維摩経から(令和2年10月法話)
2020.10.17 22:58
前回は、お釈迦様の10大弟子のおひとり舎利弗と維摩居士のいきさつをお話しました。
今回は、舎利弗と並び称される高弟の、目連と維摩居士とのお話です。
目連も、維摩居士への見舞いを断ります。
その理由はやはり、維摩居士にやりこまれた事が理由です。
それは、
「君は、居士に法を説いているが、君のような説法の仕方はいけない。
説法は、法の如く説くものである。
知識のすぐれた人に、低級な教えを説いてはいけない。
そんな説法は、なんらの利益をも人々に与えない。
元来、法というものには、声聞、縁覚、菩薩のいずれかになるよう法定されるものでなく、
宇宙の万物、その実体はみな空(くう)、全ては平等であるから、
衆生だ、我だ、寿命だ、人だ、または美だ醜だ、というような区別のないものである。
この平等的な見地から、説法をせねばならぬ」と。
☆ ☆
先ずは、「人を見て法を説け」ということでしょうか。
相手の機根(きこん)に応じて話をすることは大事なこと。
しかしどうしても、自分本位で話をしがちになります。気をつけなければなりません。
そして、「空(くう)」が説かれます。
自分が到着点を想定して、そこに導こうとします。
しかし、それにこだわるな、と言われているように思います。
たしかに、自分の思い・考えが絶対に正しいとは限りません。
その故に、私達は信仰をするのだと思います。
正しい信仰をして、幸せになっていただきたいと念願します。