イザヤ書1~39章の歴史的背景
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●イザヤ書は66章からなる壮大な預言書であり、分量的にも、また内容においても、偉大な書であると言えます。この書に真に向き合って取り組むことを通して、御霊の助けにより、神の救いのご計画の全貌を知ることができると信じます。
●今日、イザヤ書は二つ、あるいは三つに分けられることがあります。二つの場合は、1~39章までの部分と40~66章までの部分です。1~39章まではアッシリアを背景としてながら警告と預言がなされている。40章以下はの背景はバビロンです。三つの場合は、
第一イザヤ(1~39章)、バビロン捕囚前にエルサレムでの40年間に語った預言。
第二イザヤ(40~55章)、バビロン捕囚地での預言。
第三イザヤ(56~66章)、バビロン捕囚からの帰還後の預言。
●しかし、それぞれに「主の御口が語られた」(1:20/40:5/58:14)とあることから、イザヤ書が最終的に一人の編集者の手になったことを示唆しています。
●預言された期間は約60余年間に及びますが、全体としては一貫した書として、統一された書として解釈される必要があります。いずれにしても、イザヤ書全体の主要メッセージは「審判と回復」です。この二つの鍵語はそれぞれ別個のものではなく、「神によってさばかれた民が、神によって回復させられる」というつながりがあります。しかもその回復は人間的に見るならば不可能に近いのですが、それはただただ神から油注がれたメシアによって実現するのです。それが「御国の福音」と言われるものです。それはいまだ実現していませんが、メシアの再臨によってこの地上に完全に実現する御国(千年王国)なのです。そこには、神と神によって選ばれた民イスラエルとの壮大な愛のかかわりのドラマが啓示されているのです。私たち異邦人の救いもそのご計画の中に接ぎ木されているのです。
●66章に及ぶイザヤ書の歴史的背景は、以下のように分けられます。
「南ユダ王国の年代表」(改訂)
画像の説明
1章1節の表題はイザヤ書全体に呼応しています。
【新改訳改訂第3版】
アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。
つまり、イザヤ書は「アモツの子イザヤの幻」、すなわち「ユダとエルサレムについて、彼が、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世に見た幻」が記されているのです。「幻」はヘブル語で「ハーゾーン」(חָזוֹן)、「啓示」とも訳されます。その名詞は動詞の「ハーザー」(חָזָה)から派生したものです。「ハーザー」は「見る」「注視する」「仰ぎ見る」という意味ですが、イザヤは霊的な目で見たのです。そして見たことを語ったのです。イザヤが見たヴィジョンの射程は、神のご計画における「終わりの日」にまで及んでいます。つまり、すでに歴史の中で起こったことと、いまだ実現していないことが含まれているのです。
ダビデのお抱え預言者であったナタンは自分が見た幻をダビデに聞かせました。その「幻」とは、以下のことです。
【新改訳改訂第3版】Ⅰ歴代誌17章11節
11 ・・・わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
12 彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。
13 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。わたしはわたしの恵みをあなたの先にいた者から取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。
14 わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」
この預言が実現するのはキリストがこの地上に再臨される時です。つまり、ナタンの預言はメシア王国(千年王国)において実現するのです。これから起こる事ですが、必ずそれは実げするのです。
今日のキリスト教会は、旧約の預言者たちが見たヴィジョンについて深く学ばなければなりません。その場合、置換神学による観点からではなく、神の観点から字義通りに学ばなければならないのです。でなければ、神のご計画の完成が見えてきません。私たちの信仰は神のご計画を知り、そのことを信じることです。この実現のために、イェシュアは十字架にかかり、よみがえらなければならなかったのです。神のご計画全体のほとんどは旧約の中に、特に預言書の中に啓示されています。もしそれを知らずにいるなら、多くの学びや働きが、「空を打つような拳闘」、もしくは「決勝点のない競争」になってしまうのです。