な存在で、どうも3種(10種)の神器は持っておらず、彼らの秘宝はアーク=聖櫃(のレプリカ?)だけであり、日本に来ればお神輿(みこし)にされてしまったそうだ。